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高津カリノという漫画家がいて、web4コマ漫画が主な活動だと思うが、5回もアニメ化されているようだ。書籍化もされていて、私も「working!」はたぶん全巻読んだ。アニメも面白かった。(実に理想的なアニメ化で、たぶん原作を超えている。)
で、ここで論じるのは、「高津カリノ作劇メソッド」である。
つまり、大きな事件らしい事件もほとんど起こらない、日常の話だのに、なぜ読者や視聴者の興味をつなぐことができるのか。そこに何かのメソッドがあると思うわけである。
彼女(作者)の興味の中心が恋愛にあることは確かだろう。まあ、どちらかと言えば「恋愛以前」「恋愛未満」の男女のモヤモヤした関係が、自然と(あるいは誇張されて)小さな事件やドラマを生む、というのが「高津カリノメソッド」だろうと思う。なお、その事件はだいたい「誤解」から生じる。当人たちは大真面目に悩むが、悩む意味が無いことで悩むのだから、はたから見たらこっけいなわけだ。
このメソッドだと、舞台さえ変化させればいくらでもドラマは作れることになる。ファミリーレストラン、役所、声優業界などだ。自分で堂々と言っているように声優業界などまったく知らないようだが、自作のアニメ化に立ち会うことで一般人よりは知っているだろう。他のふたつは、おそらく経験のある職場だと思う。つまり、「場所(話の舞台)」の知識があるわけだ。これだけでも、完全に頭の中で舞台を設定する「なろう小説」の類よりは読者に実感を与える点で有利である。
で、その舞台が、恋愛という異分子を投入することで、或る意味「非日常的な」ドラマが生じるのが「高津メソッド」の本質かと思う。これは、多くのテレビドラマ、特にヒット作品の特徴でもあるのではないか。
とすると、私のように恋愛にほとんど興味の無い人間が「面白いドラマ」を書けるはずがないという、情けない結論になる。まあ、何を面白いと思うかは個人差があるだろうが、世間の多くの人は、政治や戦いよりは恋愛や笑いを好むだろうというのは想像できる。で、私は政治には興味があるが、政治のドラマを書くだけの知識も能力も無いわけである。
としたら、無理にでも恋愛と笑いのあるドラマを考える努力をするべきかな、というのが当座の結論である。恋愛に興味が無いというのも、「自分には関係ない話だから」というだけのことで、恋愛が人間を動かす最大のエネルギーのひとつでドラマの柱であることはよく知っているのである。ちなみに、恋愛方面が苦手な創作者は暴力というドラマを追いかける傾向があると思う。その恋愛は単なるエロ、性欲方面になりがちなのではないか。


(追記)高津カリノの作劇メソッドに追加しておく。それは「登場人物が基本的に変人か馬鹿であること」だ。ただし、馬鹿も変人も善良な人間が多い。と言うより悪人は出ないから読後感がいい。馬鹿だから、誤解しやすく、悩むことが多いのだが、読者から見るとその姿がおかしいわけだ。で、問題解決(誤解が解けること)で、人間関係が少し深まり、つまり男女の間が接近することになる。漫画的には、絵柄が可愛いのですべてがおままごと的な印象になり、読む側のストレスが無い。多少無理な設定も「まあ、漫画だからね」ということで、その無理さもギャグ化される。つまり、高津メソッドは小説では使えない可能性が高い。


(追記)今、高津カリノのツィッターを見ると、私が分析するまでもなく、当人がこう言っていた。www

私の漫画に転生したら十中八九職場等狭い世間で異性とくっつけられるから転生予定の人は気を付けてくれよな!(・ω<)




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某ブログから孫引き引用。

(以下引用)

