まあ、いつでも政党指導者はいい加減な行動を取るということしか下の記述は読めない。それは左派政党指導者に特に多いようだ。しかし、それは社会主義や共産主義という思想とは関係の無いことである。保守政治家や大資本家が左派活動家にカネを出した例も多い。つまり、ある程度の左派活動は社会支配に利用できるということだろう。
人民戦線(じんみんせんせん、仏: Front Populaire)とは、反ファシズム、反帝国主義、反戦主義を共同目標とする集団である。その起源はフランスの労働階級における統一戦線から発展したものであるが、「人民戦線」という言葉は1935年の第7回コミンテルン世界大会においてブルガリア共産党の指導者ゲオルギ・ディミトロフによる提唱の後に一般化した[1]。フランス・スペイン・チリでは政権を掌握し、労働改革・社会改革などを実現した。
人民戦線が結成された国々[編集]
イギリス[編集]
1936年12月に自由党のリチャード・アクランド、マルクス主義者のジョン・ストレイチー、労働党のG.D.H.コール、保守党のロバート・ブースビーがイギリス人民戦線を結成し選挙では一定の成功を収めたものの、政権獲得には至らなかった[2]。
フランス[編集]
1932年8月、作家のロマン・ロランやアンリ・バルビュス、アンドレ・ジッド、アンドレ・マルローらの呼びかけによってアムステルダム国際反戦大会が開催され、38カ国から2196人が参加し、翌33年6月、パリのプレイエル会館で第2回大会が開催された。この運動は、アムステルダム・プレイエル運動と言われる反戦・反ファシズム運動として発展した(日本からは片山潜が発起人として参加)。そのような状況下の1934年2月6日、前年にドイツでナチスが政権を掌握したのに刺激されて、右翼・ファシストが議会を攻撃する事件(1934年2月6日の危機)が起こった。当時、フランス社会党とフランス共産党は分裂し、対立していたが、この2月6日事件を機に、反ファッショ勢力の結集と行動の統一がはかられ、社会党系の労働総同盟の提唱したゼネラル・ストライキに共産党系の統一労働総同盟も参加し、共同行動が発展した。これに急進社会党が加わり、1936年4月に行われた議会選挙で人民戦線派が圧勝し、社会党のレオン・ブルムを首班とする人民戦線政府の成立に至る。
フランス共産党書記長のモーリス・トレーズによれば「人民戦線政府は労働者及び農民の政府の先駆であり、ソビエト主権確立、無産者独裁、社会主義革命の準備であらねばならぬ。しかしながら今日は未だそれらの実現のための条件は具わっておらぬ」と目標と現実を分析しているが、フランスではプロレタリアの指導に盲目的に服従することはない中産農民層がその人口の大きな部分を占め、その民主主義意識が共産主義をファシズム反対ということ以上には評価しなかった。フランス共産党は1936年6月初めにはフランス全土のストライキ騒動に対して社会党、労働総同盟などと協力してストライキ中止指令を出したり、同年10月中旬アルザス=ロレーヌ地方の共産党の示威集会を政府の要求により集会の数を制限したことなどに見られるように反ファシズムに重点を置いたことで人民戦線維持のための消極的努力をしている[3]。
フランスの場合、知識人の果たした役割が大きく、有給休暇(バカンス)・労働者の組合の地位向上(マティニョン協定)・週40時間制の実施・ランジュバン・ワロンの教育改革など重要な労働・社会立法を行ったが、先に成立していたスペイン人民戦線への軍部の反乱(スペイン内戦)に対して態度を明確に出来ず、また共産党と急進社会党が決裂したことによって、1937-1938年に解消されるに至った。
スペイン[編集]
1936年1月、共和主義左派・社会党・共産党・マルクス主義統一労働者党(POUM)の間で協定が結ばれ、2月の選挙で勝利して、共和主義左派のマヌエル・アサーニャを首班とする人民戦線政府が成立した。しかしその後、反ファシズム・ファシズム両勢力の間の抗争が激化し、モロッコで軍部のフランコが反乱を起こし、それをナチス・ドイツのヒトラーとファシスト・イタリアのムッソリーニが支援した。対する人民政府側もソ連が支援に乗り出し、第二次世界大戦の前哨戦の様相を呈した。スペインは内戦状態となり、人民戦線を支援する国際義勇軍も派遣された(スペイン内戦)。
このスペイン内戦は3年間にわたり続いたが、この内戦を通じて人民戦線政府は転覆され、その後は長くフランコ独裁体制が続いた。
この人民戦線政府に対しては、アナーキスト(CNT急進派)やトロツキスト(ここではPOUMも含むが、POUMは厳密にはトロツキストではない)は「反ファッショ戦争を社会主義革命へ」と主張し、スペイン共産党はソ連の援助の下で、これらの革命派に対する粛清に狂奔した。内戦の過程で、ナチス・ドイツの義勇航空隊の無差別爆撃(ゲルニカ爆撃)に抗議して、ピカソの『ゲルニカ』が描かれた。またマルローの『希望』やヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』はこの時の内戦に人民戦線側から取材したものである。
