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兵頭栄三(ピョートル、大杉栄)の「アナーキズム理論」を考えること。

1:政府は個人に対していかなる権利も持たない。徴税権も刑罰の権利も。
2:なぜなら、政府は個人との間にいかなる契約も結んでいないからである。
3:政府が個人に与えている恩恵も、一方的に押し付けただけで、恩に着る義理はない。
4:政府という「人格」は存在せず、顔の無い組織があるだけである。
5:政府が政府として存在する、いかなる権利も無い。
6:従って、政府の要求をすべて拒否する権利が個人にはある。
7:国土自体、政府のものではないから、反抗的人間を追放する権利も政府にはない。
8:そもそも、あらゆる土地の所有権を主張する権利はどの個人にもない。
9:あらゆる個人は自由であり、法律は個人を縛る権利は無い。
10:あらゆる個人は生来平等であり、上下関係は社会的に作られる。
11:その上下関係が人間を不幸な存在とする。
12:上下関係を社会全体に強制するのが「国家」である。
13:ゆえに国家は打倒されるべきである。

今作ってみたが、なかなか論破するのが難しそうであるwww

(反論)
1:その国家、あるいは政府の否定論は結局あらゆる組織を否定することになるだろう。
2:組織を持たない社会は存続できるはずがない。
3:個人対個人の欲望の衝突は法律無しに解決できないだろう。
4:国家とは政府が機能した状態の謂であり、政府が無い国家は存続できない。
5:なぜなら、他国の侵略に抵抗できないからである。
6:国家を守るには軍隊が必要であり、そこでは命令系統という上下関係が必須になる。
7:単なる農作業程度ですら、命令と服従の関係が無いと共同作業は不可能である。
8:よって、上下関係は社会の存続に不可欠である。
9:上下関係は必ずしも不幸の原因とは限らない。親子の関係もそれなしでは成立しない。
10:愛情だけで人間関係が成立するというのは人間の悪の面を無視している。
11:国家、あるいは政府とは社会全体の調節機関であり、保護機関である。
12:したがって、無政府主義とは人間の生命そのものの否定になる愚劣な思想である。


(参考)ロシア革命の先覚者

チェルヌイシェフスキーは、クリミア戦争後のロシア社会が初期資本主義経済の段階に突入したと喝破し、イギリスに代表される先進資本主義諸国が、資本家による労働者の残虐な収奪による悲惨な状況をロシアにおいて回避すべく、農村共同体(ミール)に着目した。このミールによって本来、経済史的に後進地域であるロシアは、西欧の先進国を反面教師とし、後進性を逆に優位たらしめるものと着目した。また、チェルヌイシェフスキーは単に資本主義に対して批判的な態度を取ったのではなく、特に産業革命と結合した社会における生産力の拡大を積極的に評価した。チェルヌイシェフスキーは、ロシアのスラブ派にあった単なるミールの理想視とも、西欧の状況に絶望してミールに期待したゲルツェンらとも異なり、西欧社会主義の最終的勝利とその準備段階として、長い年月の経過を予想していた。当初、マルクスは、チェルヌイシェフスキーに関心を示したとされるが、革命に関して両者には相違がある。

レーニンらを感動させた小説『何をなすべきか』(1863年)は、革命家に対して厳しい自己陶冶を説くとともに、協同社会の建設、男女の不平等と女性の社会的自立の問題を取り上げ、同時代に生きる急進的な文化人を強く引きつけて、後世、ロシア・東欧における女性解放フェミニズムを含む社会運動上、巨大な影響を及ぼすこととなった。だが一方では、反自由主義的思想などの面でもレーニンに影響を与えた(ドミトリー・ヴォルコゴーノフ「レーニンの秘密」)。





