働き盛りの年齢には、仕事を引退したら、読書と映画鑑賞三昧の生活をしたい、と思う人は多いだろうが、実際その年齢になると死が間近に迫っているので、数少ない傑作に出会うために無数の愚作に時間を費やすのが耐えがたくなるのではないか。
とは言っても、プロのクリエイターというのは、案外世間で流れている愚作には寛容である。で、その中から美点を見出すわけだろう。むしろ素人のほうが作品の欠点に厳しい。
(以下「綾辻行人」のツィートを引用)
自分はいろんなキャパシティが小さいため、あれもこれもはできないので、引退して読書と映画三昧の生活で余生を過ごしたい、とも思うのだが、一方で「まだあれこれ書きたいな」という気持ちもあるので、結果として時間が足りない。悩ましいお年ごろです。
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某有名ベストセラーを今どきのなろう小説風のタイトルにしたのが面白い。
タイトルだけで導入部分を全部説明するわけだ。
(以下引用)
タイトルだけで導入部分を全部説明するわけだ。
(以下引用)
99: 風吹けば名無し 2021/03/11(木) 23:41:54.20 ID:+gZJ3jFi0.net
交通事故で死んだ妹の子供なので叔母家族は散々馬鹿にしてきましたが、本当は有名な魔法使いの息子でした。
魔法学校からの手紙が届いてから部屋に閉じ込めたって無駄ですよ?
魔法学校からの手紙が届いてから部屋に閉じ込めたって無駄ですよ?
136: 風吹けば名無し 2021/03/11(木) 23:44:17.41 ID:L+3fEQPgd.net
>>99
魔法使いの子供なのはばれてたから余計冷遇されてたんだよなあ
魔法使いの子供なのはばれてたから余計冷遇されてたんだよなあ
138: 風吹けば名無し 2021/03/11(木) 23:44:25.40 ID:KRMBzgS20.net
>>99
こう書くと見る気失せるからタイトルって重要やわ
こう書くと見る気失せるからタイトルって重要やわ
後半と言うか、「部下に無理な要求をするな」は同意だが、前半はまったく同意しない。
社長の仕事と社員の仕事はまったく別だろう。事務の仕事が抜群の社員が社長として優秀かどうかは分からないし、社長はできても事務仕事は無能という社長もゴマンといるだろう。
まあ、社長の仕事って何だ? と言われても想像できないが、有力な知り合いと会食したり酒を飲んだり、銀行からカネを借りたりするのがメインだという気がするwww
下のツィートは、優秀な人間が社長になるという前提で語っており、優秀な社員が出世して社長になる例もあるだろうが、稀な気がする。優秀な社員はその職務で優秀なのであって、それが重役や社長として優秀とは限らないし、社員が出世するかどうかは上の人間の恣意的な判断でしか決まらないだろう。
(以下某漫画家のツィッターから転載)
著者は忘れましたが、昔読んだ本で「社長のあなたが部下にあなたと同じ能力を要求するのは愚かだ、そんな能力があったらその部下は社長になっていて、あなたの下で働いたりしない」という意味のことが書かれていて、部下に無理な要求をする人は多くがこのパターンだと思っています。
社長の仕事と社員の仕事はまったく別だろう。事務の仕事が抜群の社員が社長として優秀かどうかは分からないし、社長はできても事務仕事は無能という社長もゴマンといるだろう。
まあ、社長の仕事って何だ? と言われても想像できないが、有力な知り合いと会食したり酒を飲んだり、銀行からカネを借りたりするのがメインだという気がするwww
下のツィートは、優秀な人間が社長になるという前提で語っており、優秀な社員が出世して社長になる例もあるだろうが、稀な気がする。優秀な社員はその職務で優秀なのであって、それが重役や社長として優秀とは限らないし、社員が出世するかどうかは上の人間の恣意的な判断でしか決まらないだろう。
(以下某漫画家のツィッターから転載)