チリ[編集]
1937年、急進党・社会党・チリ共産党・労働組合などが人民戦線として結束、翌1938年の大統領選挙で急進党のペドロ・アギーレ・セルダを当選させた。1941年末にアギーレ・セルダが大統領在任のまま死去すると、人民戦線は民主主義同盟と改称して、引き続き急進党のフアン・アントニオ・リオスを当選させた。
しかし、1946年の大統領選では社会党が同盟から離脱して、独自候補を立てた。急進党と共産党は引き続き同盟を維持して、急進党のガブリエル・ゴンサレス・ビデラを当選させた。ところが、ビデラは1948年に、アメリカ合衆国の圧力などもあり、突如として共闘していた共産党を非合法化し(民主主義防衛法)、チリの人民戦線は名実ともに崩壊した。
コミンテルンの人民戦線[編集]
コミンテルンから1928年に除名されたレフ・トロツキーは、ナチスが伸張していた1930年の時期にスターリンが提唱しドイツ共産党が実践していた「社会ファシズム論」(社会民主主義はファシズムの双生児であり、ファシストより優先して打倒すべき対象とする理論と方針)を批判して「ナチスと対抗する社会民主主義と共産党の統一戦線」を呼びかけた。しかし、トロツキーの呼びかけは一顧だにされず、ドイツ共産党がナチスと敵対するどころか同盟を組んでストライキなどを行い、ナチスが政権を獲得、ドイツ共産党は社会民主党諸共非合法化により消滅する。
「反共・ソ連抹殺」を掲げるナチス・ドイツに対する危機感から、スターリンは「社会ファシズム論」から人民戦線の推進に路線転換するが、トロツキーはこのスターリンの転換を「社会主義革命の全面的放棄によるブルジョア政党との野合=統一戦線の戯画化」と批判する。実際に人民戦線運動時のフランス共産党は、巻き起こるストライキ運動を「権利獲得運動」に抑え、社会主義革命に直結させるような方針は控えたと言える。あるいは、レオン・ブルムの首班指名に協力し、閣外からブルム内閣を協力し続けることになる。
あるいは、スペイン共和国政府においてスペイン共産党は、その支配地域において地主制の廃止や工場の労働者所有を推進し「反ファシズム戦争を社会主義革命へ」を掲げるアナーキストや非コミンテルン系のマルクス主義政党(CNT急進派、POUMなど)に対して、一貫して「革命より反ファシズム戦争の勝利を優先するべき」あるいは「急激な革命は中産階級を反ファシズムの戦線から離反させる」と主張した。スペイン共産党は、共和国支配地域では「ブルジョア政党」も含めたアサーニャを首班とする人民戦線政府に参加する一方で、スペインに潜入したソ連の秘密警察の援助の下でCNT急進派、POUM、CNT-FAIなどの社会主義革命派を弾圧し、数多くの活動家を抹殺する。
アメリカでは、1936年の大統領選の際、人民戦線戦術に基づいてアメリカ共産党がノーマン・トーマス率いるアメリカ社会党に対し、共同での出馬を呼びかけたが拒否されている。当時、共産党の路線はニューディールに対する批判的支持を掲げるなど愛国主義的・ポピュリスト的であり、この路線は当時の党首アール・ブラウダーの名前から「ブラウダー主義」と呼称される。
人民戦線運動は1935年7月、モスクワで開催されたコミンテルン第7回大会で提唱され、コミンテルンの方針転換をもたらしたが、1939年8月にソ連のスターリンが独ソ不可侵条約を締結することで終結させられる。コミンテルン(スターリン)の方針は、反ファシズムよりも「アメリカ・イギリス帝国主義への反対」が強調され、コミンテルン支部の各国共産党と反ファシズム運動内部に混乱がもたらされた。また、フランス共産党は党員の3分の1が「独ソ協定」に反発して離脱し、政府からは「利敵団体」として非合法化された。
1940年のナチス・ドイツによるフランス侵攻という段階に至っても、(のちに捏造される伝説とは違って)フランス共産党は反ナチ・レジスタンス運動を開始するどころか、当初は占領当局に機関紙『ユマニテ』の発行を請願し、アナーキストやトロツキストの名簿をナチスに渡したりしている。
1941年のナチス・ドイツのソ連侵攻によって、フランス共産党も武装してレジスタンスを開始する。フランス共産党のレジスタンスは「ドイツ兵を一兵でも多くソ連から引き離せ」というスターリンの指令によって、その開始の当初からナチ将校の射殺を繰り返す激しい戦術を採用する。それに対するナチス側の弾圧も「疑わしきは処刑」と熾烈を極めたことから、フランス共産党は「銃殺を恐れぬ党」としてフランス社会で権威を取り戻すことになる。また、フランス共産党は「愛国主義とインターナショナリズムの融合」をレジスタンス運動におけるスローガンに掲げ、ドゴール派らブルジョアジーのレジスタンス組織とも協調した。あるいは、レジスタンスの大衆組織として「国民戦線」を結成し、主に中産階級の取り込みを図った。
1944年にナチスを放逐した国民的なレジスタンス運動は、共産党の権威の高まりとあいまって「ブルジョアジーすら社会主義を希求する」と言われたような状況を現出させる。しかし、モスクワに亡命していたフランス共産党の指導者モーリス・トレーズは帰国するなりレジスタンスの武装解除を命じ、資本主義体制再建に協力することになる。