戦闘教師「ケン」 華東大乱編 より

上記文抜粋
・・・・・・・・・・・・
旧軍による略奪の構造
ゲーム会の仲間の一人から「日本軍は何故あんなに略奪したのか」と聞かれた。
別に日本人を責める目的ではなく、あくまで歴史的関心からである。
この点、幸いにして最近、日中戦争関連の本を何冊か読んでいたので助かった。
まず、日華事変の特に初期の場合、略奪の主体は主に日本軍ではなく、中国・国民党軍であった。
国民党軍が退却する際に、民家を略奪して火をかけ、場合によっては兵装を捨てて略奪した民間人の服に着替えて、そのまま軍から逃亡してしまうのである。
初期の日本兵の記録を読んでいると、「中国兵というのは自国の民に酷いことをするものだ」みたいなことがよく書かれており、実際のところそう思ったのだろう。
日本兵による略奪が増加してくるのは、南京陥落前後である。
戦線が拡大したことで、兵站機能が大きく低下したにもかかわらず、兵站能力を無視した作戦を行ったことが第一。
国民党、共産党を問わず、ゲリラ戦が行われた結果、対ゲリラ戦(COIN)の中で殲滅戦が行われ、ゲリラと関係があると思われた家は略奪と放火の対象となり、それは時とともに激化、対象も際限なく拡大していった。
多くの場合、日本軍であっても作戦開始に際しては兵站を準備する。
策源地には兵站の山ができ、一応は規定数が準備される。つまり、計算上は問題ない。
ところが、日本軍は自動車化が遅れており、トラックもあるが、作戦を開始して敵地や不整地を走るようになると、途端に故障が続出してしまい、牛馬による輸送に頼ることになる。
作戦開始後、数日は補給が届くが、5日もすると補給が滞ってしまうのはザラであった。
策源地で「これだけ物資があれば今回は大丈夫」と思った兵も、数日後には「あれは何だったのか」と疑問を覚えたという。
一方、兵卒は尋常ならざる糧食を持たされる。
陸軍の場合、米麦が一日6合分を基準とし、副食物(乾燥味噌、同野菜、缶詰など)を含めて約1.3kg。これを7日分持たされるので、これだけで9kgとなる。それ以外の武装と兵装を合わせて30kg前後になるのが普通だった。
ドイツ軍やアメリカ軍の場合、2日分あるいは3日分しか携行しないので、糧食は2~3kg程度で済む。
そのため、日本兵は「糧食は後で取りに来れば良い」などと理由をつけて、糧食を放置あるいは隠匿して少しでも身軽になろうとした。
結果、作戦開始から5~7日もすると、糧食を欠くところとなり、民家から「徴発」するところとなる。
最前線の部隊は軍票などを使って一応は購入の形をとり、中国人も応じる。
が、後から来た部隊には「売れない」「もう何もない」という話になり、日本兵は「では強制徴発だ」となってしまう。
暴力的に略奪をした場合、証拠を隠滅するため、理由をつけて放火する。
さらに遅れてやってきた増援部隊は、延焼して略奪され尽くした村を見て、「俺らの食い物どうすんだ!」と激昂し、近隣の村に略奪に向かうことになる。増援部隊もみな徒歩で行軍するため、前線に着く頃には糧食がなくなっているためだ。
結果、中国戦線では「最前線の部隊が一番楽」とすら言われたという。
それでも、中国軍が先に略奪、放火して退却するケースも多く、中国人民は自国軍と日本軍の双方によって略奪されるところとなった。これが、後の国共内戦で人民解放軍が圧勝する原因にもなる。
また、作戦の計画段階では期間を1週間など、兵站がギリギリ機能する範囲で設定されるのだが、殆どの場合、作戦中に期間が延長されるため、延長期間は殆ど兵站が機能しなくなってしまう。そのため、「糧食は前線で調達」が基本となり、実質的に略奪が容認されるところとなる。
ドイツ軍でもアメリカ軍でも兵站計画は重視されており、兵士一人ごとに必要なカロリーから弾薬まで緻密に計算した上で、その作戦が実施可能かどうかの判断がなされた。
ところが、日本軍の場合、まず作戦計画が策定され、その計画に従って兵站計画が作られるため、補給が可能かどうかが問われることは少なく、そもそも兵站を専門とする幹部(陸大)の育成すらされていなかった。そのため、作戦会議などにおいても、兵站将校の発言力は極めて弱かった。
この4月に政府によって否定された「従軍慰安婦」は、そもそも前線兵士を後送、休養させることができない日本軍の制度、体質が「慰安婦を伴って前線に出る」選択をなさしめた結果であり、この点でも「従軍」は当時の実態を表していたのである。
私は、日本の天皇家の祖は百済の王族だろうと思っているが、百済の滅亡は660年で、大化の改新より後のようだ。このあたりの時間のずれは、合理的に説明できないものか。まあ、べつに百済にこだわることもなく、朝鮮半島南部の小国の王族としてもいい。要するに、朝鮮の「骨品制」は日本の天皇の「万世一系」思想の基になっているだろうということで、松本清張も天皇家についてそれに近い考えを持っていたようだ。


