四件の事件[編集]
いずれも詳細は、各事件の項目を参照されたい。
幸徳事件[編集]
前述のとおり、単に「大逆事件」と言えば一般的にはこの事件を意味する[2]。
堺利彦や片山潜らが「平民新聞」などで、労働者中心の政治を呼びかけ、民衆の間でもそのような気風が流行りつつあった中の1910年(明治43年)5月25日、信州の社会主義者宮下太吉ら4名による明治天皇暗殺計画が発覚し逮捕された「信州明科爆裂弾事件」が起こる。この事件を口実として、政府がフレームアップ(政治的でっち上げ)により、幸徳秋水をはじめとする全ての社会主義者、アナキスト(無政府主義者)を根絶しようと取り調べや家宅捜索を行なって弾圧した事件が幸徳事件である。第二次世界大戦後、関係資料が発見され、暗殺計画に関与していたのは宮下太吉、管野スガ、新村忠雄、古河力作の4名だけであったことが判明した。1960年代より「大逆事件の真実をあきらかにする会」を中心に、再審請求などの運動が推進された。これに関して最高裁判所は1967年に、「戦前の特殊な事例によって発生した事件であり、現在の法制度に照らし合わせることはできない」「大逆罪が既に廃止されている」との理由から、免訴の判決を下し、再審請求が事実上できないことを示している。(但し、刑事補償法では免訴でも無罪と推定されるときは補償を受けることができるとされている。)
信州明科爆裂弾事件後、数百人の社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まり、検察は26人を明治天皇暗殺計画容疑として起訴した[3]。松室致検事総長、平沼騏一郎大審院次席検事、小山松吉神戸地裁検事局検事正らによって事件のフレームアップ化がはかられ、異例の速さで公判、刑執行がはかられた。平沼は論告求刑で「動機は信念なり」とした[4]。検挙されたひとりである大石誠之助の友人であった与謝野鉄幹が、文学者で弁護士の平出脩に弁護を頼んだ。
1911年1月18日に死刑24名、有期刑2名の判決(鶴丈一郎裁判長)。1月24日に幸徳秋水、森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、奥宮健之、大石誠之助、成石平四郎、松尾卯一太、新美卯一郎、内山愚童ら11名が、1月25日に1名(管野スガ)が処刑された。特赦無期刑で獄死したのは、高木顕明、峯尾節堂、岡本穎一郎、三浦安太郎、佐々木道元の5人。仮出獄できた者は坂本清馬、成石勘三郎、崎久保誓一、武田九平、飛松与次郎、岡林寅松、小松丑治。
赤旗事件で有罪となって獄中にいた大杉栄、荒畑寒村[5]、堺利彦、山川均は事件の連座を免れた。 なお、本事件の弁護を担当した平出脩も1914年(大正3年)に35歳で急逝している。
大逆事件以後[編集]
社会主義運動はこの事件で、数多くの同志を失い、しばらくの期間、運動が沈滞することになった。いわゆる〈冬の時代〉である。
徳冨蘆花は秋水らの死刑を阻止するため、兄の徳富蘇峰を通じて桂太郎首相へ嘆願したが果たせず、明治44年(1911年)1月に秋水らが処刑されてすぐの2月に、秋水に心酔していた一高の弁論部河上丈太郎と森戸辰男の主催で「謀叛論」を講演し、学内で騒動になった。
大逆事件は文学者たちにも大きな影響を与え、石川啄木は事件前後にピョートル・クロポトキンの著作や公判記録を入手研究し、「時代閉塞の状況」や「A LETTER FROM PRISON」などを執筆した。木下杢太郎は1911年3月戯曲「和泉屋染物店」を執筆する。永井荷風は『花火』の中で、「わたしは自ら文学者たる事について甚だしき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した」と書いている。