イタリアでも同様の現象が起こり、反ファシズム・パルチザンとして武装した小作農民による土地占拠と農民自治の動きをイタリア共産党は武装解除させ、イタリアキリスト教民主党との協調による資本主義体制再建に手を貸した。戦後のフランス・ドゴール政権ではフランス共産党の書記長トレーズが、またイタリアでは共産党のトリアッティがいずれも副首相として入閣した。
あるいは、この「反ファシズム世界戦争」の時期には、植民地での民族解放運動にスターリンは反対する。それは「反ナチス同盟」によるアメリカ・イギリスとの協調を最優先にしたスターリンの考えに基づくものであり、アメリカ共産党が広島・長崎への原爆投下を「反ファシズムの正義の行為」と賞賛し、戦後の日本共産党がGHQを一時的に「解放軍」と規定したような情況を作り出すことになる。
以上のことから、「人民戦線」戦術とは、ソ連が自由主義諸国に影響力を持つため、資本家・中産階級と共産党、あるいはアメリカやイギリスなどとソ連が協調する統一戦線政策という側面がある。これは、フランス、イギリス、アメリカにおける共産主義勢力の拡大といった一定の成功を収めた。
人民戦線運動の発想は、戦後の仏伊における挙国一致政権や1970年代チリの人民連合・連合政権などの統一戦線・政党間共闘などにも継承されている。日本においては、日本共産党の1970年代での「民主連合政府」の提案や、「『核兵器には資本家でも反対する』からその一点で共闘する」という1980年代の「反核統一戦線」、2010年代の「国民連合政府」の提案などで、この人民戦線の方法論が受け継がれている。
(以下引用)
第三期[編集]
1928年2月9日から2月25日までモスクワで開催された執行委員会(Executive Committee of the Communist International)の第9回会合(Plenum)には27か国から92名の代表が参加し、いわゆる「第三期」(Third Period)を開始し、それは1935年まで続けられる予定であった[18]。コミンテルンは資本主義体制が最終的崩壊の段階に入っていること及び全ての共産党の正しい在り方は高度に攻撃的、軍事的、極左(Ultra-left)路線であることといったことを宣言している。特にコミンテルンは全ての穏健な左翼会派を「社会主義ファシスト」と表現して、共産主義者は穏健な左翼会派の破壊のために尽力するよう主張した。1930年以後のドイツにおけるナチの活動拡大により、この姿勢はドイツ社会民主党を主要な敵として扱うドイツ共産党の戦術を批判していたポーランド人共産主義者で歴史家のアイザック・ドイッチャーなど多くの者と多少の論争となった。
第6回コミンテルン大会は1928年7月17日から9月1日にかけてモスクワで開催され、57か国から532名の代表が出席した。スターリンが直接に指導し、ニコライ・ブハーリンの「日和見主義的立場」を除き、資本主義戦後発展第三期は資本主義的安定の矛盾を発展させ資本主義的安定をさらに動揺させ、資本主義の一般的危機を激化させるべきとする第三期論を決定した。
共産主義者の帝国主義戦争への反対運動は一般平和主義者の戦争反対運動とは根底が異なり、共産主義者は戦争反対運動をブルジョワ支配階級の絶滅を目的とする階級闘争に必要なものとテーゼに記され、ブルジョワジー絶滅のための革命のみが戦争防止の手段であり、さもなくば帝国主義戦争は避けがたいものとされ、それが勃発した場合に共産主義者はいわゆる敗戦革命論[19]に基づき、(1)自国政府の敗北を助成すること、(2)帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦に転換させること、(3)民主的な方法による正義の平和は到底不可能であり、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行することが政治綱領となった[20]
この大会においても植民地の世界における統一戦線の方針が修正されている。1927年、中国国民党は中国の共産主義者を攻撃し、そのため植民地の国々における地元ブルジョワジーとの同盟を形成するという方針の見直しにつながった。しかし、大会では中国国民党を一方とし、インドのスワラジ党(Swaraj Party)とエジプトのワフド党を信頼できない同盟ながら敵ではないと考慮して他方とした区別がなされた。大会はインドの共産主義者に地元のブルジョワジーと英国の帝国主義者間の矛盾を利用することを求めた[21]。
第7回コミンテルン世界大会と人民戦線[編集]
7回目であり最後の大会は1935年7月25日から8月20日にかけてモスクワで開催され、そこには57か国、65の共産党から510名の代表が出席している。会議はファシズム反対、戦争反対の議論に加え、資本主義攻勢反対の一国的及び国際的統一戦線及び人民戦線の徹底的展開並びにその効果的活動方針を決定している。スポーツ・宗教などの活動にも浸透することが求められた[22]。
