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子供心にも、このフレーズのナンセンスな面白みは分かるし、長いセリフを覚えてまくしたてる面白さも分かるだけだろう。「ジュゲムジュゲム」や「外郎売」の類である。

(以下引用)

小学生の長女の口から「いつ?何年何月何日何曜日?何時何分?地球が何回回ったとき?」という煽りフレーズが出てきたのだが、令和の小学生にも根強く生き残る定番フレーズに密かに感銘を受けている。どういうメカニズムで、数十年に渡って異世代間で引き継がれているんだろうか。
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あさりよしとおのツィートだが、実際、萩尾望都があの題名を付けた時は、その程度の安易さだったのではないか。エドガー・アラン・ポーは吸血鬼の話を書きそうな作家だが、書いていないはずだ。まあ、死体が蘇る話はあったような気がするが、それは吸血鬼の話ではない。

(以下引用)

「エドガーでーす!」 「アランでーす!」 「二人あわせて、ポーの一族でーす!」 「血ぃ吸うたろか」 「いー加減にしなさい!」
白川静の「漢字百話」の中に、「我という字はもともと鋸の形である」という文章があるが、下の記述のように中国で鉄器が普及したのはBC4世紀~BC2世紀だとするなら、これは明らかに恣意的な解釈だろう。鉄器の中でも鋸は作製が難しい形態であり、漢字が生まれた当時に普及していたはずはないと思う。「白川漢字学」にはこのような単なる妄想を断定している部分が多いのではないか。


中国の製鉄技術史
    「中国(漢民族)の場合のみは、すでに戦国時代(紀元前400ー200年頃)に、鍛鉄とならんで銑鉄(鋳造用の鉄)を生産し、各種の鋳鉄製品を製作していた。・・・・革命後の考古学による多くの発掘によって、おびだたしい数の斧・鎌・鋤・包丁・鍬などの農工具が出土し、しかもその大半が鋳鉄製品であることが実証されるようになった。続く漢代に入ると、鉄は国家による専売制の下で、銅よりもはるかに安い価格で、ますます大量に生産されるようになる。」大橋周治『鉄の文明』岩波書店、1983年,p.10

戦国時代(B.C.476-221年)に始まった中国における鉄の鋳造技術 ---- その技術的源泉は、古代中国の青銅器の鋳造技術(紀元前18世紀)
古代ヨーロッパでは、青銅器は鍛造されていた。しかし古代中国では新石器時代の末期頃から鋳造で製造されていた。
         「
中国古代の金属製造技術は、「鋳造」に始まったことに最大の特徴がある。このことはその後の中国の金属文化のすべてに大きな影響を及ぼしている。欧州古代においては、青銅器は青銅器時代の晩期においても、鍛造で製造された。しかし、中国においては全く異なり、新石器時代の末期から、青銅器は鋳造で製造された。
        この鋳造技術が一応の確立をみたのは、夏(か)時代(商時代の前、B.C.約1766年)である。商時代初期からほとんどすべての青銅器は鋳造で製造され、商時代は鋳造技術の最盛期となった。現代人が驚くような複雑なものや大型のものも多数製造された。一般に中国は「鋳造の故里」といわれているが、これは中国で鋳造技術が創始され、高度に発展したことやその技術が後世に継承されたことを指すものである。周知のように、鋳造は鍛造よりも生産効率が高いが、高温度まで上げられる熔解炉などの設備と優れた技術者が必要である。古代の文献にも、「鉱石から銅を精錬し、鋳型に鋳込むことができるようになって、初めて金属文化が開花した」とあり、中国古代の金属文化の特徴とルーツを鋳造技術に求めることが多い。」華覚明(中国科学院自然科学史研究所教授)の講演記録「中国古代金属文化の技術的特徴」(田口勇『鉄の歴史と化学』裳華房,1988年,pp.24-25 所収)



鉄の鋳造技術は、ヨーロッパではA.D.14世紀頃からであるの対して、中国ではそれよりも千数百年前の戦国時代(B.C.476-221年)頃に始まった。
         「
青銅器の鋳造技術は、その後の戦国時代(B.C.476-221年)には鉄を対象に適用され、鉄の鋳造技術としてさらに発展した
        。対象が鉄に変わったことによる技術的ギャップは、現在、想像するよりも容易に試行錯誤することによって乗り越えることができたと考えられる。
鉄になった場合の最大の問題点は、多分脆さをカバーすることではなかったかと考える。その技術開発にはかなりの時間を要したが、可鍛鋳鉄などの発明はその解決の1つであった
        。」