また、秋水が法廷で「いまの天子は、南朝の天子を暗殺して三種の神器をうばいとった北朝の天子ではないか」と発言したことが外部へもれ、南北朝正閏論が起こった[6]。帝国議会衆議院で国定教科書の南北朝併立説を非難する質問書が提出され、2月4日に議会は、南朝を正統とする決議を出す。この決議によって、教科書執筆責任者の喜田貞吉が休職処分を受ける。以降、国定教科書では「大日本史」を根拠に、三種の神器を所有していた南朝を正統とする記述に差し替えられる。
また翌明治45年(1912年)6月には上杉慎吉が天皇主権説を発表した一方、美濃部達吉が天皇機関説を主張し、当時の大学周辺では美濃部の天皇機関説が優勢になったが、のち天皇主権説が優勢になる。馬蹄銀事件で秋水らを疎ましく思っていた山縣有朋はのちロシア革命が勃発してからは極秘で反共主義政策を進め、上杉の天皇主権説を基礎にした国体論が形成されていく[7]。
大石誠之助の甥である西村伊作は大石の遺産の一部で文化学院を創設した。このことについて柄谷行人氏は「大正デモクラシー、大正文化というのは、実質的に、大逆事件で死刑になった人の遺産で成立した」と指摘している[8]。
だが、話そのものは「悪霊」の話ではなく、日本における社会主義思想が社会に巻き起こす凶悪な激動である。死体がゴロゴロ出て来る予定だが、簡単に言えば、「自由民権思想」「大正デモクラシー」「社会主義思想」「共産主義思想」「女性解放思想」と当時の社会の軋轢である。その軋轢として大逆事件や柳原白蓮事件だけでなく、後世の「連合赤軍事件」に近い事件も入れる予定である。特に現実の事件と整合性を取る必要は無い。すべて、「フィクション」である。現実の事件は単なるヒントだ。話に出て来る実在人物も当然、私によって現実とは異なる人物になっている。
とりあえず、キャラクター名と、それが「悪霊」のどの人物をヒントにしているか、書いておく。
1 須田銀三郎(スタヴローギン)
2 須田稲子(ワルワーラ夫人)前知事須田清隆夫人
3 鳥居浪平(ステパン氏)
4 鳥居陽介(ピョートル)
5 安藤知事(レンプケ知事)
6 安藤蓮子(レンプケ夫人)
7 岩野夫人(イワノヴァ夫人)
8 岩野理伊子(リーザ)
9 兵頭佐太郎(シャートフ)
10 兵頭菊(ダーリヤ)稲子の養女
11 加賀野将軍(ガガーノフ将軍)
12 桐井六郎(キリーロフ)建築技師
13 真淵力弥(マブリーキー)陸軍大尉
14 富士谷(リプーチン)役人
15 栗谷(リャムシン)質屋
16 田端退役大尉(レビャートキン)
17 田端万里江(マリア)狂女
ほかに、実在人物モデルとして、黒田清隆(銀三郎の父)、柳原白蓮、福沢諭吉など
裏テーマとして「華族の没落」と「資本主義の勃興」「資本家による政治支配」
いわば、政治版「仁義なき戦い」でもある。
財政[編集]
華族は皇室の藩屏として期待されたが、奈良華族をはじめとする中級以下の旧・公家などには、経済基盤が貧弱だったため生活に困窮する者が現れた。華族としての体面を保つために、多大な出費を要したためである。政府は何度も華族財政を救済する施策をとったが、華族の身分を返上する家が跡を絶たなかった。
一方、大名華族は家屋敷などの財産を保持し、維新後数10年間は家禄、それに引き続いて金碌公債が支給されたため一般に裕福であり、旧・家臣との人脈も財産を守る上で役立った。それでも明治末期以降は相伝の家宝が「売り立て」(入札)の形で売却されることも多くなり、大名華族の財政も次第に悪化しつつあった。
華族銀行として機能していた十五銀行が金融恐慌の最中、1927年(昭和2年)4月21日に破綻した際には、多くの華族が財産を失い、途方に暮れた。
スキャンダル[編集]
華族は現代の芸能人のような扱いもされており、『婦人画報』などの雑誌には華族子女や夫人のグラビア写真が掲載されることもよくあった。一方で華族の私生活も一般の興味の対象となり、柳原白蓮(柳原前光伯爵次女)が有夫の身で年下の社会主義活動家と駆け落ちした白蓮事件、芳川鎌子(芳川寛治夫人、芳川顕正伯爵四女)がお抱え運転手と図った千葉心中、吉井徳子(吉井勇伯爵夫人、柳原義光伯爵次女)とその遊び仲間による男性交換や自由恋愛の不良華族事件など、数々の華族の醜聞が新聞や雑誌を賑わせた。