主な報告はディミトロフによってなされ、他の報告はパルミーロ・トリアッティ、ヴィルヘルム・ピーク、ドミトリー・マヌイリスキーによった[23]。大会は公式にファシズムに対する人民戦線を承認した。この方針の主張は共産党ならばファシズムに反対する全ての会派と人民戦線をなすこと、及び共産党自身が労働者階級を基盤とする会派との統一戦線を形成することを制限しないことであった。コミンテルンのどの国家の部局からもこの方針に対する目立った反対はなく、特にフランスとスペインにおいては人民戦線政府につながるレオン・ブルムの1936年選挙とともに重要な結果となる。
統一戦線はコミンテルンの根本政策とした決議の第一には、コミンテルンはそれまでの諸団体との対立を清算し、反ファシズム、反戦思想を持つ者とファシズムに対抗する単一戦線の構築を進め、このために理想論を捨て各国の特殊事情にも考慮して現実的に対応し、気づかれることなく大衆を傘下に呼び込み、さらにファシズムあるいはブルジョワ機関への潜入を積極的に行って内部からそれを崩壊させること、第二に共産主義化の攻撃目標を主として日本、ドイツ、ポーランドに選定し、この国々の打倒にはイギリス、フランス、アメリカの資本主義国とも提携して個々を撃破する戦略を用いること、第三に日本を中心とする共産主義化のために中華民国を重用することが記されている[24]。コミンテルンの主な攻撃目標にされた日本とドイツは1936年11月25日に日独防共協定を調印した。
大粛清とコミンテルン[編集]
1930年代のスターリンによる大粛清はソ連国内及び海外にいたコミンテルン活動家に影響を及ぼした。スターリンの指示により見かけ上はコミンテルンとして活動するソ連秘密警察、対外諜報員及び情報提供者がコミンテルンに徹底的に送り込まれた。「ミハイル・アレクサンドロヴィチ・モスクビン」という偽名を使っていたその指揮官の1人であったメール・トリリッセルは実際には後に内務人民委員部(NKVD)となるソビエトOGPUの対外部局長官であった。コミンテルンのスタッフメンバー492人の内133人がスターリンの命令で大粛清の犠牲者になった。ナチス・ドイツから逃げたり、あるいはソ連に移住するよう説得された数百人のドイツ人の共産主義者と反ファシズム主義者は粛清され、また1000名以上がドイツに送還させられている[25]。フリッツ・プラッテンは1942年にニャンドマで銃殺され[26]、インド(ヴォレンドラナート・チャットパディア)、朝鮮、メキシコ、イラン及びトルコの共産党の指導者が処刑された。11人のモンゴル人民革命党指導者の内、ホルローギーン・チョイバルサンだけが生き残った。数多くのドイツ人共産主義者がヒトラーに引き渡された。概して、欧米の民主主義国家の共産党指導者は粛清を免れ、ファシズムや植民地の共産党指導者が粛清された。レオポルド・トレッペルは、「全ての国の党活動家がいた宿舎ではだれも朝の3時まで寝なかった。…ちょうど3時に自動車のライトが見え始めた。…我々は窓の傍で、どこにその車が止まったか確かめようと待った」と、この頃を振り返った[27]。
日本共産党とコミンテルンテーゼ[編集]
1922年に日本共産党が承認された(日本共産党はコミンテルン日本支部となる)。
- 22年テーゼ(草案)
- コミンテルンのゲオルギー・サファロフ(元ジノヴィエフ派、後に粛清)により執筆され、当面する日本革命を「ブルジョア民主主義的任務を広汎に抱擁するプロレタリア革命」とした。
まあ、DS(グローバリスト)が現在進めている「大資本による世界政府」は、国ごとの政府を消滅させる意味では無政府主義だと言えるし、資本による支配は、労働者による支配の陰画ではある。
(以下引用)
アナルコ・サンディカリスム (英語: Anarcho-syndicalism)あるいは無政府組合主義(むせいふくみあいしゅぎ)は、社会主義の一派であり、労働組合運動を重視する無政府主義のこと。アナルコは無政府主義、サンディカは労働組合のことである。アナルコ・サンディカリスムという名称はサム・マイアウェリングによって始められた。
議会を通じた改革などの政治運動には否定的で、労働組合を原動力とする直接行動(ゼネラル・ストライキなどいわゆる『院外闘争』)で社会革命を果たし、労働組合が生産と分配を行う社会を目指した。労働組合至上主義。
19世紀末にフランスで労働組合を拠点とした革命を主張する革命的サンディカリスムが興った。20世紀に入ってアナキズムと合流し、アナルコ・サンディカリスムとなり、フランス・スペインなどで盛んになった。
日本でアナルコ・サンディカリスムの影響を受けた思想家には大杉栄がいるが、大杉の虐殺後、マルクス主義が左翼運動の主流になり、アナキズムは反サンディカリスムの純正アナキズム(八太舟三)が主流となる。
社会主義者として[編集]
