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少なくとも、舞台が10世紀前後の西洋中世なら、銃や高度な機械が出てくるのは索然とした気持ちになる。中世が舞台なら「剣と魔法」で十分であり、科学や近代の産物を入れてはならない。
私の場合は中世的舞台のアニメやRPGに眼鏡キャラが出てきただけでウンザリする。むしろ、近眼であるための不利を何かの方法で克服した剣士が出てきたら燃える展開になるのではないか。安易に眼鏡キャラを出すのはやめてほしい。日本の時代劇でも眼鏡キャラの剣豪というのは、たとえ名作の「サムライチャンプルー」でも、私は嫌だった。眼鏡そのものは江戸時代にはあったと思うが、それを付けた剣豪というのは存在しなかったと思う。つまり、眼鏡を着用して激しい動きをするのは不可能だったはずだ。
もちろん、スチームパンク程度の「近代初期、あるいは近代直前の科学」というものの魅力は分かるが、それとチャンバラは別だという話である。

(以下芦部拓のツィートを引用)


時代劇の舞台は想像上の江戸時代、一種の異世界だったというのはまさにそうで、現実の江戸を知る三田村鳶魚なんかにはメチャクチャ腹立たしいものだったのは、『大衆文芸評判記』に明らか。だから僕なんかが疑似西洋中世風ファンタジーにコレジャナイ感を抱くのも、単なる頑迷固陋という気もするのです twitter.com/Parfum772/stat…



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記紀における神話時代の人名のうち
「ミコト」は天皇家の人間
「カミ」は天皇家以前からの土着の豪族の象徴化
という仮説。
記紀における「カミ」は必ずしも超人的存在でなく、あるいは優越的人格を持たない。むしろ、「悪しき神」もたくさん出てくる。これは地方豪族の象徴と見るべきだろう。その「カミ」の中から天皇家に援助する「善神」も出てくるわけだ。
ただし、土着の豪族のすべてが縄文系というわけではなく、天皇家以前から日本全体に住み着いた大陸系の部族もいるわけだ。ただ、天皇家は「稲を持参してきた」(稲作の技術を持った)部族で、そのために財産蓄積が可能になり、勢力を拡大できたのではないか。


なお、「高天原」は「タカ・アマ・ガ・ハラ」が訛って「たかまがはら」になったものだろう。これは朝鮮半島全体かその一部ではないかと思う。つまり天皇家の父祖の地である。


(訂正)「カミ」を天皇家以前から日本列島に住んでいた土着の豪族とするのではなく、単に「天皇家以外の豪族」とする。と言うのは、「高天原」に住んでいたのも神々だったからだ。その中から、日本列島に渡来した豪族たちに関する記述が「国生み神話」だろう。つまり、「国生み」とは朝鮮系部族による日本列島侵略の象徴化だということである。国生みの最初が「ヒルコ」だったというのは、侵略に失敗したことの象徴ではないか。その次に淡路島が生まれたというのは、最初に朝鮮化したのが淡路島だったということで、それは現代でも淡路島が朝鮮系の人々(竹中某など)にとって象徴(日本支配の象徴)的意味を持っていることにつながっているかと思う。


(追記)ここに書いてあることは、単なるその場その場の思い付きだけなので、根拠はほとんど無いし、事実の間違いもたくさんある。上に書いた中でも、「カミ」は天皇家以外の豪族に限らず、「天照大神」という大物がいるwww ただし、これは女性であり、また「祖神」であるから、「カミ」としか言えない、とも言える。
また、天皇家は朝鮮渡来の一族だというのは、記紀でのさまざまな事柄から私は確実視しているが、この説の難点は、「それならなぜ天皇家では、少なくともその内部で朝鮮語を使い、それが伝統となっていないのか」ということである。彼らが朝鮮人でありながら、日常でまでわざわざ「外国語」である日本語を使っていたとは思えない。ただ、古代の天皇家の歴史が天皇家内部での殺し合いであったという事実は、彼らが大陸系、あるいは半島系の血筋であることを伺わせる。狩猟民族(縄文人)は財産の蓄積が無いから、同族どうしは協力しあうのが普通であり、地位をめぐって身内が殺し合いをするのは天皇家が渡来人だからだろう。


「リテラ」記事の一部で、すべての内容に賛同するわけではないが、天皇や皇室の「人権」について触れているのは希少なので、転載する。
私自身は、日本の天皇や皇族としての人生は気の毒だなあ、と思っている。まあ、最初から世捨て人と言うか、「世外の人」として生きる道しかないわけだ。

(以下引用)