概要[編集]
公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。1869年(明治2年)に華族に列せられたのは、それまでの公卿142家、諸侯285家の計427家[1]。1874年(明治7年)1月に内務省が発表した資料によると華族は2891人[2][3]。
華族令発布による爵位制度の発足[編集]
1884年(明治17年)7月7日、華族令が制定された。これにより華族となった家の当主は「公爵」・「侯爵」・「伯爵」・「子爵」・「男爵」の五階の爵位に叙された[注釈 8]。
爵位の基準は、1884年(明治17年)5月7日に賞勲局総裁柳原前光から太政大臣三条実美に提出された「爵制備考」として提出されたものが元になっており、維新期の勲功を加味された一部の華族を除いては、実際の叙爵もおおむねこの基準に沿って行われている。公家の叙爵にあたっては家格はある程度考慮されたが、武家に関しては徳川家と元・対馬藩主宗家以外は江戸時代の家格(国主、伺候席など)が考慮されず、石高、それも実際の収入である「現米」が選定基準となった。しかし叙爵内規は公表されなかったために様々な憶測を産み、叙爵に不満を持つ者も現れた。
また華族令発布と同時期に、維新前に公家や諸侯でなかった者、特に伊藤博文ら維新の元勲であった者の家29家が華族に列せられ、当主は爵位を受けている。叙爵は7月中に3度行われ、従来の華族と合計して509人の有爵者が生まれた。これらの華族は新華族や勲功華族と呼ばれている。また、終身華族はすべて永世華族に列せられ、終身華族が新たに生まれることもなかったため、全ての華族は永世華族となった。これ以降も勲功による授爵、皇族の臣籍降下によって華族は増加した。
叙爵基準による最初の叙爵[編集]
- 公爵
- 侯爵
- 伯爵
- 公家からは大臣家、大納言の宣任の例が多い[注釈 12]。堂上家、武家からは徳川御三卿と現米5万石以上の大名家が伯爵相当となった。
- 公家の東久世家は参議を極官とする羽林家で大納言宣任の例も皆無だったが、維新における東久世通禧の功が特に考慮されて伯爵となった。また武家の対馬藩は数千石余で、肥前国内の飛地1万石を併せても表高の2万石を下回っていたが、藩主宗家は朝鮮外交の実務担当者として10万石の格式が江戸時代を通じて認められていたことが考慮されて伯爵となった。平戸藩主松浦家は本来は算入されないはずの分家の所領まで計算に繰り入れた上で伯爵となったが、これは中山忠能正室が松浦家の出身であることから明治天皇の外戚に当たることが考慮されたものとみられる。
- 西本願寺・東本願寺の世襲門跡家だった両大谷家も伯爵となった。
- 「国家に勲功ある者」として、伊藤博文・黒田清隆・井上馨・西郷従道・山縣有朋・大山巌などの維新の元勲も伯爵に叙された。
教育[編集]
学歴面でも、華族の子弟は学習院に無試験で入学でき、高等科までの進学が保証されていた。また1922年(大正11年)以前は、帝国大学に欠員があれば学習院高等科を卒業した生徒は無試験で入学できた。旧制高校の総定員は帝国大学のそれと大差なく、旧制高校生のうち1割程度が病気等の理由で中途退学していたため帝国大学全体ではその分定員の空きが生じていた。このため学校・学部さえ問わなければ、華族は帝大卒の学歴を容易に手に入れることができた。
但し学習院の教育内容も「お坊ちゃま」に対する緩いものでは無く、所謂「ノブレス・オブリージュ」という貴族としての義務・教養を学ぶ学校であり、正に旧制高等学校同等の教育機関であった。
(以下引用)
明治十四年の政変(めいじじゅうよねんのせいへん)とは、開拓使官有物払下げ事件に端を発した明治時代の政治事件。大隈重信一派が明治政府中枢から追放された事件である。
概要[編集]
