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戦争後に、戦争主導者としての資本家が裁かれることはほとんど無い。これによって、政治を動かしているのは政治家(役者)ではなく資本家(脚本・演出家)であるという事実が分かる。

(以下「櫻井ジャーナル」から転載)


2021.05.10

 
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 5月9日はロシアの「戦勝記念日」である。ウラジミル・プーチン露大統領はこの日、ある勢力が第2次世界大戦から何も学ばず、ロシアに対する攻撃的な計画を抱いていると指摘したうえで、国民の利益を守るという決意を述べた。好戦的なジョー・バイデン政権やその僕たちを意識しての発言だろう。

 ドイツとソ連の関係が悪化するのはナチスが台頭してからでる。十月革命でボルシェビキ体制が成立して以来、ソ連とドイツとの関係は良好だった。ナチス時代の1941年6月にドイツ軍はソ連を侵攻した。バルバロッサ作戦だ。西側には約90万人だけを残し、310万人を投入するという非常識なものだったが、これはアドルフ・ヒトラーの命令である。まるで西側から攻めてこないことを知っていたかのようだ。

 ドイツ軍は7月にレニングラードを包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点に到達した。10月の段階でドイツだけでなくイギリスもモスクワの陥落は近いと考えていたのだが、日本軍が真珠湾やマレー半島を奇襲攻撃した12月にソ連軍が反撃を開始、年明け直後にドイツ軍はモスクワで敗北してしまう。ドイツ軍は1942年8月にスターリングラード市内へ突入するが、ここでもソ連軍に敗北、1943年1月に降伏する。

 この段階でドイツの敗北は決定的になったが、慌てたイギリスやアメリカはすぐに善後策を協議、その年の7月に両国軍は犯罪組織の協力を得てシチリア島へ上陸した。その後、ナチスの幹部はアレン・ダレスたちと接触し始める。サンライズ作戦だ。その後、アメリカの軍や情報機関はフランクリン・ルーズベルト大統領には無断でナチスの幹部や協力者を逃走させ、保護、そして雇用する。ラットライン、ブラッドストーン作戦、ペーパークリップ作戦などだ。

 アメリカやイギリスの金融資本はナチスを資金面から支えていた。例えばディロン・リード、ブラウン・ブラザース・ハリマン、ユニオン・バンキングなどがそうしたパイプだった。その経営陣にはョージ・ハーバート・ウォーカー、その義理の息子であるプレスコット・ブッシュ、ブッシュと同じエール大学のスカル・アンド・ボーンズに入っていたW・アベレル・ハリマンも含まれている。そのほかスイスで設立されたBIS(国際決済銀行)や第2次世界大戦が勃発する半年ほど前にドイツへ約2000トンの金塊を渡したと言われているイングランド銀行も仲間だと言えるだろう。

 そもそも、ウォール街は1930年代からファシストと関係があった。そのウォール街の傀儡だったハーバート・フーバーが1932年の大統領選挙でニューディール派のフランクリン・ルーズベルトに敗北すると、アメリカの金融資本は在郷軍人会を利用してクーデターを行おうと計画している。

 計画の中心的な存在だったJPモルガンは司令官としてダグラス・マッカーサーを考えていたが、人望があり、軍の内部への影響力が大きいスメドリー・バトラーを取り込まないとクーデターは無理だという意見が通り、バトラーに働きかけた。

 しかし、この人物は憲法を遵守するタイプの人物。そこで計画内容を聞き出した上でカウンタークーデターを宣言し、議会で詳細を明らかにした。

 ウォール街のクーデター派はドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスのクロワ・ド・フ(火の十字軍)の戦術を参考にしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領への信頼感を失わせるようなプロパガンダを展開、50万名規模の組織を編成して恫喝して大統領をすげ替えることにしていたという。

 バトラーの話を聞いたジャーナリストのポール・コムリー・フレンチはクーデター派を取材、「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」という発言を引き出している。金融資本は親ファシズムだった。ナチスへ資金を提供し、ナチスの幹部や協力者を救出、保護するのは必然だった。その延長線上に冷戦はある。バラク・オバマやジョー・バイデンの政策も同じだ。

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子供心にも、このフレーズのナンセンスな面白みは分かるし、長いセリフを覚えてまくしたてる面白さも分かるだけだろう。「ジュゲムジュゲム」や「外郎売」の類である。

(以下引用)

小学生の長女の口から「いつ?何年何月何日何曜日?何時何分?地球が何回回ったとき?」という煽りフレーズが出てきたのだが、令和の小学生にも根強く生き残る定番フレーズに密かに感銘を受けている。どういうメカニズムで、数十年に渡って異世代間で引き継がれているんだろうか。
あさりよしとおのツィートだが、実際、萩尾望都があの題名を付けた時は、その程度の安易さだったのではないか。エドガー・アラン・ポーは吸血鬼の話を書きそうな作家だが、書いていないはずだ。まあ、死体が蘇る話はあったような気がするが、それは吸血鬼の話ではない。

(以下引用)

「エドガーでーす!」 「アランでーす!」 「二人あわせて、ポーの一族でーす!」 「血ぃ吸うたろか」 「いー加減にしなさい!」
白川静の「漢字百話」の中に、「我という字はもともと鋸の形である」という文章があるが、下の記述のように中国で鉄器が普及したのはBC4世紀~BC2世紀だとするなら、これは明らかに恣意的な解釈だろう。鉄器の中でも鋸は作製が難しい形態であり、漢字が生まれた当時に普及していたはずはないと思う。「白川漢字学」にはこのような単なる妄想を断定している部分が多いのではないか。