竹田恒泰が『モーニングショー』で女系天皇否定を強弁! 女性差別を批判され「天皇そのものが差別の根源」と開き直り

基本的人権の制限された皇室をイデオロギーに利用する“男系カルト”

 しかも、安倍首相や竹田サンたち“男系カルト”が置き去りにしているのは、憲法と国民の意思だけではない。実は、この「男系男子」の強制こそが、実は天皇家を苦しめ、抑圧していることに触れず、ひたすら自分たちの願望を喚いているに過ぎないのだ。『モーニングショー』のなかで青木氏がこの点に言及していたが、実はそれこそが、本来、国民がなすべき皇室議論から完全に取り残されているものに他ならない。

「僕らが真剣に考えなくちゃいけないのは、女系天皇を認めるか認めないかっていうことをやるんだったら早くしないと、愛子さんとか眞子さんとかのこれからの人生に関わってくるわけですよ。(人生が)一変しちゃうわけでしょ。だって民間に結婚して出ていくのか、あるいは残って場合によっては天皇になるんじゃないかってことになる。その人生にかかわってくるわけで、天皇制を仮に存続させましょうって言ったときに、非常に人権が制限された立場の方々の、さらに人生を考えなくちゃいけないんですよ。それを本当にやるんだったら、女性天皇を早く入れるという方針を入れてやらないとだめなんですよ。じゃないと、どんどんいなくなってしまうし、やるなら早めにやってあげないと、ただでさえ人権が制限されている皇族の皆さんの人生のことを考えなくちゃいけない」

 周知のように、天皇や皇族は、わたしたちが当たり前に有している権利の多くが、極めて強く制限される。実際、参政権もなければ、職業選択の自由もなく、表現の自由は大幅に制限され、好きな人と結婚することですらあまりに多くの困難が立ちはだかる。この国では誰しもに基本的人権が保障されているはずだが、皇室だけはその領域から隔絶されているのだ。ところが “男系カルト”は、そうした状態をむしろありがたがってみせる。自分は基本的人権を享受しながら、皇室を祭り上げることで天皇を神格化し、イデオロギーに利用しようとしている。

 青木氏が指摘するように、民間人として暮らしていた旧宮家の子弟を、憲法の「基本的人権の尊重」つまり“人間らしく当たり前に生きる権利”の例外へと向かわせることは、すなわち、わたしたち国民の決断として、その“非人間的な生き方を歩ませる人間”を選ぶということに他ならない。それは、仮に法改正がなされ、たとえ「旧宮家の男系男子」その人が自由意志で皇室に入ったとしても同じこと。そこに新たに生まれる赤子は“人柱”だ。産声をあげた瞬間、強制的に人権を制限される。国民は、天皇制を現状維持で黙認しているという以上に、その重たすぎる責任を負わねばならない。

“男系カルト”たちの口車に乗ることは、つまり、そういうことなのだ。連中はしたり顔で「女系天皇は先例がない」「意見の分かれる天皇というのは避けなければならない」「最強のYを継承せよ」などと言うが、いったい何様なのか。いずれにしても、国民が真剣に向き合わないまま、政府主導で皇位継承問題を「解決」させては絶対にいけない。






クリエイターの中にも、娯楽作品を作るのがいかに難しいか知らない人は多いのではないか。特に喜劇映画は実に駄作が多いのであって、だからこそ優れた喜劇映画は貴重なのである。


(以下引用)


『クラジョウ』に限らないけど、作り手が「小難しくない痛快娯楽B級作品を作るぞ」と力んでガチガチになるケースってあるよね。 ジャンルあるあるなシチュエーションをねじ込もうとして滑ったり。






某女性漫画家のツィートだが、「ホモソーシャル」という言葉は小田嶋師がツィートでよく使う言葉だが、だいたいこういう意味だろう、くらいの感じで把握しているだけで調べたことはない。そもそも「ホモ」は和製英語と言うべきで、それ自体は「同一の」もしくはラテン語で「人」くらいの意味だと思う。つまり、男性同性愛者を英語でホモとは言わないのではないか。小田嶋師の用法を見ると「男性同性愛者集団(的な)」という感じで「ホモソーシャル」と使っているように思える。
後で、念のために調べてみる。

(以下引用)


私が近年知ってよかったと思う言葉は「ホモソーシャル」。昔からモヤモヤして、でもどう表現したらいいのかわからなかった、あの現象。

(追記)

社会学としての用語の場合と一般的用法では異なる感じで、一般的用法では女性集団に「ホモソーシャル」という言葉は使わないようだ。とすれば、それは暗に「男性同性愛者的な連中」という軽蔑を意味しているのではないか。


「ホモソーシャル」という言葉を耳にしたことはあるだろうか?

