私は眼下を通ざかっていく、その男を青ざめた顔で見送った。
言うまでもないだろうが、これは一人称描写である。つまり、視点はあくまで「語り手(この小説では「私」)」にある。である以上、鏡やガラスに写った自分の顔でもないかぎり、自分の顔が「青ざめている」とは分からないはずだ。
そんなことは分かり切っている、私(作者)はそう書きたいからそう書くのだ、というのもひとつの創作姿勢ではあるだろうが、読者としてはかなり興ざめすることは否めない。まあ、やはりうっかりミスなのではないか。そして、編集者もその点を見落としたのだろうと思う。
で、「暗黒事件」は1803年の王党派(首魁は外国に亡命中か)によるナポレオン政権打倒の陰謀事件を描いたものだと、今読んでいる段階では思われるのだが、私のような歴史の素人だと、本の半分近くまで読んでも「暗黒事件」とは何かが分からない、ミステリアスな本でもある。だが、人物の容貌や服装や地形家屋家具、自然描写その他の情景描写などの細部も面白い。私は二種類の翻訳を突き合わせながら読んでいるが、一方で省略された部分が他方に記述されていたりして、興味深い。前者は簡潔を重んじたのだろうから、その省略行為を不誠実だと決めつける必要はない。
とりあえず、ナポレオン戦争についてのウィキペディア記述だけ載せておく。当時の戦争の実態がよく分かる、優れた項目である。
(以下引用)
ナポレオン戦争(ナポレオンせんそう、フランス語: Guerres napoléoniennes、英語: Napoleonic Wars、ドイツ語: Napoleonische Kriege)は、フランスの第一執政期および第一帝政期の一連の戦争の総称[1][2]。フランス革命に起因して勃発した一連の戦争のうち、1803年5月のアミアンの和約の破棄をもって前半を「フランス革命戦争」、後半を「ナポレオン戦争」と二つの局面に分けるのが一般的であるが、ナポレオン・ボナパルトが第一執政に就任した1799年11月9日を境にする[3]といった見方もあり諸説ある。また、総裁政府下でナポレオン・ボナパルトが指揮した第一次イタリア遠征(1796年 - 1797年)、エジプト遠征(1798年 - 1801年)を含めることもある[4]。
概要[編集]
ナポレオン戦争はフランス革命戦争後の混乱期に始まった。フランス軍を率いたナポレオンは一時期ヨーロッパの大半を征服したが、スペイン独立戦争とロシア遠征で敗退し、ワーテルローの戦いにおいて決定的敗北を喫した。1815年11月20日の第二次パリ条約の締結をもって戦争は終結し、ナポレオンは失脚した。
1792年に開始されたフランス革命戦争から断続的に戦争状態が続いていたため、一連の戦争を合わせて大フランス戦争(だいフランスせんそう、Great French War)とも呼ぶ。ドイツでは対仏大同盟戦争(たいふつだいどうめいせんそう、Koalitionskriege)、1813年以降のドイツ解放の戦いを解放戦争とも呼ぶ。大同盟戦争以来100年以上にわたって続いた英仏間の対立関係を第二次百年戦争とみる見方もある。
フランス革命戦争とナポレオン戦争との間をどこで区切るかについては、1803年5月のアミアンの和約の破棄を境界とする見方が一般的ではあるが、他にも1796年3月のナポレオンによる第一次イタリア遠征の開始を境界とする見方、1799年11月のブリュメールのクーデターを境界とする見方などがある。本項目では革命戦争の途中である1796年3月以降の戦役について述べる。
ナポレオン戦争ではヨーロッパ大陸に加えて世界各地の植民地も戦場となった。このため七年戦争に続く2度目の「世界大戦」であると言われる場合もある。
参戦国[編集]
全てのヨーロッパの国家が多かれ少なかれナポレオン戦争に関与した。ナポレオン戦争では何度も宣戦布告と講和が繰り返されたため、フランスとイギリスが一貫して対立関係にあったことを除き、参戦国は途中で入れ替わりがある。フランス側の同盟国から対仏大同盟側へ、あるいはその逆へ立場を変えた国もある。