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別稿の「意味のある描写と意味の無い描写」から生じる「セオリー」は、小説(物語)というのは何より「事件」が大事だということだ。漫画だと創作法としては「キャラクターが先」、かもしれないが、小説のキャラクターは(読者にとっては)「事件の進行によってキャラが固まっていく」のではないか。「悪霊」のスタヴローギンが何者か、というのは物語の前半ではまったく分からず、そこがむしろ読者の興味を搔き立てるのである。もちろん、外貌描写はあるが、最初はそれだけだ。

ということで、「魔群の饗宴」の「物語」を構築していく必要があるわけだ。「悪霊」とは違って、須田銀三郎と大杉栄を「対立的存在」として描くか。銀三郎は貴族ではあるが社会主義に関心があり、理想社会の実現を「考察対象」にしてはいる。そういう存在とするか。
大杉栄(話の中では兵頭栄三)は、ヤクザな性格と社会改革への情熱が同居した人間。物凄い行動力の持ち主で、そこはピョートルと同じ。銀三郎を「利用」しようとして彼に接近するという点でもピョートルと同じ。(「魔群の饗宴」は「魔群の狂宴」でもいい)
中江兆民をステパン先生的な役回りで使うか。栄三とは特に親子関係でなくてもいい。

山のひとつは、銀三郎と栄三の「社会主義論争」(アナーキズムの不可能性について、栄三が銀三郎に完全に論破される。その際に、彼の「自由恋愛思想」が三角関係相手の女に刺されることで破産していることを揶揄される。)

山の二つ目は、大地震(関東大震災)の際に栄三と恋人が官憲によって殺害される事件。

いわば、一つ目の山が栄三の思想的死、二つ目の山が肉体的死である。

しかし、銀三郎も貴族階級の衰退という運命が待っていることを暗示して話は終わる。(その前に、銀三郎は自分自身のニヒリズムによって精神的に破産していることを示す。)

あるいは、資本家という最高の俗物たちが社会の勝利者になる、という「社会主義の墓碑銘」的なエピローグで終わる。

*後藤象二郎と大杉栄のエピソード(実話)も入れる。社会の支配者は左派さえも操縦する、という話。

*ビスマルクの「国家社会主義」の成功の話をどこかに入れる。(佐藤不二雄に言わせるか)同じく国家社会主義の北一輝も登場させるか。

*佐藤不二雄は柳原白蓮(棚原晶子)の恋人とするか。父親は右翼の大物で、当人は社会主義者。白蓮の悲惨な前半生の話も入れる。

*女性はほかに伊藤野枝(伊野藤枝)と神近市子(神市千賀子)も登場。


*佐藤不二雄と桐井六郎の友情を前半の大きな柱とし、桐井六郎の棚原晶子への失恋と、哲学的自殺、佐藤の妻の登場、銀三郎が狂人の妻があることを告白して前半終わり。(前半の内容として、銀三郎への周囲の期待感、銀三郎の登場、彼の老将軍への奇怪なふるまい、彼への周囲の女性たちの恋着など)(兵頭栄三のアナーキスト活動、社会主義者たちのグループへの接近、支配の試み、銀三郎への接近、政治家との結託の工作、女性関係、神市千賀子に刺される事件など)要するに、三本の柱である。
*後半は佐藤の妻の死産、妻の死、工場の火事、理伊子の死、銀三郎の妻の死で始まる。(死人だらけであるww)田端兄妹の死は、銀三郎に話を持ちかけた男に銀三郎が「勝手にしろ」と言ったことを「殺人の命令」と受け取ったことによる。カネは事後の会談で銀三郎が「うるさそうに」与えるが、その直後に栄三が犯人を殺害し、カネを奪う。「このカネは社会改革に使わせてもらうぜwww」「目的は行動を浄化するんだよ」
*工場の火事が、アナーキストグループの犯行ではないかと疑われる。兵頭栄三が銀三郎の庇護を求める。しかし、アナーキズム問答が始まり、ふたりは決別する。憲兵隊による兵頭周辺への捜索。兵頭の逮捕と釈放。国外逃亡。佐藤不二夫と棚原晶子の接近。駆け落ち。(コマ落とし的に喜劇的に描くのもいい)兵頭教授と北一輝の対面。
*兵頭の帰国。佐藤不二夫の病死。
*関東大震災と兵頭の死。大不況と2.26(的な)事件。大正デモクラシー的空気の終焉。銀三郎が兵頭の墓に向かって独白する(「この国はキチガイと馬鹿に支配されている。もうすぐ終わりだよ」「お前が正しかったのかもしれん」)。この場面で全体の終わり。