著者は忘れましたが、昔読んだ本で「社長のあなたが部下にあなたと同じ能力を要求するのは愚かだ、そんな能力があったらその部下は社長になっていて、あなたの下で働いたりしない」という意味のことが書かれていて、部下に無理な要求をする人は多くがこのパターンだと思っています。
たなかしげととかいう人のツィートだが、議論の前提部分が不確かな感じがある。いや、私も正確な理解はしていないが、「氏」と「姓」の区別をして論じているのか、下の文章でははっきりしない。基本的に「氏」はその一族の社会的記号だろうし、一部の一族だけに許されたものだったと思う。確か、「源平藤橘」の四氏しかなかったのではないか。だから、素性の知れない成り上がりは、無理やりに自分を「源氏の末裔である」とか何とか偽系図を作ったと思う。
姓は、その「一家」の表象である。しかし、これは武家特有と言うか、中世以降のものではないか。貴族にも姓があったと見るのかどうか、私はよく知らない。貴族社会では、「家」より「一族」が重要だったのは確かだろう。名乗りの際に「藤原の何とか」と言えば、「ああ、藤原一族のあの家だな」というのは貴族なら誰でも即座に分かるので、「何々家」と言う必要もなかったと思う。
言うまでもなく、庶民にはこうした氏姓制度は無関係の話である。庶民には氏どころか姓も無く、名前だけがあった。それが、明治の一応は「四民平等」の原則で戸籍を作るために新たにでっち上げたのが現代の「姓」の大半であり、だから、「住居が田んぼの中にあるから田中」とか、「川の上にあるから川上」とか「村の中にあるから中村」のような姓が多いわけだ。
なお、下のツィートに関して言えば、庶民のほとんどは百姓だから「家業を継ぐ」理由で氏や姓が必要か不要かというのは論点がずれている。家業も氏姓制度も無関係に、百姓に生まれれば百姓というのが江戸時代の庶民の宿命である。「家業」を継ぐのは商人や職人だが、職人に氏や姓は不要だし、商人に必要なのも氏や姓ではなく「屋号」である。
(以下引用)
そもそも明治以前にはほとんどの人は「氏」というものを持っておらず、それにもかかわらず家産を継承して家業を継続することはできていたわけで、「家」を継ぐのに「氏」は必要ない。
姓は、その「一家」の表象である。しかし、これは武家特有と言うか、中世以降のものではないか。貴族にも姓があったと見るのかどうか、私はよく知らない。貴族社会では、「家」より「一族」が重要だったのは確かだろう。名乗りの際に「藤原の何とか」と言えば、「ああ、藤原一族のあの家だな」というのは貴族なら誰でも即座に分かるので、「何々家」と言う必要もなかったと思う。
言うまでもなく、庶民にはこうした氏姓制度は無関係の話である。庶民には氏どころか姓も無く、名前だけがあった。それが、明治の一応は「四民平等」の原則で戸籍を作るために新たにでっち上げたのが現代の「姓」の大半であり、だから、「住居が田んぼの中にあるから田中」とか、「川の上にあるから川上」とか「村の中にあるから中村」のような姓が多いわけだ。
なお、下のツィートに関して言えば、庶民のほとんどは百姓だから「家業を継ぐ」理由で氏や姓が必要か不要かというのは論点がずれている。家業も氏姓制度も無関係に、百姓に生まれれば百姓というのが江戸時代の庶民の宿命である。「家業」を継ぐのは商人や職人だが、職人に氏や姓は不要だし、商人に必要なのも氏や姓ではなく「屋号」である。
(以下引用)
そもそも明治以前にはほとんどの人は「氏」というものを持っておらず、それにもかかわらず家産を継承して家業を継続することはできていたわけで、「家」を継ぐのに「氏」は必要ない。
古代の事物や事件の記録を現代的合理主義だけで考察するのは不適切かもしれないが、私は人間の本性は案外合理主義的であり、ただ、その古代的装飾のために後代では意味が不明確になったのではないか、と思っている。
「古事記」の中によく出てくる、女性が「女陰を箸(など)で突いて自殺した」という記述が私はいつも不思議でならなかった。自殺するにしても、なぜ女陰を箸で突くという方法を取るのか。実際それで自殺できるなら、なぜ記紀以降の歴史書の中にそういう自殺の事例が出てこないのか。