骨品制

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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骨品制(こっぴんせい)は、朝鮮半島の古代国家新羅で導入されていた身分制度である。

概要[編集]

この場合の「骨」は血統家系を意味し、すなわち骨品とは出身氏族や血統の正当さを以って品位に代える、という考え方であり、制度はこれに基づいている。新羅の王都のみにおいて導入された氏族の序列をつけるための制度で、地方では適用されていなかった。

出身氏族により五段階に身分を区別し[1]、特に王族に属する者を最上位に置いて真骨(ジンゴル)と呼び(中でも父母共に王族に属する者を特別に聖骨(ソンゴル)と呼んだ)、以下、六頭品、五頭品、四頭品、平民と下る序列を行った。

王都では骨品制により身分の制限を受けた。就任可能な官職や結婚の自由、利用可能な服職、乗り物、贅沢品、家屋までが骨品で規制された。高級官僚に挙がるに上位の骨品だけが許され、諸官庁の長官はほぼ真骨が占めた。新羅時代に事実上の貴族と呼べるのは、この真骨のみである。

元々独自の身分体系を整えそれを重視していた朝鮮半島の三国は、後に新羅が百済高句麗を征服したことで、この制度により移された百済・高句麗の王族や貴族は低い骨品を与えて冷遇するとともに、将来に渡って変わらない身分上の絶対的格差を備えることで新羅一国による事実上の統一が図られることになった。

新羅の官位制度[編集]

三国史記』新羅本紀によれば、建国の当初のころは「大輔」という官名が最高位のものとして確認されるが、第3代儒理尼師今の9年(32年)に、下表の17階級の官位(京位)が制定されたとする。枠外の官位としては、第23代法興王の18年(531年)に宰相に相当するものとして「上大等(上臣)」が設けられた。また、三国統一に功績のあった金庾信(『三国史記』によれば、黄帝の子の少昊金天氏の子孫[註釈 1])を遇するものとして、第29代武烈王(金春秋、キム・チュンチュ)の7年(660年:この年百済を滅ぼす)には伊伐(角干)の更に上に「大角干(大舒発翰)」、さらに武烈王の息子の第30代文武王(金法敏)の8年(668年:この年高句麗を滅ぼす)には「太大角干(太大舒発翰)」という位が設けられた。

新羅王が新たに即位すると、直ちに最高官位の上大等(古くは大輔、舒弗邯)が任命され、その王代を通じて権力の頂点にたつという例が多い。これは貴族連合政治体制の現れであると見られている。強力な王権が確立した三国統一の後にも上大等が任命されるという慣習は続いているが、真徳女王の代になって651年には国家機密を掌握する執事部が設けられ、その長官の中侍が上大等に代わって政治体制の要となった。

京位は首都金城に居住する六部のための身分体系でもあり、これに対して地方に移り住んだものに対しては外位という別途の身分体系を併せ持っていた。しかし百済・高句麗を滅ぼした後、両国の遺民を取り込みに対抗していくため、京位・外位の二本立ての身分制度を再編することに努めた。673年には百済から帰属してきた者のうち、百済の2等官の達率の場合には、金城に移住した者に対しては京位10等の大奈麻に当て、地方に留まった者には外位4等の貴干を当てた。翌674年には外位を廃止して、京位に一本化した。

高句麗官位と新羅官位[編集]

さらに唐との戦闘を終えて684年報徳国を滅ぼして半島内の混乱を収拾した後、686年には高句麗人に対しても官位(京位)を授けた。このときには高句麗の3等官の主簿[2]に対して京位7等の一吉を当てた。

あわせて官制を参照。

このようにして、百済・高句麗両国の官位体系の序列を格下げした形で新羅の身分体系に組み入れることによって、それまで三国独自に展開されていた身分体系が新羅の政治秩序のもとに一本化され、統一国家としての内実を整えることに成功したと考えられている。



三船敏郎と黒澤明の確執

数々の名作を生み出してきた黒澤・三船の黄金コンビだが、昭和40年の『赤ひげ』を最後にして、二度と仕事を共にすることはなかった。

 

そのため、監督と三船と関係に何か問題が起きたのではないか、という不仲説が今も流れている。

 

ちまたの噂は「黒澤が三船の酒癖の悪さに嫌気がさして、使いたがらなかった」とか、「黒澤プロと三船プロの間に金銭的なトラブルがあった」などというあくまで憶測にすぎないものだ。