1881年(明治14年)に自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内でも君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われ、前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶應義塾門下生(主に交詢社系)を政府から追放した政治事件である。近代日本の国家構想を決定付けたこの事件により、後の1890年(明治23年)に施行された大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まったといえる。
経緯[編集]
立憲体制の導入を巡る議論[編集]
明治10年代の明治政府において、大久保利通亡き後、国会開設運動が興隆するなかで政府はいつ立憲体制に移行するかという疑問が持ち上がっていた。そのような状況下で、政府は消極論者の右大臣・岩倉具視を擁しながら、漸進的な伊藤博文・井上馨(長州閥)とやや急進的な大隈重信(参議・大蔵卿・肥前藩出身)を中心に運営されていた。
大隈は政府内にあって、財政政策(西南戦争後の財政赤字を外債によって克服しようと考えていた)を巡って松方正義らと対立していた。更に宮中にいた保守的な宮内官僚も「天皇親政」を要求して政治への介入工作を行うなど、政情は不安定であった。薩長土肥四藩の連合が変化し、薩長二藩至上主義的方向へ姿を変えていた。またこのとき、太政大臣・三条実美が薩長と談合し、「自由民権運動と結託して政府転覆の陰謀を企てた」として、大隈の罷免を明治天皇に願い出た場面が記録されている。[要出典]
1880年(明治13年)に入ると、立憲体制に消極的であった岩倉も自由民権運動への対応から、参議や諸卿から今後の立憲体制導入の手法について意見を求めることにした。伊藤は同年暮れに意見書を提出し、漸進的な改革と上院設置のための華族制度改革を提議した(後者は公家出身の岩倉が嫌う点であるが、伊藤は敢えて提出したのである)。ただし、どこの国の制度を参考にするかは明らかにしなかった。
伊藤に相前後して参議らから次々に意見書が出され、様々な意見が出される中で1人大隈だけが意見書の提出を先延ばしにしていた。1881年(明治14年)3月、漸く大隈が左大臣(岩倉からみて上位)の有栖川宮熾仁親王に対して「密奏」という形で意見書を提出、その中でイギリス流の立憲君主国家を標榜し、早期の憲法公布と国会の2年後開設を主張したのである。5月に内容を知った岩倉はその内容とともに自分を無視して熾仁親王に極秘裏に意見書を出した経緯に激怒し、太政官大書記官の井上毅に意見を求めた。
井上毅は大隈案と福澤諭吉の民権論(『民情一新』)との類似点を指摘して、一刻も早い対抗策を出す事を提言、岩倉の命令を受けた井上はドイツ帝国を樹立したプロシア式に倣った君権主義国家が妥当とする意見書を作成した。だが、大隈の密奏も岩倉・井上毅の意見書も他の政府首脳には詳細が明かされなかったために、伊藤がこの事情を知ったのは6月末であった。ただし、伊藤は大隈に対してのみではなく、岩倉・井上毅が勝手にプロシア式の導入を進めようとしていた事に対しても激怒して、説明に来た井上毅を罵倒した(6月30日)上で実美に辞意を伝えた。岩倉は伊藤に辞意の翻意を求め、井上毅も国家基盤を安定させてからイギリス流の議院内閣制に移行する方法もあるとして、自説への賛同を求めたが、伊藤はイギリス式かプロシア式かは今決める事ではないとして、岩倉が唱える「大隈追放」にも否定的であった。
この間にも井上毅が伊藤の盟友・井上馨(当初は将来的な議院内閣制導入を唱えていた)を自派に引き入れ、伊藤が薩摩閥と結んでまず憲法制定・議会開催時期の決定することを求めた。
政変勃発[編集]