1905年(明治38年)3月、週刊『平民新聞』の後継紙である『直言』に堺利彦が書いた紹介記事によりエスペラントを知り、1905年(明治38年)7月に東京外国語学校仏語学科選科を修了[16]し、同年から翌年にかけ東京市本郷にある習性小学校にエスペラント学校を開いた。
1906年3月には電車値上反対の市民大会に参加し、電車焼き討ち事件に関与したとして、兇徒聚集罪により初めて逮捕されたが、6月に保釈となった。同年11月には『光』紙掲載の「新兵諸君に与ふ」で新聞紙条例違反で起訴され、以降、主に言論活動で社会主義運動に関わっていった。
1908年(明治41年)1月17日、いわゆる屋上演説事件[17]で治安警察法違反となり逮捕された。同年4月、中国人留学生の劉師培の家で留学生にエスペラントを教えた。
同年6月22日、錦輝館に於ける山口孤剣の出獄歓迎会で赤旗を振り回し警官隊と乱闘(赤旗事件)でまたもや逮捕。それまでの量刑も含み、2年6ヶ月近くの千葉刑務所での刑務所生活を送った。 獄中でさらに語学を学びアナキズムの本も多読。
1910年(明治43年)9月、千葉刑務所から東京監獄に移され、幸徳秋水らの「大逆事件」に関連した取調べを受けるが、検挙は免れる。11月に出所。堺利彦らとともに売文社をつくる。
1911年(明治44年)1月24日、幸徳たちが処刑され社会主義運動が一時的に後退する中で、大杉は荒畑寒村とともに1912年(大正元年)10月『近代思想』、1914年(大正3年)10月『平民新聞』を発刊し、定例の研究会を開き運動を広げようとする。しかし発禁処分の連続から経済的にも行き詰まる。このころチャールズ・ダーウィンの"The Origin of Species"を『種の起原』という題で翻訳出版。アナキズムの立場を鮮明にしてきた大杉の態度に荒畑や古くからの同志の反発もあり、復活させた『近代思想』も1916年(大正5年)初めに廃刊。
同年には伊藤野枝との恋愛も始まり、研究会への同志の参加も減る。妻堀保子との結婚も続く状況下、以前からの恋愛相手であった神近市子から11月9日に刺されるという日陰茶屋事件[18]が起きて、重症を負った。市子は身を粉にして献身的に経済面で大杉を支えており、世論は市子に同情的で、野枝を魔性の女のように噂し、その子を悪魔のように言った。大杉の評判も地に落ち、同志たちから完全に孤立し、野枝との共同生活を始めるが生活資金にも事欠くようになった。
1917年(大正6年)9月、長女魔子[19]が誕生。村木源次郎だけは大杉の家に同居し手伝う。年末になり労働者の町、亀戸に移転、野枝と『文明批評』を創刊。和田久太郎、久板卯之助も大杉と行動を共にする。前年のロシア革命勃発の影響もあり労働運動が盛り上がる機運となり、1918年(大正7年)2月、同志たちとの関係修復を図り、研究会も再び定期的に開き、サンディカリズムの立場で労働運動への影響を強める。8月には九州、関西を周り、大阪では米騒動の騒乱を目の当たりにした。
1919年(大正8年)1月、近藤憲二らが主催し、毎回労働者も参集していた北風会と研究会を合同、6月から8月にかけ「労働運動の精神」をテーマに講演を続ける。9月、「東京労働同盟会」と改称し機関紙『労働運動』の刊行を企図し、同志達と相談を始め、10月に創刊号を発行。拠点となる労働運動社に仲間が集まる。
1920年(大正9年)、不況下で労働争議も増え大杉の活動は広がる。クロポトキンの著作翻訳、前年からの演説会もらい、メーデーを前にしての事前検束もされる。夏、コミンテルンから「密使」の訪問があり、10月、密かに日本を脱出して、中華民国の上海で開かれた社会主義者の集まりに参加。11月帰国。12月9日、社会主義者同盟結成に向けて鎌倉の大杉宅に地方からの出席者を中心に40名余り集まる。
1921年(大正10年)1月、コミンテルンからの資金でアナ・ボル(アナキスト・ボルシェヴィキ)共同の機関紙としての『労働運動』(第二次)を刊行。しかし2月に腸チフスを悪化させ入院。6月、ボルの井伊らの裏切りもあり共同路線が破綻し、『労働運動』紙は13号で廃刊。12月にはアナキストだけで『労働運動』(第三次)を復刊させる。
1922年(大正11年)2月、八幡市(現・北九州市)での八幡製鉄所罷工二周年記念演説会に参加。この年前半、大杉は『労働運動』紙において「ソビエト政府」のアナキスト達への弾圧を報告。信友会有志、労働運動社の同志とともに大杉も労働組合の連合を目指すため全国労働組合総連合会発足に努力するが9月30日、サンディカリズム派と総同盟派との対立にボルも介在して結成は失敗、アナ・ボル論争は激化した。
後に大杉への追悼詩「杉よ!眼の男よ!」を執筆する中浜哲は大杉に接近、『労働運動』紙へ労働争議の現場報告、詩を頻繁に掲載した。8月には富川町で「自由労働者同盟」を結成、新潟、中津川での朝鮮人労働者虐殺の実態調査に赴く、10月にはギロチン社を古田大次郎らと結成する。大杉は12月、翌年にドイツのベルリンで開かれる予定の国際アナキスト大会に参加のため再び日本を脱出する。