          華覚明(中国科学院自然科学史研究所教授)の講演記録「中国古代金属文化の技術的特徴」(田口勇『鉄の歴史と化学』裳華房,1988年,p.225 所収)より

             華覚明氏は、『世界治金発展史』、『中国治鋳史論集』などの著書でもよく知られた中国古代治金史研究の権威者

中国で、鋳鉄が「生鉄」、練鉄が「熟鉄」(熟すとは、重要な成分が失われることを意味する)という言葉で呼ばれることにも、古代中国における鋳鉄技術の存在が示唆されている。
          R.K.G.テンプル『中国の科学と文明』河出書房新社、pp.85-88

          ニーダム『東と西の学者と工匠』上巻,p.84,pp.165-166,197-208



中国古代の製鉄法の図
        図のようにフイゴを使用して鋳鉄が製造されていた。

        宗応星『天工開物』(1637)

        (大橋周治『鉄の文明』岩波書店、1983年,pp.10-11)。


漢王朝における鋳鉄事業の国家独占(B.C.119年)と鋳鉄製品の普及
        「最初、鋳鉄は民間の投機家が独占し、彼らはそれによって裕福になった。しかし、
漢王朝はBC119年にすべての鋳鉄所を国営化し、皇帝がその製造を独占した。
        当時は、全国に46の国営鋳鉄所があり、政府の役人が鋳鉄製品の大量生産を管理していた。/古代中国における鋳鉄の普及には、多くの副次的な効果が伴った。農業の分野では鉄製の鍬やその他の道具とともに、鋳鉄製の犂先が開発された。小刀、斧、のみ、鋸、および突きぎりもすべて鉄製のものが手にはいるようになった。食物は鋳鉄の鍋釜で料理できるようになり、玩具まで鉄のものができた。」R.K.G.テンプル『中国の科学と文明』河出書房新社、p.73


中国における製鉄過程での石炭(11世紀)・コークス(13世紀)使用
        11世紀頃には製鉄に石炭を利用、1270年頃にはコークスを高炉燃料に利用(原善四郎『鉄と人間』p.95)
推理小説家の芦部拓のツィートだが、この発言の分析や考察は後日行う。


(以下引用)




「青天を衝け」とか幕末物が最近キツくて見られない。がんじがらめの体制下にあって浮かび上がる見込みのない下士・郷士、三男坊・四男坊以下の飼い殺し組が、ある日「天皇」「神国」という概念に触れて、いきなり偉大なるものと心で結びついてしまう。昔なら草莽の志士だけど、要は今でいうネ○○〇。

たとえば、日本人は耳で聞いた言葉を即座に頭の中で漢字に変換してその言葉を理解しているのだが、自分がそういう作業を行っていることにはほとんど無意識である。これは、高島俊男の本に書いてあったことだが、日本人は自分でも知らないでずいぶん高度な作業をしているわけだ。


引用文は、漫画を読めない人が、「漫画を読める」とはどういうことかについて丁寧に分析した、面白い文章である。自分が直面している問題をこれほど明晰に分析できる頭脳は、かなり優秀だろう。

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マンガって読むの難しくないですか?

2021/04/21 20:54

基礎能力に欠けている私

周囲に話してもあまり賛同を得られないのだが、マンガを読むのは難しいと思う。これまでにもトライしてはみたが、私はうまく読めないままだ。苦手意識もあいまって、これまでに読んだマンガはおそらくトータルで50冊にも満たない。このジャンルを楽しむための基礎的な能力に欠けているため、なかなか気が進まないのである。読むのに時間がかかるし、理解できない部分も残り、没入の感覚をうまく得られない。小さな頃にマンガを読む習慣がなかったことが要因だと思うのだが、どうやって読んでいいのかわからないまま現在に至ったのである。ゆっくり読めばあらすじは理解できるし、内容も一応わかるが、どこかしっくりこない感覚が抜け切らず、マンガを好きな人が感じているであろう楽しさ、興奮の半分も得られていないと思う。マンガって、読むのが難しくないだろうか?