ここ最近、男性の生きづらさや男性へのセクハラなどへの関心も高まってきているが、そうしたトピックを考える上でこの「ホモソーシャル」という言葉を踏まえることはとても重要だと感じる。

そこで今年の8月、パレットークは「ホモソーシャル」をテーマに漫画を公開した。

ホモソ01

ホモソ02

ホモソ03

ホモソ04

世の中には、本当に様々な形での"こうあるべき"が渦巻いている。そうした同調圧力の中で「自分はそれに当てはまれないな」と感じる場合、生きづらさを感じたり、「劣っている」と誰かに評価されてしまったりする。

そうした数々の同調圧力の中でも、男性同士の空間で流れる"こうあるべき"は、かなり厄介だ。その、男性同士の空間で流れる"こうあるべき"を「ホモソーシャル」と呼ぶ。

ホモソーシャルってどういう意味?男同士の絆

ホモソーシャルとは、「同性同士の性や恋愛を伴わない絆や繋がり」を指す言葉だ。特に男性同士の、いわゆる"男の付き合い"といった意味で使われることが多い。一見、"絆"というとポジティブな意味にも捉えられるような気がするが、実は多くの人の生きづらさを生んでしまったり、誰かを傷つけてしまったりしてる。

たとえば次のように感じる人も多いのではないだろうか?

①会社の上司や同僚にキャバクラや風俗に誘われたけど本当は行きたくない
②裸で温泉に入ることや人前で立ちションすることに抵抗がある
③タピオカや甘いものが好きだと言いづらい

①の場合、「男たるもの、女遊びができて当たり前。みんな女遊びが好きだろう」という前提を元に、男性同士の付き合いが深められようとしている。そしてその誘いを断った場合、「男らしくないな」「男が好きなのか?」といった言葉を投げかけられることが容易に想像がつくだろう。

②の場合も「男は裸が恥ずかしいわけがない」「裸の付き合いこそ男の付き合い」といった価値観が共有されている環境では、人前で裸にならないこと/性器を出さないことは「男らしくない」と評価されてしまう。

③の場合は「甘いものや、タピオカのような流行りものは女が好むもの」という意識が根底にある。そうしたものを好きだと言うと、またこちらも「男らしくない」ということになってしまうのだ。

ここでポイントとなるのは、ホモソーシャルな関係性を結ぶために
・ミソジニー(女性蔑視)
・ホモフォビア(同性愛嫌悪)

が発動してしまうということ。

上にあげた例から、"男らしさ"という言葉で表される男性像が、「性的欲求を持つ異性愛者」であることがわかるだろう。また基本的に、女性は男性より劣った存在という価値観がある。だからこそ「一般的に"女性のもの"とされるものを好む男性は劣った男性だ」と評価されてしまうのだ。さらに「そんな女性を性的に消費することはいいことである」というのも、ミソジニーの発露と言える。

そして、こうした"男らしい"あり方から外れると、途端に「男として一人前じゃない」というレッテルを貼られてしまったり、「同性愛者ではないか?」と言われたり…。そう、このような形でもホモフォビアは発動している。

同じ価値観を共有し、同質であろうとすることは、つまり異質なものを排除する、ということ。ホモ(同一の)ソーシャル(社会)な空間は、常に同質ではないもの(女性、同性愛者、そしていわゆる"男らしくない人")を排除することで成立するのだ。だからこそその空間や価値観に共感できなかったとしても、違和感を表明することはとてもハードルが高くなってしまっている。

当然のことだが、"男性"と一言で言っても、顔立ちが違うようにいろんな男性がいる。"女遊び"に興味がない男性、お酒が強くない男性、個室でトイレをしたい男性、タピオカが好きな男性。そしてもちろん、男性のことが好きな男性や、恋愛感情・性的欲求を持たない男性、そして可愛らしい服装やメイクを楽しむ男性も。

この漫画を公開したとき、Twitterなどで男性と思われる方達からとても多くの共感コメントをいただいた。きっと、それだけこのホモソーシャルな空気に違和感を覚える人が多いということだろう。もしかしたら今あなたが1人で感じ、押し殺している違和感を、隣の誰かも密かに感じ、必死に押し殺しているかもしれない。そんなことを考えた。

「どっちが上で、どっちが下」などというヒエラルキーは、いらない。誰かを排除し、傷つけることで作られる繋がりも、いらない。同質性だけが根拠となる絆なんて、本当は必要ない。

そのことが、いわゆる"男社会"とされる環境でも少しずつ広がっていくといいな、と思う。

(漫画:keika、編集後記:伊藤まり











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