 

黒澤本人は、マスコミから不仲説について聞かれるたびに「別に三船君と喧嘩したわけじゃないんだよ。ただ、三船くんとやれることは全部やってしまっただけのことです。」

 

と答えている。

 

また、黒澤は『用心棒』や『椿三十郎』の撮影時、三船が着用する着物の家紋を黒澤家の家紋を用いている。

 

これは主人公を自分の分身と考えていたからかもしれません。

 

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最後のタッグ作品『赤ひげ』

三船は『赤ひげ』の医師役の新出去定を演じるために、髪とヒゲを自分で赤っぽく脱色した。

 

この薬剤は皮膚や髪を痛め、脱色するたびに頭皮に痛みが走り、気分が悪くなったりしたというが、それをクランクインからクランクアップまで、一年半続けた。

 

本人は「薬剤の副作用で、歯が浮いてしまった」と明かしている。

 

たとえ肉体的にどんな苦痛があろうとも、三船は黒澤が求める役柄に入り込もうとしていたのだ。

 

また、黒澤は映画雑誌のインタビューを受け、『赤ひげ』の製作に臨む心境について聞かれたときにこう答えている。

 

日本映画の危機が叫ばれているが、それを救うものは、映画を創る人々の情熱と誠意以外にない。

 

私はこの『赤ひげ』という作品の中に、スタッフ全員の力をギリギリまで絞りだしてもらう。そして映画の可能性をギリギリまで追ってみる。

 

黒澤組 野上照代氏の見解

黒澤組のスクリプターだった野上照代氏は著書の中で、『赤ひげ』以降、2人が距離を置くようになったきっかけについて、こう記している。

 

私は『赤ひげ』の完成パーティの時、クロサワが私に言った言葉を忘れることが出来ない。彼は抑えたような小声で言った。「小国(脚本家)に言われたよ。あの三船は違うぜって」。

 

黒澤の顔に失敗したときの後悔の影が走ったように見えた。

 

黒澤が三船の演技に、僅かだったとしても不満を抱いたのは、おそらく『赤ひげ』が初めてであろう。

 

その後、黒澤は三船とそのことについて話あったわけでもなく、遠慮がちに後ずさりして三船から離れていったように見えた。

 

これは文字通りに読めば、黒澤監督は、三船の演技に不満を持ち、以後は自分の映画に起用しなくなったように思える。

 

それが真相なんだろうか。黒澤と三船の関係は、誰かの一言で冷めてしまい、距離を置くほどの仲だったのだろうか。

 

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黒澤組脚本家 橋本忍氏の見解

小国英雄と同じく、黒澤組の脚本家だった橋本忍はこう考える。

僕は『赤ひげ』の脚本に関わっていないけど、映画は観たの。観て、三船君の出来が悪いとは思わなかったね。小国旦那が、どうしてそういうことを言ったのか、僕にはよく分からない。

 

だけど、黒澤さんと三船君が『赤ひげ』が最後になったというのは、以前からそういうことにならざるを得ない原因が色々と積み重なっていたためであって、『赤ひげ』が直接の原因ではないでしょう。

 

三船くんは、脚本に書かれていたのとは違う芝居をしていた訳じゃなくて、ちゃんと演じていた。

 

もし彼の芝居が違っていたのなら、黒澤さんは必ず指摘をしたはず。

 

そこは厳しい人だからね。何も言わなくてもOKしている訳だから、小国旦那の勘違いか何かだと思うね。

 

完璧とまではいわないけど、三船くんの芝居はよく出来ていた。

 

では、離れていかざるを得ない理由とは、何だったのか。
続けて橋本は語る。

 

最初の問題の発生は、マクベスを翻訳した『蜘蛛巣城』。これは僕にも責任があるんだけど、僕は武時という男が、犯してはならない女を犯してしまい、最後に矢を射られて、ハリネズミの様に死んでいくといった話を書こうとしていたのね。

 

その企画を黒澤さんに話したら『それは面白い』ということになって『蜘蛛巣城』のラストに使われたの。

 

矢を浴びるシーンは、成城大学の弓道部の学生たちをアルバイトで使って、実際の矢でロケをやったわけだから、三船君の顔面や肩の近くに本物の矢が飛んできて突き刺さるわけだから、恐怖を感じないわけはないよね。

 