以前、電車の座席で一心不乱にマンガを読む小学生を見かけたとき、ページをめくるスピードがあまりに速く「この子はこの速度で視覚情報を得て、物語を咀嚼してるのか……」と驚いた経験がある。すわ神童か。漫画を読むための基礎、強靭な足腰が備わっているとすぐにわかった。こうしたマンガキッズがきっと日本中にいるのだと思う。マンガをすらすら読める人は、子ども時代からマンガを読む訓練を重ねており、マンガを読みこなし、その世界に没入する技術を会得していると私は予想するのだが、限られた訓練の機会を逸してしまうと、読み方がわからないまま残りの人生をすごす羽目になる。大人になってから読めるようになるのだろうか。私はスタートの時点で完全に失敗してしまった。悲しい。

読み方がわからない

しかし「マンガを読めない」と感じるのは、決して私だけではないと思う。ひとつ例を挙げれば、元アイドルグループのリーダーで、現在は音楽活動のほかに美術評論の仕事などもされている和田彩花さんは、同じく元アイドルグループのメンバーで、マンガの好きな飯窪春菜さんとの対談でこのような話をしている。

飯窪 連載では毎回、私なりにテーマに合わせたマンガをおすすめしているんだけど、あやちょはマンガも全然読まないもんね。
和田 読み方がわからないの(笑)。
飯窪 私はあやちょの読んでるノンフィクションのほうが、どう読んでいいかわからない(笑)。でも、アプローチは違うのに同じことを学んでいたりするから、不思議だよね。

おそらく、和田さんの「読み方がわからない」という発言は比喩ではなく、文字通りの意味だと思う。私もわからないから伝わるのだ。正しい読み方を覚えないまま育ってしまった。むしろ、なぜ誰にも読み方を教わらずにすっと読めるようになるのか、マンガ好きの方に教えてほしいくらいである。私はこの対談を読んで少し安心してしまったのだが、難解な美術評論の本を読みこなす和田さんであっても、ことマンガになるとどう読んでいいか迷うのだ。私も同様に「読み方がわからない」と感じることがあるし、ページをめくりながら「たぶん私はこのマンガをちゃんと読めていないな」と思った経験も多い。ただ「マンガが読めない」と人に言うのは恥ずかしいから、黙っているのだ。

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夏目房之助『マンガはなぜ面白いのか』

マンガが読めない私。あれこれと悩んだ末、解説書を読んで勉強することにした。手始めに選んだのは、夏目房之助『マンガはなぜ面白いのか その表現と文法』(NHK出版)。他にもマンガ関連の書籍を探してみたのだが、どれもマンガが読めること、マンガのさまざまな表現技法を理解していることは当然の前提になっていて、より基本的な疑問、すなわち「コマにはどんな意味があるか」「フキダシの役割とは」「読者はどのように視線を移動させるか」などについてあらためて解説してくれる本はうまく見つからなかった。しかし『マンガはなぜ面白いのか』はそうした根底の疑問、マンガの表現が読み手に伝わる理由を教えてくれそうな気がしたのである。前書きにあったこの文章を見て、我が意を得たりと膝を叩いた。

(著者がマンガに関するテレビ講義をした後で)とくに面白かったのは、比較的高齢の方から「マンガってああいうふうに読むんですね、はじめてわかった!」といった反応を複数もらったことだった。たかがマンガだから誰でも読めるという思い込みは、じつはマンガを日常的に読んでいる団塊の世代の以下の人々にもある。彼らは彼らで、子供の頃から読んでいるから、自分たちがいかに複雑な手続きをへて「マンガ文法」を読みこなしているかの自覚がないのだ。

この指摘には安心した。やはりそうだったかと腑に落ちた記述である。マンガ研究家の方が「マンガには複雑な文法がある、それを読みこなすのは容易でない」と認めているのだ。私がマンガを読めないのは必要な訓練を積んでいないからであり、和田さん(通称あやちょ)が「読み方がわからない」と感じるのも、複雑なマンガ文法が原因なのだ。私や和田さんは決してばかじゃないし、マンガが読めなくても仕方ないのである。この記述が書かれた前書きの部分だけでほぼ答えが出てしまったため、そのまま本を閉じてもいいのだが、『マンガはなぜ面白いのか』はそれで終わるにはもったいないほどに、1冊を通して「マンガとは何か」という私の問いに答えてくれていた。