(配役)

須田銀三郎:城田優
兵頭栄三:斎藤工
佐藤不二雄:風間俊介:妻を銀三郎に寝取られている。陰鬱な激情家。
桐井六郎:鈴木亮平(岡田将生でも可)いい人だから死ぬ、という点が大事。
棚原晶子:橋本愛
伊野藤枝:長澤まさみ
神市千賀子:満島ひかり
佐藤鱒江:不二雄の妻、銀三郎の子を妊娠している:市川実日子
岩野夫人:貴族:戸田恵子または松坂慶子
岩野理伊子:銀三郎に惚れている。:夏菜または満島ひかり
真淵力也(力弥):理伊子の「家来」的恋人:岡田将生
佐藤菊:不二雄の妹、須田家の養女。銀三郎に惚れている。:北野きい
加賀野将軍:銀三郎に無礼を受ける老将軍。:平泉成または温水洋一
田端退役大尉:古田新太または吉田鋼太郎または香川照之
田端麻里亜:狂人、銀三郎の妻:のん
淵野辺:役人、社会主義仲間:豊川悦司または安田顕
栗谷:社会主義仲間:森山未来
須田夫人:大竹しのぶ
須田清隆(回想):鹿賀丈史または綿引勝彦
清隆の妾(回想):栗山千明または木南晴夏
甘粕大尉:松山ケンイチ

兵頭教授(中江兆民):嶋田久作または平泉成



















トーマス・マンの「魔の山」を読み始めて、最初はわりと面白く思ったのだが、些末的に思える描写があまりに長々と続くので読むのをあきらめた。つまり、作中の描写というのは、読者に「別の人生」を生きさせる効果を持つので非常に重要なのだが、自分の興味の持てない描写が続くと読者の忍耐力が続かないのである。冒頭の旅行の情景描写はまだいいが、主人公の幼時の思い出や心理、主人公の祖父の描写など、私には興味の持ちようが無い。つまり、主人公への共感や一体化ができてない状態であまりにその周辺の些末な描写がなされると、「俺に何の関係がある」となってしまうわけだ。私の想像だが、こういう細密描写というのは(読んだことはないが)プルーストあたりの悪影響ではないだろうか。確かに情景描写やそれに随伴した心理描写というのは近代文学の「ネタ」ではあるが、小説を読む側は、何よりも「面白い出来事」を読みたいのである。つまり、何かの事件が起こらないと読む意欲や興味が空中に消えてしまう。「魔の山」と「悪霊」の巨大な断層はそこにあると思う。普通人の心理など、普通人である読者は最初から分かっているのだから、そんなものは読みたくもないはずだ。もちろん、高い地位にある人間が実は平凡そのものの人間で、平凡人の心理で動くという、「パルムの僧院」の描いた真実は、逆に面白いわけだが、そこでもやはり「事件」があり、事件に伴う激情があるから面白いのである。

物語創造のメカニズム

 

1 オブセッション(強迫観念)

 

創造の土台にあるのが、このオブセッションである。創造におけるオブセッションとは、何かが自分にとって切実に感じられるという気分である。実際、それは創作者にとって重要だと本能的に思われ、したがって、それについて考えることやそれに時間を費やすことは意義があると感じられる。このオブセッションが無い創作活動は、ただのルーティンワーク的作業になる。大多数の二流創作家の仕事が尻すぼみになるのも、このオブセッション無しで物を作ろうとするからである。