1923年(大正12年)1月5日に上海からフランス船籍の船に乗車し、中華民国経由で中国人に偽装してフランスに向かった。マフノ運動の中心人物、ネストル・マフノと接触も図る目的もあった。またアジアでのアナキストの連合も意図し、上海、フランスで中国のアナキストらと会談を重ねる。2月13日にマルセイユ着、大会がたびたび延期されフランスから国境を越えるのも困難になる中、大杉はパリ近郊のサン・ドニのメーデーで演説を行い、警察に逮捕されラ・サンテ監獄に送られる。日本の大杉栄と判明、裁判後に強制退去となる。在フランス日本領事館の手配でマルセイユから箱根丸にて日本へ、7月11日神戸に戻る。その際、パリの大使館からの反対意見により切符が二等船室になったことを恨む記述を『日本脱出記』に書いている。
同年、滞仏中から滞在記が発表され、後に『日本脱出記』としてまとめられる。また、かつて豊多摩刑務所収監中に翻訳(本国初訳)した『ファーブル昆虫記』が『昆虫記』の名で出版される。東京に落ち着き、8月末にアナキストの連合を意図して集まりを開くが、進展を図る前に関東大震災に遭遇。
やはり中心は「大逆事件」になるだろうか。ただし、もちろん、現実のそれではなく、それを匂わせる事件である。あるいは、関東大震災における官憲による社会主義者虐殺事件か。
事件の経緯[編集]
事件の発覚[編集]
関東大震災で東京や神奈川が混乱に陥るとして戒厳令が発せられていたさなか、1923年(大正12年)9月16日、大杉栄は、内縁の妻伊藤野枝(作家)を連れ、鶴見区三笠園[注 2]に住居があった辻潤(伊藤の前夫)を見舞ったが、辻が留守であったので、近くの神奈川県橘樹郡鶴見町[注 2]に住む実弟の大杉勇宅を訪問。偶然、大杉の末妹あやめとその息子の橘宗一(6歳)[注 3]が滞在していて、宗一が「東京の焼跡を見に行きたい」[2]というので、これを理由に同行して東京に戻ることとなった。
夕刻に自宅付近に帰ってくるが、伊藤が果物を買っていると、張り込み中の憲兵隊に強引に連行され、淀橋警察署[3]から自動車で麹町憲兵司令部に連れて行かれて消息を絶った[4]。行方不明になった大杉を、その友人で読売新聞記者であった安成二郎[注 4]が探すが、見つからずに事件性を直観。家人が警察に捜索願を出した[5]。
警視庁は捜索願を受けて驚き、調べてみたところ、淀橋警察署が憲兵隊による検束を報告した。そこで警視庁が憲兵隊に問い合わせると、憲兵はすでに帰したと返答した。警視庁は行方不明の大杉が何か良からぬ計画でも行っているのではないかと思い、血眼で行方を捜した[6]。
大杉はアナキストの大立者であり[7]、18日の報知新聞の夕刊で「大杉夫妻が子供と共に憲兵隊に連れて行かれた」[8]という記事が出て、噂はすぐに広まった。以前より陸軍が何かやるらしいと聞いていたが沈黙していた警視庁官房主事の正力松太郎(後述)は、子供が関わっていたことを憂慮して、警視総監湯淺倉平に相談。湯淺総監は新任の後藤新平[注 5]内相[注 6]に報告するが、後藤に自分では対処できないとして総理に報告するように言われて、湯淺総監は直接、総理大臣山本権兵衛に会って報告した。山本首相が閣議で田中義一陸相に聞くと「知らん」と言い、戒厳司令官福田雅太郎を呼んで問いただしてみても関知していなかったので、憲兵隊の捜査が開始された[8]。するとすぐに内部の犯行が明らかになった。田中陸相が改めて憲兵司令官小泉六一を呼んで問いただすと、小泉は甘粕の犯行を認めた上で賛美したため、田中は叱責して小泉に謹慎を命じた[9]。憲兵隊司令部では9月19日中には甘粕と森が衛戍監獄に収監された[6]。また古井戸から遺体が引き上げられた[10]。
9月20日、「甘粕憲兵大尉が大杉栄を殺害」の一報を大阪朝日新聞と時事新報が号外で発し[11]、大阪朝日新聞は東京からの記者の電話でこの日は2度号外を出した[注 7]。時事新報は記者を憲兵隊本部に張り込ませ、大杉だけではなく伊藤野枝と子供が殺されたこと、現場の井戸も確認した[12]。
軍は突如として9月20日付で、東京憲兵隊渋谷分隊長兼麹町分隊長であった甘粕正彦憲兵大尉と東京憲兵隊本部付(特高課)森慶次郎憲兵曹長が「職務上不法行為」を行ったとして軍法会議に送致し、福田雅太郎戒厳司令官を更迭、憲兵司令官小泉六一少将と東京憲兵隊長小山介蔵憲兵大佐を停職処分とすると発表した。また同時に本件に関する新聞記事を差し止める情報統制の決定をした[13]。以後、新聞各紙は核心部分をすべて○○の伏字として事件を報じた。報道は止められたが、情報は各社に電話で拡散したため、検閲を掻い潜った九州日報は21日にも号外を出している[14]。
戒厳令下で不眠不休で治安維持に当たっていた軍隊に、世論は普段反軍的な者さえも含めて支持や敬意を表明していたが、突然の司令官更迭について新聞で詳細が報じられないことから、何事が起こったのかと騒然となった。流言飛語が盛んになっていたこともあり、人心不安が高まった[13]。