これは、その死に方に何かの意味があるか、あるいは死んだのではなく、「存在が無化された」ことの意味ではないか。つまり、たとえば「女性としての存在価値が無くなった」という意味ではないか、ということだ。死に方の意味としては、「当人にとって不名誉な死」かもしれないし、「面当て的な死に方」かもしれない。いずれにしても、その死に方には何かの意味があると思う。もともと「空洞」である女陰を箸で突くことで本当に死ねるのか。死ぬならもっと確実な死に方がいくらでもあるだろうに、なぜ「女陰を箸で突いて死ぬ」死に方を選ぶ必要があるのか。
やはりここには何かの象徴的意味があるように思われる。
にも関わらず、この「女陰を箸で突いて死ぬ」ことを問題視した学者や歴史家や歴史小説家を私はひとりも知らない。
もっとも単純な考えは、「自分の女陰に罰を与える」意味だろう。確か、蛇神に犯された娘が「女陰を箸で突いて死ぬ」死に方をしたはずだ。これは、「女陰ゆえに蛇に犯されるという辱めを受けたから、その原因である女陰を罰する」という意味かと思う。それで女が本当に死んだかどうかは記紀の記述者にはどうでもいいのであり、「交わるべきでない相手と交わった女には罰が下る」という思想がこうした「伝説」には隠されているのではないか。とすれば、「女陰を罰する」とは、女が女陰を持っていること自体が悪いという思想であり、ミニスカートをはいている娘は痴漢されても女が悪いという現代の一部の男たちの思想とさほど遠くはないのではないか。
そして、こうした「女陰が悪の原因だから女は差別してよいし、女陰は罰するべきだ」という思想は悪しき意味での合理主義(キチガイ的合理主義)ではあるわけだ。
「古事記」の中によく出てくる、女性が「女陰を箸(など)で突いて自殺した」という記述が私はいつも不思議でならなかった。自殺するにしても、なぜ女陰を箸で突くという方法を取るのか。実際それで自殺できるなら、なぜ記紀以降の歴史書の中にそういう自殺の事例が出てこないのか。
これは、その死に方に何かの意味があるか、あるいは死んだのではなく、「存在が無化された」ことの意味ではないか。つまり、たとえば「女性としての存在価値が無くなった」という意味ではないか、ということだ。死に方の意味としては、「当人にとって不名誉な死」かもしれないし、「面当て的な死に方」かもしれない。いずれにしても、その死に方には何かの意味があると思う。もともと「空洞」である女陰を箸で突くことで本当に死ねるのか。死ぬならもっと確実な死に方がいくらでもあるだろうに、なぜ「女陰を箸で突いて死ぬ」死に方を選ぶ必要があるのか。
やはりここには何かの象徴的意味があるように思われる。
にも関わらず、この「女陰を箸で突いて死ぬ」ことを問題視した学者や歴史家や歴史小説家を私はひとりも知らない。
もっとも単純な考えは、「自分の女陰に罰を与える」意味だろう。確か、蛇神に犯された娘が「女陰を箸で突いて死ぬ」死に方をしたはずだ。これは、「女陰ゆえに蛇に犯されるという辱めを受けたから、その原因である女陰を罰する」という意味かと思う。それで女が本当に死んだかどうかは記紀の記述者にはどうでもいいのであり、「交わるべきでない相手と交わった女には罰が下る」という思想がこうした「伝説」には隠されているのではないか。とすれば、「女陰を罰する」とは、女が女陰を持っていること自体が悪いという思想であり、ミニスカートをはいている娘は痴漢されても女が悪いという現代の一部の男たちの思想とさほど遠くはないのではないか。
そして、こうした「女陰が悪の原因だから女は差別してよいし、女陰は罰するべきだ」という思想は悪しき意味での合理主義(キチガイ的合理主義)ではあるわけだ。
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冬山想南
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