どのような人間にもあるオブセッションは、性欲と恐怖である。したがって、性と恐怖は物語的芸術の柱である。

性欲の一つの形態が恋愛である。恋愛とは美化された性欲である。しかし、美化するという行為はけっしてつまらないことではない。逆に、美化されない現実はそのままでは芸術的なものにはならない。

エロスとタナトスの欠如した作品は、一般人の本能を引きつける要素がない。笑いの芸術はその両者を欠いたものが多い。したがって、高度な感覚を持った人間でないと笑いの芸術は理解できない。笑いの芸術では性も死も笑いの対象であり、したがって人間存在そのものが高い次元で客観視されている。そのようなメタ意識が笑いを理解するには必要なのである。粗野な、野獣的人間は笑いを理解できない。

 

2 自らの作った虚構に没頭できる能力

 

創造において一流と二流を分ける部分が、この虚構への没頭、言い換えれば「熱」である。天才的創作者は、自らの作った虚構に没頭する。その没頭している時間は彼らに充実感を与える。だから、彼らはたいていワーカホリック的に長時間の仕事を平気でやる。たとえ報酬がなくても彼らは自分の好きな仕事をやるだろう。実際、天才的創作者の得た報酬は、彼らの費やした時間と努力に対して、驚くほど微々たるものである。しかし、実は仕事自体が彼らにとっては第一の報酬であったのだ。

物を作る能力と、それを売って報酬を得る能力は、まったく別である。

 

3 問題とその解決

 

あらゆる創造は、突き詰めると「問題の発見とその解決」である。そのうち、より重要なのは、「問題の発見」である。これはいわば、虚空の中から物体を取り出すような行為であり、神の天地創造に等しい。

適切な問題を発見すれば、後の創作行為はルーティンワークに近い。 

もちろん、「問題のいいかげんな解決」では一流の創造にはならないが、すぐれた問題は、それ自身の中にすぐれた答えを蔵していると思われる。

 

宮崎駿(だけの創造ではないが)の初期の傑作「未来少年コナン」において、ヒロインのラナにテレパシー能力を与えたのは、通常ならば蛇足とされるだろう。しかし、ドラマの最終段階において、ラナのテレパシー能力が無いと、この物語はあれほど見事に完結しなかっただろう。そこまで見越して、つまり最終ステージから逆算してラナにテレパシー能力を与えたのか、それとも直観的にそういう設定でスタートして、それをうまく利用して最終場面に持っていったのか、そのどちらであるかは不明だが、創作者の物語への没頭はしばしば「問題への奇蹟的な解答」を呼びよせるものだと思われる。

 

物語的芸術における「問題」を言い換えれば、「物語の基本設定」である。どのような人物が、どのような状況にいるか、ということだ。その人物や状況の設定は、ありえないようなものでもよい。たとえば、考えるだけで人を殺す能力がある人間でもいい。ある小学校全体が異次元に飛ばされるという状況でもいい。

読者は、そういう基本設定自体は、それをフィクションの特性として容易に受け入れる。だが、その設定からはありえない事柄が生じると、読者はそれを駄作であると判定する。

「デス・ノート」の基本設定は、「ありえない話」である。だが、その進行はすべて合理的である。最初の設定(あるいは途中で追加された、あるいは途中で明らかにされた設定も含め)を裏切るようなご都合主義は無い。読者は、その物語に参加し、その合理的進行と問題の合理的解決に酔いしれるのである。

 

4 物語芸術における創造のセオリー

 

少年漫画における一番単純なストーリー展開は、「勝負と勝利」の連続である。これを「バクマン」では「王道バトル物」と呼んでいる。この方式だと、「強敵の出現」「それをいかにして倒すかという問題の発生」「特訓や援助によって強敵を倒す」の繰り返しで、いくらでも物語を続けることができる。しかも、大多数の読者にとっては、自分が感情移入している主人公の勝利は自分自身の勝利の快感と同一なのである。したがって、「読む者に快感を与える」という最大のサービスが確実に保障されている。だから「王道」なのである。後はそれにお色気と笑いをまぶせば、それでいい。