中国の製鉄技術史
    「中国(漢民族)の場合のみは、すでに戦国時代(紀元前400ー200年頃)に、鍛鉄とならんで銑鉄(鋳造用の鉄)を生産し、各種の鋳鉄製品を製作していた。・・・・革命後の考古学による多くの発掘によって、おびだたしい数の斧・鎌・鋤・包丁・鍬などの農工具が出土し、しかもその大半が鋳鉄製品であることが実証されるようになった。続く漢代に入ると、鉄は国家による専売制の下で、銅よりもはるかに安い価格で、ますます大量に生産されるようになる。」大橋周治『鉄の文明』岩波書店、1983年,p.10

戦国時代(B.C.476-221年)に始まった中国における鉄の鋳造技術 ---- その技術的源泉は、古代中国の青銅器の鋳造技術(紀元前18世紀)
古代ヨーロッパでは、青銅器は鍛造されていた。しかし古代中国では新石器時代の末期頃から鋳造で製造されていた。
         「
中国古代の金属製造技術は、「鋳造」に始まったことに最大の特徴がある。このことはその後の中国の金属文化のすべてに大きな影響を及ぼしている。欧州古代においては、青銅器は青銅器時代の晩期においても、鍛造で製造された。しかし、中国においては全く異なり、新石器時代の末期から、青銅器は鋳造で製造された。
        この鋳造技術が一応の確立をみたのは、夏(か)時代(商時代の前、B.C.約1766年)である。商時代初期からほとんどすべての青銅器は鋳造で製造され、商時代は鋳造技術の最盛期となった。現代人が驚くような複雑なものや大型のものも多数製造された。一般に中国は「鋳造の故里」といわれているが、これは中国で鋳造技術が創始され、高度に発展したことやその技術が後世に継承されたことを指すものである。周知のように、鋳造は鍛造よりも生産効率が高いが、高温度まで上げられる熔解炉などの設備と優れた技術者が必要である。古代の文献にも、「鉱石から銅を精錬し、鋳型に鋳込むことができるようになって、初めて金属文化が開花した」とあり、中国古代の金属文化の特徴とルーツを鋳造技術に求めることが多い。」華覚明(中国科学院自然科学史研究所教授)の講演記録「中国古代金属文化の技術的特徴」(田口勇『鉄の歴史と化学』裳華房,1988年,pp.24-25 所収)



鉄の鋳造技術は、ヨーロッパではA.D.14世紀頃からであるの対して、中国ではそれよりも千数百年前の戦国時代(B.C.476-221年)頃に始まった。
         「
青銅器の鋳造技術は、その後の戦国時代(B.C.476-221年)には鉄を対象に適用され、鉄の鋳造技術としてさらに発展した
        。対象が鉄に変わったことによる技術的ギャップは、現在、想像するよりも容易に試行錯誤することによって乗り越えることができたと考えられる。
鉄になった場合の最大の問題点は、多分脆さをカバーすることではなかったかと考える。その技術開発にはかなりの時間を要したが、可鍛鋳鉄などの発明はその解決の1つであった
        。」

          華覚明(中国科学院自然科学史研究所教授)の講演記録「中国古代金属文化の技術的特徴」(田口勇『鉄の歴史と化学』裳華房,1988年,p.225 所収)より

             華覚明氏は、『世界治金発展史』、『中国治鋳史論集』などの著書でもよく知られた中国古代治金史研究の権威者

中国で、鋳鉄が「生鉄」、練鉄が「熟鉄」(熟すとは、重要な成分が失われることを意味する)という言葉で呼ばれることにも、古代中国における鋳鉄技術の存在が示唆されている。
          R.K.G.テンプル『中国の科学と文明』河出書房新社、pp.85-88

          ニーダム『東と西の学者と工匠』上巻,p.84,pp.165-166,197-208



中国古代の製鉄法の図
        図のようにフイゴを使用して鋳鉄が製造されていた。

        宗応星『天工開物』(1637)

        (大橋周治『鉄の文明』岩波書店、1983年,pp.10-11)。


漢王朝における鋳鉄事業の国家独占(B.C.119年)と鋳鉄製品の普及
        「最初、鋳鉄は民間の投機家が独占し、彼らはそれによって裕福になった。しかし、
漢王朝はBC119年にすべての鋳鉄所を国営化し、皇帝がその製造を独占した。
        当時は、全国に46の国営鋳鉄所があり、政府の役人が鋳鉄製品の大量生産を管理していた。/古代中国における鋳鉄の普及には、多くの副次的な効果が伴った。農業の分野では鉄製の鍬やその他の道具とともに、鋳鉄製の犂先が開発された。小刀、斧、のみ、鋸、および突きぎりもすべて鉄製のものが手にはいるようになった。食物は鋳鉄の鍋釜で料理できるようになり、玩具まで鉄のものができた。」R.K.G.テンプル『中国の科学と文明』河出書房新社、p.73


中国における製鉄過程での石炭(11世紀)・コークス(13世紀)使用
        11世紀頃には製鉄に石炭を利用、1270年頃にはコークスを高炉燃料に利用(原善四郎『鉄と人間』p.95)
推理小説家の芦部拓のツィートだが、この発言の分析や考察は後日行う。


(以下引用)




「青天を衝け」とか幕末物が最近キツくて見られない。がんじがらめの体制下にあって浮かび上がる見込みのない下士・郷士、三男坊・四男坊以下の飼い殺し組が、ある日「天皇」「神国」という概念に触れて、いきなり偉大なるものと心で結びついてしまう。昔なら草莽の志士だけど、要は今でいうネ○○〇。

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