- ほぼ一貫してフランス側で参戦した国家
- 時期によって立場を変えた国家
- ほぼ一貫して対仏大同盟側で参戦した国家
軍事的側面[編集]
動員・編成[編集]
ナポレオン戦争以前のヨーロッパの絶対主義諸国は、傭兵を主体とした軍隊を有していた。フランス革命を経たフランス軍は、革命の成果たる共和国を防衛しようという意識に燃えた一般国民からなる国民軍へと変質していった。フランスは18世紀末の時点でヨーロッパではロシアに次ぐ大きさの人口ブロックであったため、徴兵制度の実施において有利であった。だがナポレオン戦争の過程でドイツをはじめとする各国にも国家主義の運動が高まり、戦争後期には各国軍とも国民軍の性格を強めた。
国民軍となったことで軍隊の規模は拡大した。直前の七年戦争において、20万人を超える軍隊を有した国はわずかであった。一方、フランス革命戦争中の最大時におけるフランス軍の人員数は150万人に達し、ナポレオン戦争期間中のフランスの総動員兵力は300万人と推定される。こうした動員制度を整備したのはラザール・カルノーであった。さらに、産業革命の初期段階にあったことで、兵器の大量生産が巨大な軍隊の装備を可能にした。戦争期間中、イギリスは最大の武器生産国となり、同盟諸国への武器供与を実施した。フランスは第2位の武器生産国であった。
国民軍の兵士たちは強い愛国心を持ち、また団結力を有していた。彼らは逃亡のおそれが低いため、散兵戦術のような兵士の自律的判断に依存する戦術を用いることができた。巨大化した軍隊には師団と呼ばれる1万人程度の独立行動可能な作戦単位の編成が導入され、大部隊の柔軟な運用が可能となった。こうした軍制改革でもフランスは他のヨーロッパ諸国に先行した。アランブロックに拠れば、軍隊内部の各所に政治将校を置き、お目付け役として、逐次ナポレオンに報告する制度を敷いた。旧ソ連時代の政治将校制度は、このナポレオンの制度をレフ・トロツキーがレーニンに進言して、取り入れさせたとされている。
軍事技術[編集]
歩兵の主力兵器はフリントロック式前装銃であった。ライフルも使用されていたが、当時は装填に時間がかかり、弾丸を生産する工業技術も低かったため一般的ではなく、後方支援に多少使用される程度だった。歩兵部隊は精密な狙いを定めずに敵に向けて弾幕射撃を行った。砲兵は、それまでは歩兵の掩護のもとに行動する機動性の低い部隊であったが、フランス軍では機動性を高めた独立した部隊として編成された。ナポレオンは砲弾のサイズを標準化し、砲兵部隊間での融通を容易にした。
兵站は、いまだ鉄道が未発達であったため、各国軍とも現地調達によるしかなかった。フランス軍は人口密度の高い中部ヨーロッパでは円滑な調達により高い機動性を発揮したが、人口希薄なロシアやイベリア半島では機動力が鈍った。遠距離間の通信には腕木通信が導入され、戦争期間を通して使用された。また、熱気球による空中偵察が、1794年6月26日のフルリュスの戦いにおいて初めて実用化された。
ナポレオンの戦術[編集]
ナポレオンは巧みな戦略的機動によって有利な状況を作り出すことを得意とした。「最良の兵隊とは戦う兵隊よりもむしろ歩く兵隊である」というナポレオンの言葉や、「皇帝は我々の足で勝利を稼いだ」という大陸軍の兵士たちの言葉にこの思想が現れている。カスティリオーネの戦いでは分散して進撃する2倍のオーストリア軍に対して機先を制して機動し、各個に撃破した。ウルムの戦いでは敵主力の側面から背後を大回りに移動し、オーストリア軍主力を包囲して降伏に追い込んだ。会戦においては、ナポレオンは自軍の一部をもって敵主力の攻撃をひきつけ、その間に主力をもって敵の弱点を衝く作戦を得意とした。アウステルリッツの戦いやフリートラントの戦いはこの成功例の最たるものと言える。
で、下の記事内容だが、ルートビアが薬品臭いというのはまさにその通りだが、「サロンパスの味」って何だよ。お前はサロンパスを舐めたことがあるのかwww