だが、年少の読者ならそれでいいが、ある程度の批判精神を持った読者には、そういう「営業セオリーで作った作品」は鼻につくものである。

手塚治虫は、そういう「王道バトル物」はおそらく一度も書いていないだろう。

それは、そこには彼のオブセッションが存在しないため、彼に創作させる熱を与える要素が存在しないからである。

「王道バトル物」に近いが、そこに作者のオブセッションが加わって傑作になったものが「あしたのジョー」である。丹下段平というキャラクター、力石徹というキャラクターには、通常の「王道バトル物」には無い、「赤い血」が流れている。それは主人公のジョーにしても、その他の脇役にしてもそうである。つまり、梶原一騎は物語を愛していたし、「営業セオリー」で物語を作ろうなどとは少しも考えていなかったのだ。物語要素の順列と組み合わせで物語を作るなど、彼は考えていなかった。(彼が物語を常に人生論として描いたのは、「巨人の星」の主人公の名前を「飛雄馬」=ヒューマンとしたことからも分かる)彼はジョーという野性的少年がボクシングを通じて人生と格闘する姿を描きたかったのだ。もちろん、「あしたのジョー」は「強敵の出現」とその「対策」「勝利」の連続という、見かけは「王道バトル物」そのものだ。だが、それは力石の死後の話だ。力石徹が死んだ時点で、この話はほとんど終わっていたのである。それが魅力的キャラクターを生み出すことの功罪である。

小説の話だが、「銀河英雄伝説」でヤン・ウェンリーが死んだ後、もう一人の主人公、おそらく真の主人公であるラインハルトの生にはほとんど意味がなくなる。これは力石が死んだ後のジョーに似ている。主人公を上回る魅力のあるライバルは、もはや物語の実質的主人公なのである。ならば、それが死んだら、物語は終わりだろう。

 

王道バトル物の話はここまでとする。

 

5 なぜ物語を書くのか

 

山岸凉子は短編の名手だが、彼女はなぜ物語を語るのだろうか。

あるいは世界一長い小説である「グイン・サーガ」を書いた栗本薫は、なぜ物語を語るのだろうか。

この両者にあるのは、「物語愛」とでもいうべきものである。短編で無数の名作を書いた山岸凉子も、長編小説を延々と書き続けた栗本薫も、物語が好き、という一点で共通している。そしてそれはあの膨大な物語群を生み出した日本最大の天才、手塚治虫も同じである。

彼らはみな、物語が好きなのである。おそらく、他人の作った物語を読むのも見るのも好きだろうが、自分の中にある物語を形にするのがもっと好きだったのだ。

では「自分の中にある物語」とは何か。

それは、広い意味での「人生の可能性」ではないだろうか。

物理的・社会的に縛られた自分の人生とは別に、すべてが可能な世界が物語の中にはある。その世界を作り、その世界の中の登場人物と生きることで、彼らはもう一つの人生を生きているわけだ。他人の作った物語よりも、自分の作った物語のほうが性に合うのは当然だ。

つまり、ヴァーチャルな生こそが彼らの実人生以上の快感を彼らに与えていたのではないか、と推測できる。

リラダンの言葉を借りれば、「生活などは召使にまかせておけ」ということである。これはランボーも同様のことを言っている。「我々の人生とは(行為などではなく)我々が考えたその中身だ」と。