批判が強まる中で、軍は前日の予審の結果を受けて9月25日に第一師団司令部[注 8]発表として、甘粕大尉が16日の夜に大杉栄と他2名を某所に連行して殺害した、と公表したが、他2名が何者であるかは公表させなかった。10月8日に記事差し止め処分が解除されると、新聞は他2名が、伊藤野枝と橘宗一であることを報じ、日本を騒がせるアナキストであり恋愛スキャンダル(日蔭茶屋事件)でも世間に有名になった大杉・伊藤の2人に加え、6歳の小児までも殺されたとあって世間は騒然となった[15]。
軍法会議[編集]
9月24日に軍法会議予審があり、事件の概要が明らかにされた。軍法会議の公判[注 9]も極めて性急に行われた。それらによると、甘粕大尉らは、大震災の混乱に乗じてアナキストらが不穏な動きを起こし政府を転覆しようとすると憂慮し、アナキストの主要人物であった大杉と伊藤を殺害することを決めたという。
予審で明らかになったところでは、9月16日に大杉ら3人が鶴見から帰る途中、自宅付近で甘粕大尉と東京憲兵隊本部付の森慶次郎曹長(後に明らかになるところによれば、さらに鴨志田と本多の両名を加えた4名)が張り込みをしており、子供だけは帰宅させてくれという大杉の要望を拒否して、強引に3人を拉致し、麹町憲兵分隊に連行した。東京憲兵隊本部で夕食を出したが、大杉と伊藤は食べず、橘だけが食べた。大杉はナイフを借りて伊藤が持っていた梨を2人で食べた。午後8時、3人は別々の部屋に移された。
甘粕は予審調書で大杉と伊藤とを自分が絞め殺したと認め、その様子を細かく描写した。大杉は応接室で森曹長と雑談のような取り調べを受けていたが、入室した甘粕は背後から柔道の締め手で大杉の首を右手で絞め、森は苦しみもがく大杉の足を押さえた。15分ほどでぐったりして亡くなった[16]。その後、念のためとしてさらに麻縄で絞めた。午後9時15分、次に甘粕は階下の隊長室に入れられた伊藤のもとを訪れ、しばらく会話して油断させると、同様に絞殺した。[注 10]
甘粕は最初、「個人の考えで3人全てを殺害した」として、大杉と伊藤との間の子供と誤解された橘宗一の死に関しても認めたが、軍法会議では、橘の死の経緯を調書で省略したことに官選弁護人塚崎直義が疑念を持って追及した[17]。特に甘粕の母親が「正彦は特に子供好きでした。罪とがもない子供を手にかけるなど、あり得ない」[18]と涙ながらに主張したことにより、自白を一部撤回。自分は「子供は殺していない。菰包(こもづつ)みになったのを見て、初めてそれを知った」と証言を変えて、大杉と伊藤を殺したのは認めたが、子供殺しは自分ではないとした。橘は連行するために自動車に乗せた最初から甘粕に懐いていた。甘粕は便所に行ってくるといってその場を離れ、少年の死には立ち会っていないと主張した。
この供述の撤回により予審の内容が覆されたことで、塚崎弁護士は捜査のやり直しと公判の中止を申請した[19]。
このため、陸軍省から橘宗一殺しの再調査が命令され[20]、10月5日、鴨志田安五郎と本多重雄という2名の憲兵上等兵が橘殺しの共犯であるとして自首し、6日には平井利一憲兵伍長も見張り役として伊藤の死に関与していたことを告白して自首。被告人は5名となった。
鴨志田と本多は子供殺しを認めたが、甘粕と森が「上官の命令だからやりそこなうな」と話していたと証言して波紋を呼んだ。しかし憲兵隊の小泉少将と小山大佐がこの証言を否定した後、以後は軍上層部が関与した疑惑は追及すらされなかった。結局は森曹長が鴨志田に「おまえがやれ」と命令したとされ、鴨志田と本多が手を下すことになった。2人も子供殺しに躊躇したが、命令に逆らえずに、鴨志田が首を絞め、本多が押さえて殺した。森は「甘粕大尉が子供も殺せと命令した」と主張し、自分に命令したのは甘粕であるとした。甘粕は投げ槍な態度で「森が言うのですからその通りでしょう。私は軍人であります。命令しました」[18]と自分が責任を被る旨の答弁をして、再度、供述を翻した。
甘粕と森は遺体の処分について話し合ったが、構外に運び出すと露見するとして森が難色を示し、本部裏の古井戸に投げ込むこととした。甘粕は3名の着物をハサミで切って裸として菰に包み、古井戸に落とした。衣類は翌17日に別の場所で焼却した。何も知らない人足に指示して、古井戸は馬糞や煉瓦を投げ込んで埋められた。
動機については、関東大震災の混乱に乗じて無政府主義者が朝鮮人を扇動して騒動を起こすという噂を信じていたとされた。甘粕は「大杉の次は堺利彦と福田狂二を殺す予定だった」と述べた[21][注 11]。さらに、最も危険視された無政府主義者の大杉栄が検挙されていないから「やっつけろ」という意見が淀橋署にあったが、警察ではできないから憲兵の方でやってくれないかという話だったとも、甘粕と森は主張したが、淀橋署員らは「記憶にない」と殺害依頼を否定し[22]、真相解明に至らなかった。 また新聞では橘宗一の殺害理由を伊藤野枝の殺害を目撃したがためであると報じられたが、公判ではこれは取り上げられず、前述のように甘粕が命令した事実のみが認定され、子供の死に関して理由や経緯などについても解明されなかった[23]。
なお、法務官小川關次郎と被害者橘宗一は従甥の関係にあるとわかって、途中で交代した。
世論と判決[編集]