コマの謎

たとえばコマの大きさが変わる点。私にとってはあれが難しい。コマが大きくなったり小さくなったりすると、そうした差異から何を読み取ればいいのかわからなくなる。本を読んでいて、めまぐるしくフォントサイズが変わったりはしない。コマの大きさが変わることには、作者の意図や表現上の必然性があるはずなのだが、私にはそうした変化の文脈をうまく読み取れないのである。夏目はこう書く。

マンガのコマはページ内で自由に縦横比を変えられますが、映画の画面は一定の枠しかもちません。またズーミングやパンをワンショットで連続的にできる映画と違い、マンガはコマの分割を工夫しなければ同じ効果を作れません。

そう、まさにそのように私は感じていたのである。何と的確な説明であることか。映画はフレームサイズが一定なのに、マンガは枠の大きさがどんどん変わっていく。これがややこしく、混乱するのである。コマのサイズを変えることで、どの対象物に視点を注げばいいかを指示し、狙った効果へ向けて読者を誘導するというマンガ独特の手法があまりに高度なのである。また、夏目は『ほぐれゆく私』というマンガの「空白コマ」を例に挙げつつ、これが何を意味するかについて読者に考えさせようとする。この指摘もおもしろかった。このマンガで夏目は「空白コマ」の存在に着目している。

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小さな二つのコマは、はたしてコマなんでしょうか。私はコマとみなしてかまわないと思います。ただ、何も中に描かれていない透明なコマで、もはや絵を時間順序で分節する働きは放棄しています。それでもかすかなフェイドアウトする時間の感じは残っている。その意味では、この空白コマは、コマとコマの間の隙間に似ています。隙間を広げた空白の間の感覚に加えて、空白そのものを文節して重ねて、かすかなフェイドアウト的な間をつくりあげています。

実に深い。コマの不可解さを丹念にとらえたユニークな解説である。そしてマンガが読める人は、このフェイドアウトの感覚を自然に理解できるのだと思う。私は、こうして詳しく説明してもらわなければ、飾りのような、意味不明な四角がふたつ重なっているようにしか見えないし、この小さなふたつのコマから生じるイメージをとらえ損ねてしまうと思う。

フキダシと言葉の層

また、せりふ、ナレーション、心の声や回想といった言葉の層があることも表現を複雑にしている。これも私には難しいのだ。マンガを読む子どもは、こうした階層の存在をどのように学ぶのか。私自身、マンガ内に書かれた言葉がせりふなのか、心の声なのかといった判断は一応つくのだが、それらを個別に受け取りながら、脳内でひとつのストーリーとして組み合わせ、そこに没入するのがどうにも難しい。「ああ、これは心の声なんだな」と客観的には理解できても、そこに感情を乗せにくいのである。夏目は『ちびまる子ちゃん』のコマを例に取りつつ、そうした言葉の階層について解説する。

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作品の中の話という一時的な発語の場所と、それを外から(あるいは将来から)みる二次的な場所が分離して、作品に重なっていることになります。さらに話の中で回想場面などが入ると、言葉の属する場所は三層になります。話の中の現在の言葉と、回想される過去の言葉、そして話の外からのナレーションの言葉です。読者はそれぞれの場所の言葉を分別して、三層に流れる時間を統合して受け取りながら作品を読んでいるわけです。それだけ物語の構造は複雑になり、やろうと思えばかなりトリッキーな作劇ができるということになります。

みごとな視点。「三層に流れる時間を統合して受け取りながら作品を読む」とはまさしくマンガ表現の複雑さそのものだ。なぜこうした作業を、小さな子どもが難なくできるのか(『ちびまる子ちゃん』は小学生も読むマンガだ)、私にとってはふしぎでならない。さらには、まる子のひたいには汗が流れており、隣の男子に対する拒絶反応を示す記号として別種のメッセージを伝えてもいるのだ。このように、マンガは記号や多重なレイヤーによる指示に満ちている。なぜ、これほどハイコンテクストで複雑な情報処理をこなせるのだろう。訓練のたまものとしか考えられないのである。

オノマトペの衝撃

そして何より、私がマンガを読むたびにもっとも驚いてしまうのが、夏目が「オノマトペ」と呼ぶ表現技法である。「ドカーン」「ガッ」「バシッ」などの擬音がコマに大きく描かれ、装飾やエフェクトとして表現の重要な一部となるオノマトペの技法を見るたび、そのアバンギャルドさに唖然としてしまうのだ。マンガを読み慣れない私にとって、オノマトペは何度見ても強烈な印象である。擬音を文字で描き込んでエフェクト化してしまうのだから、過激もいいところだ。