そんなことがあって、三船君は酒の量か増えたときに、車に乗って片手に刀を持ち、監督が泊まっていた旅館の周りを『黒澤さんのバカ!』と怒鳴ってぐるぐる回るわけ。

 

黒澤さんは怖いもんだから、部屋の中で籠っていた。

 

僕から見ると、黒澤さんは三船くんを怖がっていた気がする。ただ、監督と三船君の両者の間にはいろいろなkとがあって、複雑な影を落としていたことは間違いない。

 

たまたま『赤ひげ』が最後になってだけで。

 

でもそれは両者にとって不幸なことであることは間違いなかった。

 

続けて、映画界の事情と、東宝の黒澤作品に対する条件などの面を無視できないと語った。

 

三船君が黒澤作品に出ると、一本いくらで契約するけど、黒澤さんの場合は撮影が終わるまで一年、二年と掛かることがある。

 

でも、会社が払うのは基本的に一本分のギャラだけで、それが大きな問題を孕んでくるわけ。

 

三船くんほどのスターになると、他の映画をやっていれば、その間に数本分のギャラを取れるよね。だから、撮影も含めて、リハーサルに時間を掛ける黒澤作品がうまくいかなくなったのも、そういう面があったからだと思う。

 

僕ら脚本家に対してもそうだったからね。ただ、僕らの場合は監督との繋がりが強いから「脚本作りにこんなに日数が掛かっては、一本分では困るよ」と言って、二本分に増やすことは出来たわけね。

 

だけど俳優さんの場合には、なかなかそれは出来ないんだよ。三船くんは僕らより過酷だったと思う。拘束される割には少ないギャラになるから。

 

生活にも影響しただろうし、それに外国からのオファーを受けれなくなったりする。黒澤作品に出ていれば。

 

それは、黒澤さんや三船君の責任ではなくって、東宝という会社の問題だね。時間もお金も掛かる黒澤作品をどう撮るかという点での思慮が、東宝に足りなかったと思う。

 

橋本は不満があれば会社へ行き、期間が延びているから割り増し料金を払ってくれとねじ込んだ。

 

相手が根負けして金を出すまで重役室に居座った。

 

おかげで黒澤監督は東宝の「天皇」、橋本忍は「皇太子」と皮肉を交えて呼ばれたという。

 

音楽担当の佐藤勝の証言

『蜘蛛巣城』から『赤ひげ』まで8本の作品の音楽を担当した佐藤勝氏の証言はこれである。

 

三船さんほど黒澤さんを思いやっていた人を僕は知りませんよ。ただ口がね、気持ちと違ったことを言って誤解されるようなことが多かった。黒澤さんも同じですけどね。

 

三船の大馬鹿野郎!なんて言ったり。それでも三船さんを愛していましたよ。だけどこの映画界ってものさしで測るとですね、いろいろ出てくるんですよ。

 

2人ともお山の大将ですしね。それから黒澤さんが一番気にしていたのは、三船さん、奥さんと別れたでしょう。あいうこと黒澤さんは嫌いなんですよ。

 

男と女の、だらしないやつ。黒澤さんも女は好きですよ、色気も好きですよ、だけど、道徳に反することやると怒るね。これは確かにそうです。

 

幸子夫人ってのは黒澤さんは、昔から知っているでしょう。そいで若い女との間に子供ができちゃったから。許せなかったんだろうな、黒澤さんからすると。

 

三船が北川美佳と結婚したというのは誤解だが、黒澤が三船の一連の不倫・離婚騒動を快く思っていなかったのは事実だろう。

 

黒澤は昭和20年に女優の矢口陽子と結婚。

 

戦時下とあって、2人とも国民服姿で挙式している。

 

以後、喜代は貧しい新人監督だった黒澤が世界に認められるようになるまで、支え続けた。

 

酒好きの黒澤の為に自分の食費を削って酒を買ったというエピソードもある。

 

夫人は63歳で亡くなるまで、ずっと黒澤の傍にいて添い遂げた。愛妻家だった黒澤が、三船が妻を捨てて若い女に走ったことを嫌がったとしても不思議ではないが、俳優三船敏郎を拒絶する理由にもならなかったはずである。

 

結局、黒澤が最後まで愛したのは三船だけ

最後に再度、スクリプターの野上照代さんのクロサワとミフネの関係について語ったものを紹介します。

 

黒澤さんが結局、最後まで愛したのは三船だけだったでしょう。

 

しかし、小国さんの一言は答えたようです。今までなんでも意見を聞いてきた”小国旦那”なればこそです。

 