このスキャンダラスな事件については、軍法会議の内容が連日詳しく報道された。現代とは異なり、亀戸事件・朴烈事件など大震災直後に起こった社会主義者・労働活動家・朝鮮人に対する警察や軍隊による不法拘束や虐殺についてすら世論は2つに割れていたが[注 12]、甘粕に対しては、弁護士の塚崎のもとには鴨志田や本多等の下士を罰するのみで「甘粕を減刑させたら承知せぬぞ」という社会主義者からの脅迫が届いていた[24]一方で、「甘粕は国士である」との肯定的な評価から「国賊・大杉を処断した甘粕大尉に減刑を」との署名が数十万名分も集まるなど甘粕大尉を支持する声も強かった。また甘粕も命令を受けて行動したのみで真犯人を庇って責任を1人で被ったのであって、真相は闇の中であるという意見も根強くあった[25]。
しかし軍法会議は事件の背後関係には立ち入らないまま、11月24日に検察求刑、最終弁論があって、12月8日、殺害を実行および命令したとして甘粕大尉を首謀者と断じて懲役10年[注 13]、森曹長には同3年[注 14]、命令により殺害して遺体を遺棄した本多・鴨志田の2名は命令に従ったのみとして無罪[注 15]を、また見張りとして関与した平井伍長は証拠不十分により無罪[注 16]と、判決を下して終了した。甘粕に懲役10年が告げられると、傍聴人の中からは有罪が不満であるとして草履を投げる者や怒号を上げる者があって一時騒然としたが、本人らは黙して退出。無罪となった3名は安堵の表情で退出した。
事件の余波[編集]
公判中の10月4日、甘粕大尉の弟で学生の甘粕五郎は、ギロチン社の田中勇之進に襲撃された[26]。
労働運動社(神田北甲賀町)で行われた大杉ら3名の葬儀・告別式では、国賊の葬儀などさせぬという右翼の一団[注 17]が車2台で乗りつけ、そのうちの1人下鳥繁造[注 18]が焼香の際に遺骨を奪い、制止する古田大次郎や和田久太郎に高笑いして、大杉栄の遺影に銃弾を放って逃走するという事件があった。遺骨は下鳥から寺田稲次郎に、寺田から大化会会長岩田富美夫が受け取って車で逃走。下鳥らはその場でアナキスト30名ほどに囲まれるが私服警官に投降し、寺田は逃走中の岐阜駅で捕まった。逃走に成功した岩田は、数ヶ月後に北一輝(猶存社)の仲介で3名を起訴猶予とすることを条件として、自ら警視庁に出頭して湯淺総監に遺骨を返還した。岩田は逮捕を免れ、釈放された。
アナキストらは大杉殺害の報復として、関東戒厳司令官の福田雅太郎を標的とした狙撃事件(犯人は古田大次郎[注 19]、和田久太郎、村木源次郎)、福田に糞尿を投げつけた糞喰らえ事件(犯人は古河力作の弟古河三樹松と義弟池田寅三)などを相次いで起こしたが、次々と逮捕された。
アナキストのうち特に朝鮮出身者は中華民国の上海や満州地方に渡ってテロリズムに傾倒するが、日本出身者では転向したり活動を抑圧される者が多く、日本のアナキスト運動は急速に衰退に向かった。
甘粕大尉は3年弱、千葉刑務所において刑に服したが、摂政宮の御成婚による恩赦による減刑で、1926年(大正15年)の10月に仮出所で釈放された。その後、陸軍の官費で夫婦でフランスに留学し、満州に渡って満州事変に関わることになった。
異説・陰謀説[編集]
事件の主犯は甘粕ではないとする説は事件当時の大正時代から根強く存在している。甘粕が模範的な士官と思われたことから「甘粕は事件自体に関与していない」「大杉以外の殺害は知らなかった」などのさまざまな説が生まれた。満州時代の甘粕は、満州映画協会幹部らとの私的な席で「ぼくはやっていない」という発言をし[27]、陸士同期の半田敏治(満洲国国務院総務庁参事官[28])にも酒の席で「俺は何もやっちゃおらんよ」と語っていた[29]。しかし一方で奉天特務機関の貴志彌次郎少将[注 20]は吉薗周蔵(後述)に「甘粕に騙されるな」[30]と注意しており、甘粕の経歴や裏の顔を指摘する声もあって、そこから発展して様々な異説や陰謀説も生まれた。主なものは以下。
- 憲兵司令官小泉六一主犯説[31]
- 戒厳司令官福田雅太郎主犯説[注 21]
- 麻布第三連隊主犯説(脚本家笠原和夫)[注 22]
- 陸軍幹部謀略説(竹中労など)
- 陸軍内秘密結社説(事件当時の読売新聞陸軍部長中尾竜夫 )
- 甘粕=フリーメーソン説(評論家三宅雪嶺ほか)[32]
- 大杉密偵説(吉薗周蔵)
これらは大別すると、憲兵隊または軍が組織として主義者の殺害を命令したが事後に軍組織の関与を隠蔽して、実行者である甘粕らが命令者の責任を被ったというものと、実行者ではない甘粕らが命令者と実行者の両方の責任を被ったというもの、または非公式な組織や個人の命令や指示で甘粕らが実行したというもの、などに分けられる。
多くが指摘することは、渋谷と麹町の分隊長である憲兵大尉甘粕正彦が、直属の部下ではない、憲兵司令部付曹長である森慶次郎に命令していた点であった。2人に指示ができる命令者は、甘粕よりも立場が上でなくては組織上おかしく、これらが小泉や小山、福田が主犯と疑われる理由の1つとなっている。また軍隊内の結社説も、命令系統の無視を理由の1つとしている。