ちなみに、「ササフラス」という木の根の汁が原料(のひとつ?)であるのは正しいようで、だから「ルート」という名前が入っている。しかし、日本人が想像するビールではない。
ちなみに「ジンジャーエール」の「エール」もビールを意味することがあり、西洋人はアルコールと清涼飲料水の区別をあまりしていなかったようだ。つまり、子供にもアルコール類を飲ませることにためらいが無かったのではないか。まあ、日本にも「甘酒」というのがあるが。
(以下引用)
前に書いたチャールズ・ラムの「エリア随筆」の中で、マイエは初めて、「ササフラス(サッサフラス、とも)」というものの
名を知りました。ラムによればそれはある植物の根っこからとれるもので、飲み物にするもの(正確には香りづけ)で、
幼い煙突掃除人(ラムの時代には子供が働いていたのです)が好むものだから、ぜひおごってやってほしい、という
ようなものなのでした。
外国文学を読んでいると、食べ物以上に飲み物に関しては、それぞれの国に独自の好みがあるんだなあと感心して
しまいます。話が逸れますが、たとえば日本の緑茶は、日本以外では評判がよくないね。中国でも、イギリスでも
「うっ、青臭い」と思われるみたいwww いや、慣れ親しんだ味だからそれでいいんですよ。で、また、独特の味だから
こそそれに魅力を感じる人も出てきたりする。コカコーラだって最初はみんな、「うっ、薬臭い」と言ったのですよw
でもって。その後マイエは、ササフラスという文字を目にする機会が、長いことなかった。それから、幾星霜(?)、ある時、
「ルートビア」というものの存在を知り、この「ルートビア」にササフラスが入ってるんだって、ということになって、マイエは
ルートビアに非っ常に興味を持ったのですよ。
で、まずササフラスからかたづけて(ww)しまうと、ササフラスに含まれるサフロールという成分に問題があるので、
今は使われていないらしいの。ラムの書いた感じだと、それはあったかい飲み物のように思えるけど、ササフラスが
クスノキ科、というところを見ると、バニラ系とかの甘い香りじゃないんだろうなあ、と調べたら、ウィキに「木全体に柑橘
様の芳香がある」とあった。ふむふむ。で、さらにネットでうろついていたら「their love for sassafras tea (the
original root beer),」という記述をみつけました。なるほど。ラムが言ってたのはこの、ササフラス茶なわけね。で、
ちゃんと「ルートビアの起源」となっている^^
はい、で、ルートビアの話にいけるね~。
ルートビアはアメリカを発祥とします。
ルートビアもコーラ同様、初めは「滋養強壮に!」の目的で薬局のおじさんなんかがハーブ類を調合して作ったもので、
炭酸飲料になったのは19世紀後半のことらしい。で、今では確固たるシェアを誇り、アメリカ人の好きな飲み物なんよ
ね。味が好まれてるらしく、ルートビア味のキャンディーもあったりするんだそうだ。
で、日本では、常時置いてるのは沖縄とか小笠原諸島とか、なんよね。一時、マイエの住んでるところにある海外フード
専門店・カルディで置いてたこともあったけど。
米軍基地内の自販機には必ず入ってるそうですけども。で、A&W沖縄(A&Wレストランの現地法人)の店舗ではルー
トビアが飲み放題らしい^^
さあ、そのお味ですが・・・
まず入ってる香料は、メーカーやなんかによって少しずつ違うんだけども、だいたい、
甘系・・・バニラ・リコリス〈甘草)・糖蜜・メープルシロップ・蜂蜜
スパイシィ系・・・ナツメグ・アニス・オールスパイス(という名前のスパイス)・コリアンダー(パクチーですね w)・シナ
モン・ショウガ
苦み系・・・ジュニパー〈木です)・ホップ・タンポポ
刺激系・・・トウリョクジュ(ウィンターグリーンと呼ばれる木。主成分はサリチル酸メチルだそうな・・・・)
カバノキ〈消毒剤のような香りだそうです)
サルサパリラ〈植物)の根〈成分としては知らんけど、味はサリチル酸メチルっぽいらしい)
酸味系・・・スターフルーツ
味の系統は不明・・・桜の樹皮〈甘いのか?サクラモチみたいな香り??)