しかしこの後、いやすえに針生尾が大きな夢を持たせて近づいてましたから、2人が離れた時、私も近くにいて分かりません。

 

私は今なお、悔恨の思いでいっぱいです。なぜ三船さんに黒澤さんの気持ちを伝える役目を引き受けなかったのだろうと。

 

少しぐらい役にたったかもしれないのに。

 

不遜なことを言うと、私は三船さんが可哀そうでたまらない。

 

この野上氏の発言の最後の部分を切り取ってみると、やはり、黒澤が三船から離れていったということになるのでしょうか。

 

性格的にも、黒澤はやはりいい意味で独善的であり、エゴの塊のような人である(監督として必要な才能)。三船は他人を気遣う自己犠牲の人であったので、結果やはり黒澤が三船を捨てたというシンプルな答えが当てはまるまもしれません。

 

三船はやはり、色々細かいことはあったにせよ、やはり黒澤監督が好きで、黒澤作品に出たいと願っていたんでしょう。

 

晩年のカラー作品、特に『乱』は三船敏郎の主演で見たかったなと思います。

 

このページの参考文献
※ サムライ 評伝 三船敏郎(文集文庫)

 

「阿修羅」記事だが、大衆心理学的に、ここに書かれたイスラエル人の心理は興味深い。教育とマスコミによって国民全体が洗脳されるのだろう。

(以下引用)

ホロコーストを体験したユダヤ人がなぜパレスチナ人を迫害するのか(読む・考える・書く)
http://www.asyura2.com/21/kokusai30/msg/617.html
投稿者 HIMAZIN 日時 2021 年 6 月 02 日 20:43:06: OVGN3lMPHO62U SElNQVpJTg
 

https://vergil.hateblo.jp/entry/2021/05/27/124138

ホロコーストを体験したユダヤ人がなぜパレスチナ人を迫害するのか

2021-05-27

この疑問は、いわゆる「パレスチナ問題」(むしろ「イスラエル問題」と呼ぶべきではないかと思うのだが)に関心を持つ大抵の人が抱いているのではないだろうか。

敬虔なユダヤ教徒でもあるホロコースト生存者の子としてアメリカで育ったサラ・ロイさん(ハーバード大学中東研究所上級研究員)は、初めてガザを訪れたときの経験を次のように語っている。[1]

 1985年に現地調査のためガザに初めて入った。そこでパレスチナ人の老人がイスラエル兵によって、泣きじゃくる孫の前でロバの尻にキスするのを強要されるのを見た。人間性を剥奪するその行為に、ロイさんは両親から聞いた、ユダヤ人が収容所に入れられる前の扱われ方を思い出した。

また彼女は、多くの親族が住むイスラエルを何度も訪問しており、そこでイスラエルに住むユダヤ人の多くが『あの時代のユダヤ人は「脆弱」で「劣っていて」「蔑まれて当然」だったが、「我々は二度と虐殺されない」』と言っていることを知ったという。

これは要するに、自分たちは弱かったからやられた、だから二度とやられないよう強くならなければならない、ということだろう。

実際、普通に考えれば意外なことに、イスラエルでは、ホロコーストを体験しこれを生き延びた生存者たちは、社会の中で尊重されていない。[2]

 イスラエル人たちは、自らの社会の内部にホロコーストの真の生存者がいることに気づきました。生き残った人びとです。ここでみなさんは、この生存者こそホロコーストの犠牲者の主要な代表者だろうと思われるでしょう。しかし、彼らはイスラエルのナショナル・ナラティヴ(注:国民的物語)に合致しなかったのです。イスラエル人たちにとってのナショナル・ナラティヴにおいては、「ホロコーストの生き残りたちは、十分にナショナリストではない、彼らは闘っていなかった」、ということになります。彼らはホロコーストを生き延びたことについて重んじられませんでした。ですから今日に至るまで、補償されていないのです。

イスラエルでは、ホロコーストという民族的苦難の経験が、このような悲劇を二度と起こしてはならない、という普遍的信念にはなっていないのだ。これでは確かに、「二度と虐殺されない」ためなら他者をどんな目に遭わせても構わないことになってしまうだろう。

さらには、教育の問題もある。

IWPS (International Women’s Pease Service)のボランティアとして2003年にパレスチナを訪れた川島めぐみさんは、そこで検問所(パレスチナ人の移動を妨害して嫌がらせをするための施設)のイスラエル兵士と会話(口論)した経験をこう書いている。[3]

(略)兵士は開口一番、検問所は効果的だと思うか、と聞いてきた。(略)イスラエルに忍び込むテロリストによる「イスラエルの子ども達や無辜の人々」の殺害を防止するのに検問は重要だと彼はいう。何がパレスチナ人を「自爆テロ」に駆り立てるのか、この兵士は考えたことがあるのだろうか?