一方、自由民権運動は3月に起きたロシアのアレクサンドル2世暗殺事件で過激な論調が現れるようになっていた。そんな折の7月末に『東京横浜毎日新聞』及び『郵便報知新聞』のスクープにより、薩摩閥の開拓長官・黒田清隆が同郷の政商・五代友厚に格安の金額で官有物払下げを行うことが明るみに出ると(開拓使官有物払下げ事件)、政府への強い批判が起こり自由民権運動が一層の盛り上がりを見せた。
更に大蔵省内の大隈派が黒田の払い下げ内容が不当に廉価であるとして中止を公然と主張したことから、伊藤が大隈派の「利敵行為」に激怒して一転して「大隈追放」に賛成する。8月31日、政府は大隈と民権陣営が結託した上での陰謀と断じて大隈の追放を決定した。政府内で払下げに反対していた大隈の処分と反政府運動の鉾先を収めるため、岩倉(ただし岩倉は7月から10月まで休養を取って有馬温泉に行っていたので現在では岩倉の関与を否定し、伊藤が主な計画者とする説が有力)、伊藤、井上毅らは協議を行い、明治天皇の行幸に大隈が同行している間に大隈の罷免、払下げ中止、10年後の国会開設などの方針を決めた。
天皇が行幸から帰京した10月11日に御前会議の裁許を得て、翌日国会開設の詔勅などが公表された。また大隈邸を伊藤と西郷従道が訪れて辞表提出を促し、大隈は了承した。なお、この際に「建国の本各源流を殊にす。彼れを以て此れに移すべからず」という政府首脳間の合意が為され、結果として自由民権運動や大隈の唱えるフランス流やイギリス流を否定したものの、岩倉らの進めようとしたプロシア流についても一旦は白紙撤回されることとなった(勿論、これによってプロシア(ドイツ)流論者の政府内での立場が強化されたのは事実であるが)。
政変の影響[編集]
一方、既にプロシア式の憲法導入に積極的であった岩倉や井上毅と違い、政変後の伊藤個人は立憲体制導入の決意は固めていたものの、どの形態を採るかについてはまだ確信は得ていなかった。また、華族制度改革や将来の内閣制度導入を巡って、岩倉との間に見解の相違があることも明らかになってきた(岩倉は華族に維新の功臣が加えられることや既存の律令制・太政官制度に基づいた大臣制が廃止されることで、公家出身の自分が政府の中枢から排除されることを警戒していた)。
このため、1882年(明治15年)、伊藤はドイツ(プロシア)の憲法事情を研究するという名目でドイツを訪問するが、それもあくまでも岩倉の意に沿ったというだけではなく、単にイギリスやフランスの事は自由民権派の人達が研究するだろうから、彼らが研究しないドイツを選んだ(末松謙澄充ての書簡など)という選択に過ぎなかった。伊藤がプロシア式の憲法導入の決意を固めたのは、現地で指導を受けたロレンツ・フォン・シュタインの助言(シュタインはドイツの立憲体制を批判してドイツを追われた学者であったが、日本の国情を研究した上でむしろ日本の方がドイツ本国以上にプロシア式の条件に符合していると説いた)によるものであるとされている。伊藤は1883年(明治16年)に岩倉の死に合わせるかのようにして帰国して、本格的な憲法制定作業に取り掛かることになった。
政府から追い出され下野した慶應義塾(福澤諭吉)門下生らは『時事新報』を立ち上げ、実業界へ進出することになる。特に下野し、三井に採用された中上川彦次郎はその後、三井に多くの慶應義塾出身者を雇い入れ、財界への基盤を確固たるものにした。
また、野に下った大隈も10年後の国会開設に備え、翌1882年(明治15年)3月には小野梓、矢野文雄とともに立憲改進党を結成、また同年10月、政府からの妨害工作を受けながらも東京専門学校(現・早稲田大学)を早稲田に開設した。後に、大隈はこの時のことについて『大隈伯昔日譚』において自信がありすぎたと述べている。 また、明治10年代の日本ではすでに近代的な郵便制度が発足していたが、明治十四年の政変に際して政府高官は使用人を介した私的な書簡によって対処を相談しており、明治初頭においては機密保持のため私的使用人による情報交換がなされていた点が指摘される[1]。