甘松(松の木じゃありません。一種のハーブで、スパイクナードとも)
オオウメガサソウ(消臭成分があるんですってよw)
クローバー〈四葉の~とかのクローバーです。ハーブティーになるそうです)
といったところだとか。つまり、メーカーの処方によって、うちのはそんなもん入ってないよ、とか、これが入ってる
のはうちのだけだよ、とかいうわけですね。で、無論かつてはこれにササフラスがどーんと入ってたけど、今は入れて
ないわけだ。
でもって!
缶の写真があるのをご覧いただけばわかるとおり、マイエはこれを実際に飲んでみたことがあるのでしたよwwww
はい、ルートビアのお味は・・・ルートビアのお味は・・・ルートビアのお味は・・・
サロンパスにそっくりの味 Y(>_<、)Y
うっくくく・・・・く・・・く・・・
お好きな方、ごめんね~~~~~
大体ね、マイエは得体のしれん外国のものは好きな方なのね。
上のハーブ類で言えば、リコリスOK、コリアンダーOK、ジュニパー〈お酒のジンの香りづけ)大好き、飲み物で言えば、
ドクターペッパーというのがある、あれがそもそも大好き。ネット上でみたとこでは、ルートビアの味を、ドクターペッパー
と同じようなもんと言ってるかたがありましたが、違うよ~~~、というか、ドクターペッパーにサロンパスを混入した味と
言ってくれるなら納得するけど。
で、キャンディーなんかも、外国のハーブっぽいキャンディー何するものぞな人なんですけども、あ~~~ルートビアは
だめっ!!。(´д`lll)
つまり、サロンパスのような味、とはまんま「サリチル酸メチル」の味であるからして、じゃあ犯人は上の表の「トウリョク
ジュ」なのか・・・と思うわけですけども。でも、東南アジアや台湾で、サルサパリラの飲み物があって、これまたサロ
ンパス味がするらしいので、「サルサパリラ」も犯人(?)の一角というか、多分、こっちの方が主犯なのかもしれないです。
で、多分ね、さっきササフラスに柑橘様の香り、と書いてあったけど、きっと、香料としてのササフラスは、やっぱり
サロンパス臭だったんじゃないんでしょうか???
日本人はルートビア味がキライなんだってよ!? という海外スレがあって、そこにドイツ人や北欧の人も、嫌いと書いて
て、「ナンだ、結局好きなのはアメリカ人だけじゃん」となってて笑えましたが、日本人でもルートビア愛好家はいるし、
まあ、個人の嗜好よねw
画像に載ってる、A&Wと、DAD’Sは有名なルートビアのブランドらしい。あ、それと、その後ろの「インカコーラ」
ですが、これはもとは本当にペルー(インカ帝国があったんですね^^)のコーラで、今はアメリカで作ってるらしいけ
ども、とっても冴えた黄色の、味は普通に甘いコーラです。ペルーでは、コカコーラをおさえて売り上げトップなん
ですってさ^^
マイエは多分一生、ルートビアは好きになんないだろうと思います。それにしても、アメリカにはサロンパスみたいな
湿布薬はあんまりないのかな?