 「奴らは俺達の土地が欲しいんだよ。欲張りなんだ。土地を盗もうとしているんだ」

 同意しない。「盗む」ために人は自爆なんかしないと思う。

 「奴らはイスラエルの人間を殺しているんだ。二年前にパレスチナ人は二人の兵士をラマラで拷問している。その写真を見れば誰だってパレスチナ人を憎悪するに決まっている」兵士は続ける。「罪もない人々が殺されることを僕は容認しない」

 そうよ。私も容認しない。それでは三日前にイスラエル兵が「間違えて」殺した九五歳のおばあさんと四一歳の母親についてはどうなの? 子どもも重傷を負ったわ。

 「そんなことは起こらない。起こるわけがない」

 何で? 事実よ。

 「そんなことが起こるわけはないんだ。パレスチナ人は平和なんか求めていない。欲しいのは俺達の土地だけさ」

(略)

 「パレスチナ人には行くところがあるじゃないか。他のアラブ諸国に行けばいいんだ。ここにいる必要はない。ここは神によって俺達に与えられた土地なんだから」

 本気でそんなことを信じているの? まあいいわ。それにしても他人が何世代も住み着いて、耕して、住んできた土地に突然やってきて、「俺達の」土地だと言って没収するなんて許されないわ。

 パレスチナ人は人間以下だと彼は言う。だから人間以下に扱って当然なのだ、と。それでも兵士自身、矛盾を感じているのではないかと感じることもある。

誰が誰の土地を盗んできたのかは、下の地図を見れば明らかだろう。(ちなみに、ユダヤ人入植地に蚕食されてぼろぼろになりながら右側に残っているのがヨルダン川西岸地区、左端の小さな緑色がガザ。)

画像出典:ISRAEL & PALESTINE: THE MAPS TELL THE TRUE STORY

しかしこの兵士にはこれが真逆に見えている。そう教えられてきたからだろう。

しんぶん赤旗(2007/7/27)によると、建国から60年近くを経て初めて、イスラエルの教科書にパレスチナ人への迫害が記載されたという。(現在もこの教科書が使われているかどうかは不明。)

 【カイロ=松本眞志】イスラエルでは二十三日、タミール教育相がパレスチナ人の惨状の記述を掲載した教科書の採用を認めた問題で、リクードや国家宗教党など右派勢力は同相の辞任を要求しました。イスラエル紙ハーレツ同日付(電子版)が報じたものです。

 問題となったのは「イスラエルでともに生きる」と題する地理の教科書。アラブ系イスラエル人の学校で使われるものです。

 一九四八年の第一次中東戦争で、イスラエル国内のアラブ系住民が住んでいた村を破壊されて、家を追放されて難民になったとし、イスラエルの建国が、アラブ人にとっては“ナクバ”(「破局」「災難」を意味するアラビア語)だったと述べています。

この報道内容のポイントは、この教科書が使われるのが「アラブ系イスラエル人の学校」というところだ。「ユダヤ系イスラエル人」には、この重大な歴史的事実が教えられることはない。

これはまぎれもない歴史修正主義だ。

欧米(一部日本でも)の反ユダヤ主義者たちは、「ガス室はなかった」といった虚偽の主張によりホロコーストを矮小化し、ナチスの蛮行による被害者を攻撃している。

人種差別的反ユダヤ主義との闘いは、歴史修正主義との闘いと言ってもいい。

しかし、当のユダヤ人国家イスラエルがこんな歴史修正主義教育を行っているようでは、反ユダヤ主義に対して彼らが何を言っても説得力を持ち得ないだろう。

[1] 「ホロコースト生存者の子としてイスラエルを問う」 ふぇみん 2009/4/15
[2] イラン・パペ 『イラン・パペ パレスチナを語る』 柘植書房新社 2008年 P.224
[3] 川島めぐみ 「IWPSのボランティアとして (3)」 Let’s No.40 日本の戦争責任資料センター 2003年9月 P.20-21  

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