なぜマンガとオノマトペは、ここまで手を取り合って共存しているのか。オノマトペが大きく描かれたコマは何度見ても慣れることがない。マンガへの苦手意識を克服しようと、会社の同僚に教えてもらった『彼方のアストラ』(集英社)という作品を読んだのだが、オノマトペが登場するたびに、絵とも文字ともつかない独特の表現に驚いてしまった。マンガにオノマトペがあることはもちろん知っていたが、あらためて冷静に見てみると、その異物感はとてつもなく大きい。

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この、コマをまたいで異様な存在感を見せつける「ゴゴゴ」のオノマトペを自然に受け入れろと言われても、ちょっと無理な話である。絵を見ているのか、ゴを見ているのか、よくわからなくなってくる。あまりに印象が強烈すぎやしないだろうか。読者は「ゴゴゴ」から、宇宙船が飛び立つ際の迫力を感じることを期待されているはずだ。轟音を立てて発進する宇宙船というイメージを想起し、頭のなかでふくらませなくてはならない。

しかし、私はこうした効果を、作者が想定している文脈通りに受け取ることができないのである。「あっ、片仮名でゴゴゴって大きく描いてある」と身も蓋もないことを考えてしまい、そこから前へ進めないのだ。宇宙船が「ゴゴゴ」と音をを立てるのはニュアンスとしてわかるとしても、それをそのまま片仮名で「ゴゴゴ」とこんなに大きく描いてしまうのはあまりに直接的すぎて、「そのまんまじゃないか」とツッコミたくなってくる。オノマトペは本当に理解が難しい。オノマトペは、言葉でもデザインでもない「文字と絵のあいまいな中間ぐらいにある何か」としてとらえなければいけないのではないか。そして私は、それを完全に文字として読んでしまっている。

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見てほしい、このコマ全体を埋め尽くすオノマトペの数々。宇宙船の浮上シーンはオノマトペによって強調され、迫力を増しているのだが、このコマの連なりの「ズウウウゥン」「ボトボト」「ガガガ」「ブワッ」といったオノマトペの乱れ打ちには完全に目が奪われ、頭が混沌とし、あらすじが入ってこなくなってしまう。なぜそこまで、というほどの記号の嵐であり、コードの横溢である。私はこのカオス状態に慣れることができるのか。フキダシのせりふとは別に、複数のオノマトペがそれぞれの存在感を放ちながらコマの中に並ぶ、この過激なマンガ文法がまだ目になじんでいない。しかし、オノマトペのハードルをクリアしなければマンガを読めるようにはならないだろうと思う。なにしろオノマトペとマンガはあまりにも相性がよく、両者は分かちがたく結びついて、ひとつの表現を形成しているためだ。なぜマンガが、ここまでオノマトペを表現の中心に据えているのか、私はまったくわかっていない。

マンガは複雑なコードに満ちている

いざマンガに没入しようとしても、コマ、フキダシ、オノマトペの複雑さに戸惑い、うまくストーリーに入り込めないことがわかった。一方これが小説であれば、文章から光景を思い浮かべ、イメージを頭のなかで想像し、脳内で映像を動かすことができる。物語の世界に没入できるのだ。それは私が子どもの頃から繰りかえし行ってきた作業である。小説については、難なく没入が可能である。しかし、ことマンガになると、受け取った情報から脳内で新たなイメージを組み立てることができず、複雑なコードに満ちたコマの連続にたじろいでしまうのだ。ここであらためて書くが、マンガを読める人には確実に特殊能力がある、ということは強調しておきたい。

夏目の本を読み、いままで感じていたマンガを読むことの難しさにあるていどの説明がついたのは嬉しかったが、私にとっては依然、ハードルの高い表現のままである。マンガが読めないというだけでずいぶん長い文章を書いてしまったが、私がマンガに感じている難しさが伝わればさいわいだ。しかし、習うより慣れろで実際にマンガを読んでみればいいではないかという話でもある。会社の同僚にマンガに詳しい人がいるので、教えてもらった作品をいくつか読み始めている。ちなみにいま読んでいるのは、『青の祓魔師』(集英社)という作品である。私もいつかすらすらとマンガが読めるようになるのか、少し練習してみたいのだ。それにしても、こんなに難しいことがさらっとできるようになる日は来るのだろうか。




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