そしてまた、それは優れた物語を読む時の我々の気持ちでもある。

優れた物語を読む時、我々は「高次元の生を生きている」のである。

もちろん、そこには「現実」は無い。実際の肉体も実際の自然もない。

実際の肉体や実際の自然、つまり現実以上の価値あるものはありえない、と考えるのも一つの考え方だろうし、むしろそのほうが一般的な共感を得るだろう。

だが、我々は優れた芸術に触れることで、「より高次元の生」を知るのである。

これは、優れた詩や絵画に触れることで、人格が変わるということでもある。それだけ芸術とは凄いものなのである。たとえば、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読む前と読んだ後では人生や世界の見方に大なり小なり変化が生じるだろう。これは人格が変わったということだ。べつに宗教的になったり道徳的になったりするということではない。「ドストエフスキーの目と頭」の一部があなたに転移して、物の考え方がそれ以降は少し変わってくるということだ。これが芸術の力である。場合によっては全人格の大変容が起こることもある。それが幸福な変化であるとばかりは限らないが。

 

話を物語に戻す。

物語とは高次元の人生である、と定義しよう。現実には不可能な「人生の実験場」、それが物語だ。つまり、物語を読まない人間の人生はリアルな、その人の等身大の人生で終始する。それも必ずしも悪くはない。しかし、我々は自分の人生以外に、頭の中でヴァーチャルな人生を生きることができる。それが物語だ。

この麻薬に取りつかれると、物語の無い人生、フィクションの無い人生に耐えきれなくなることもある。いわゆる「本に読まれる」状態だ。

それもまた困りものだが、限定され、不自由の極みである現実人生よりも楽しい人生を味わえることは、この世における大いなる恵みの一つである。

 

なぜ物語を書くのか。

それは、書き手にとって、それが楽しいからである。たいていの場合、自分の現実人生以上に。

したがって、物語を考えることが楽しくないなら、その人は物語作者としては大成できないだろう。

 

6 キャラクター

 

物語芸術におけるキャラクターとは何か。

それは、第一に作者の分身である。しかし、作者自身ではない。だから、作中人物を殺したり、悲惨な目に遭わせたりすることも作者はやる。

「赤毛のアン」の中には、アンが自分を悲劇のヒロインに見立てる場面がしばしば出てくる。悲劇は、それが本当に自分の身の上にふりかかったら、これほど悲しく苦しいものはないはずだ。しかし、アンが自分を悲劇のヒロインに見立てることで快感を得ているのは確かだ。これはなぜだろうか。

あるいは、お芝居としての悲劇を見る観客は、そこに何かの快感を得ているはずだ。それは何か。

「あなたは他人がひどい目に遭うのを見て面白いのですか?」と彼らに聞いたら、彼らは「自分はそんな残酷な人間ではない」と、憤然とするだろう。しかし、実際には彼らは悲劇を見て楽しんでいるのである。それが可能なのは、それが他人の身の上だからだ。

他人とは言っても、それが現実の人間の身の上なら、見る側も平静ではいられないだろう。しかし、芝居や小説の人物ならば、我々はそれがフィクションであると知っているから、その悲惨な身の上も平気で見ていられる。いや、平気ではない。我々は自分が感情移入をした人物の身の上を平静に見ることはできない。フィクションの中の好きな人物には幸せになってもらいたいし、嫌いな人物が悲惨な目に遭うと快哉を叫ぶ。

映画の初期の時代に、スクリーン上の悪漢にピストルを撃った観客がいたそうだが、その気持ちは誰にでもある。

これが、フィクションは第二の現実である、ということだが、フィクションの中の人物は、我々の愛憎の対象になるのである。その愛憎の感情が、ドラマを見る快感の土台だ。

アンの話に戻ると、アンは悲劇のヒロインがひどい目に遭うからそれを好んでいるわけではない。悲劇のヒロインとは、たいてい美女であり、気立ても良い。自分がそういう人物であったら、と空想するのがアンは好きなのだ。そして、ヒロインの受ける悲劇的運命は、「それを味わわなくてすむことの幸せ」を彼女に感じさせ、それがフィクションであることは彼女に「安全なスリル」を味わう機会を与える。