この先生きのこるには
で、問題は、クルーソーの所持していた銃が連発式で、にも関わらず火薬と弾が別という印象で、不思議に思えるのだが、その当時はまだ薬莢は発明されていなかったはずで、それは連発式銃は不可能ということを意味しないか。一応は、銃を複数同時携帯していた場合もあったようだが、作品内の記述を見ると、連発銃に思えるのである。
歴史[編集]
出現まで[編集]
前装銃(前装式)の時代には、弾丸と火薬は銃口から別々に装填されていた。日本では木製の筒型容器に一発分の弾丸と火薬を組み合わせたものを携行し、装填の手間を短縮する方式がとられるようになり、これを「早合(はやごう)」と呼んだ。
欧州では、歩兵の装備として1発分の火薬と弾丸をソーセージのように紙で包んだ紙製薬莢を使い、装填時にその一端を噛み破り、中身の弾丸と火薬を装填する方法が19世紀中頃まで行われた。紙製薬莢は「パトローネ」「パトロン」「紙早合」などと呼ばれた。今日、包装用の褐色の紙を「ハトロン紙」と云うのはその名残である。
しかし、前装銃は伏せた状態や射撃姿勢を維持したままでの装填が困難であり、不発が生じた場合の対処に手間がかかることから、火器が普及した17世紀頃から各種の後装式(ブリーチローダー)銃が考案されるようになった。
19世紀初頭までにいくつかの実用的な後装式軍用銃が出現する時代が到来したが、依然として弾丸と火薬は別々の状態であり、後装式の形態も銃身後部を切断して独立した薬室とする形状のものであり、回転式拳銃と同様に銃身と薬室の繋ぎ目から漏れる発射ガスを放置するデザインだった(注:回転式拳銃がアメリカ合衆国で特許を取得したのは1836年であり、これら後装銃の出現より後のことである)。
黎明期[編集]
1836年にプロイセンでドライゼ銃が発明された。同銃は、弾丸・発射薬・雷管を紙製のケースで包んだ薬莢を銃身後端から装填し、ボルトを銃身後端に密着させて閉鎖する仕組みと、後にボルトアクションと呼ばれる撃発機構を有し、完全ではないものの、発射ガスの漏れを防ぐことに成功した、最初の実用レベルの後装銃だった。
同じ年に、フランスのカシミール・ルフォーシュ[11]によって、側面に小さなピンが突出した形状の全金属薬莢であるピンファイア式(薬莢から飛び出したピンの外観から、カニ目打ち式とも呼ばれる)が発明され、これを用いる銃器が欧州から世界中に広く輸出されたため、日本にも多数現存している。
ピンファイア式は最初の実用金属薬莢となったが、発火薬を突くピンが露出しているため暴発の危険が高く、より安全に携行できる後発の薬莢が出現すると急速に衰退した。
1847年には、フランスのフロベールが、現代まで使われ続けているリムファイア[10]式と呼ばれる一体型の金属薬莢を発明した。
翌年には、米国でロケットボールと呼ばれる、弾丸内部に発射薬・雷管を収めた形状の弾薬が発明され、1854年からヴォルカニック式連発銃[12]として、S&W社から販売が開始された。
しかし、ロケットボールの構造には発射薬を増やせない限界があり、同社はリムファイア式の特許を買い取って、1858年からS&W No.1回転式拳銃[13]用の弾薬として発売した結果、爆発的に普及した。
その後、大口径化した.44 Henry[14]や、最初の実用機関銃であるガトリング砲用の.58 Gatlingなどのリムファイア式弾薬が製造されて大きな市場を得たが、無煙火薬の実用化と、より低伸性のある弾道を実現するための小口径化への流れの中で、より高腔圧の弾薬が志向されるようになると、薬莢基部を厚く作れない制約のあるリムファイア式は徐々に衰退し、現在では小口径のものだけが生き残っている。
一方、プロイセンのライバルだったフランスでも、紙製薬莢と後装式銃の開発が進められ、ほぼ完全にガス漏れを防いだシャスポー銃が1866年に採用され、紙製薬莢を使用する後装式銃は一応の完成を見たが、環境の変化に弱い紙製薬莢の欠点は克服されず、センターファイア式の金属薬莢が普及し始めると、置換されてその時代を終えた。
これら現在では消滅してしまったタイプの薬莢のうち、紙製薬莢・ヴォルカニック式・ピンファイア式の構造は、20世紀中盤に入ってから弾薬軽量化のために試作され始めた各種ケースレス弾薬のデザインの参考とされているものが散見される。