ある作家が書いていたが、作者が主人公を美男だとも美女だとも書いてないのに、読者は必ず主人公を美男か美女だと思い込むそうである。

それがフィクションのお約束だから、とも言えるが、実は読者の「そうあってほしい」という願望の反映だろう。自分が感情移入した人物と自分を同一化しているのだから、それが美男美女であってほしいのは当然だ。

 

「タッチ」の主人公は、最初、何の取り柄も無い男として周囲から馬鹿にされている。ところが、ヒロインの南は最初から主人公に肩入れしている。これは非常に巧妙なやり方である。ヒロインがさえない主人公に肩入れしているということは、主人公に潜在的能力や魅力があることを示している。勘のいい読者はすぐにそれを読み取って、主人公と自分を同一化する。そうすれば、主人公への周囲の無理解は、読者にとって「俺の真価を知らない周囲の連中の反応」と同一になるのである。これが読者にとって快感であることは言うまでもない。「今でこそ俺はさえない存在だが、いつか俺の才能や魅力をみんな知ることになるぞ」というわけである。まあ、そんな日はまず永遠に来ないのだが、「タッチ」を読んでいる間はそういう妄想に包まれ、快感を感じているわけだ。そもそも、現実人生では南のような子がすぐ近くにいるはずもない。

 

 

7 物語作成の技術

 

物語とは、突き詰めれば「問題と解決」である。さらに加えれば、「問題と解決と報酬」だ。主人公の身の上に起こる様々な問題を主人公が解決することで主人公は報酬を得る。それを読む者は、主人公に感情移入しているために、問題解決の快感と報酬取得の快感を得るわけである。『高慢と偏見』は、結局のところ、主人公の男女がすったもんだしたあげく、結ばれるというだけの話だ。しかし、作者の腕によって、読者はこの話に引きずられて、どんどん先へ先へと読み進め、その間「物語を読む快感」を得続けるのである。

作り手の側から言えば、「物語作成の技術」とは「問題作成の技術」である。

推理小説などは、その問題を数学的論理性の問題に特化し、キャラクターはその説明の道具となったものだ。もちろん、キャラクターで読ませる推理小説も多いが、本質と基本は「奇抜な謎」にある。

 

 

例題1「バレリーナとしては致命的な身体的欠陥を持った少女はバレーの世界でどう生きるか」解答「創作バレーの開拓者としてバレーの世界で成功する」(「テレプシコーラ」)

 

もちろん、「テレプシコーラ」は複雑な作品であり、影の主人公である少女は本物の天才だが、性格破産者の父親を持ち、極貧の家庭で生きている。彼女を支えるのはただバレーへの情熱だけである。昔のドラマなら、こちらが主人公になっていただろう。だが、彼女は顔も醜いのである。さらに、主人公の姉は、すべてに恵まれた才能を持ちながら、学校ではいじめに遭い、しかもステージでの事故でバレリーナとしては再起不能になる。

こうしたさまざまなトラブルに満ちた三人の少女の半生がドラマにならないわけはない。

つまり、ドラマとはトラブル(難問)から生じるのである。

作者というものは、作中人物を平気でトラブルの中に投げ込む冷酷さが必要だと言える。言い換えれば、人生の暗黒を見つめることができる強靭な神経が必要なのである。

 

(未完)

どうも、「悪霊」のキャラクターと、日本社会主義運動の関連事件とがうまく結びつくような話を思いつかない。つまり、須田銀三郎が話に絡まないのである。当然、桐井六郎も絡まない。鳥居陽介や兵頭佐太郎(覚えにくいから変えるか? 兵頭という姓はむしろピョートルに使うか。しかし、鳥居陽介という名前は気に入っている。鳥居耀蔵を思わせるからである。)も絡まない。女性群はなおさらだ。
現実の事件や人物はすべて入れないことにして、単に「悪霊」の日本版ということでやってみるか。

ピョートルは「兵頭耀丞(ようすけ)」にする。父親は兵頭教授(浪輔)
シャートフは「佐倉藤夫」
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