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日本の軍歌[編集]

軍歌の分類[編集]

日本の軍歌の歴史[編集]

明治初年-日清戦争[編集]

日本最初の軍歌は東征軍の進軍歌『トンヤレ節』であるとされる[1][2]俗謡調[2][3]の官製軍歌[1]であった。1869年に横浜に薩摩藩軍楽隊がつくられ、軍によって正式に軍歌がつくられるようになった[3]。その最初のものは海軍儀制曲『海ゆかば』で、『続日本紀』から引用した大伴家持の古歌に東儀季芳が曲を付けた雅楽調であるが、海軍軍楽師瀬戸口藤吉がその旋律を『軍艦行進曲』のトリオ部に採用したため[3]信時潔作曲の『海行かば』とよく混同されることがある[7]

東京大学文学部長や文部大臣を歴任した外山正一は1882年、5年前の西南戦争を題材に「抜刀隊」という名の詩を発表、詩詞において、国民の一体感や士気の高揚を目的として制作した旨を述べた[8]。外山はジャンルとしての軍歌の確立に向けて活動し、清国との外交関係が悪化しはじめた1885年、「軍歌」という名の楽曲が制作され、一般国民が容易に歌唱・作詞ができるような平易なメロディーが特徴づけられた。また「抜刀隊」がシャルル・ルルーの作曲を得て初演された[9]

当時は作曲の技能を持ったものが少なかったことから、既存のメロディに歌詞をあてはめた、「替え歌」が多くつくられた[10]

日清戦争[編集]

1894年に日清戦争が勃発すると、新聞社が軍歌を公募するなど、軍歌は一気に国民規模のエンターテインメントへと変貌する。それまで政府批判を主な題材に用いていた演歌師も国権論に舵を切り、この風潮を支えた。ただし、それまでのエリート中心の厳選された楽曲と較べると、歌詞が稚拙であったり、民衆受けのするアジテーションが前面に押し出されたりするなど、平均的な作品の質は低下せざるを得なかった[11]

戦時下での軍歌は、それまでの作品とは異なり、戦況を題材にした具体的な歌詞によるものが多くなる。よって、はやりの軍歌の変遷はニュースの側面を持ち、軍歌の歌詞で戦況を追いかけることができるようになった[12]。また、戦闘で軍功を挙げた兵士を題材にした楽曲もつくられた[13]

日清戦争の2年間で、制作された軍歌は1300曲、軍歌集は140冊にのぼった[14]

日露戦争[編集]

1904年の日露戦争は、日清戦争直後の三国干渉以来の対抗感情(「臥薪嘗胆」)が国民の中に堆積しており、開戦直後から楽曲発表が相次いだ。その多くは大衆娯楽として量産され、完成した作品から小出しに販売されるような形態で売り出された。この結果マンネリ化し、既存の作品の焼き直し感は否めず、軍歌研究家の堀内敬造は、この時期の軍歌を日清戦争期と較べて「軍歌の不振期」と位置付けている[15]

この時期の軍歌は、個別の戦闘を謳ったニュース調のものよりも、特定の軍人を謳ったキャラクター重視の作品が受け、後世にも残った[16]

大正時代[編集]

日露戦争以降、日本が大きな戦争を体験することはなく、オリジナルの軍歌が流行することは少なかった。兵科ごとの曲や、軍学校校歌寮歌の類が目立つ。

一方で、国民に広く膾炙したそのメロディを転用した替え歌がはやり、メロディの本来の出自とは無関係に盛んに借用された。「日本海軍」の替え歌として反戦歌や労働歌、革命歌など、原曲の趣旨とは正反対の歌詞が当てはめられることも増え、更には日本の施政下にあった朝鮮半島における独立派のゲリラ軍が軍歌に流用した例[17]辛亥革命の革命歌が日清戦争の際の軍歌を流用した例もあった[18]

また、第一次世界大戦の主戦場となったヨーロッパにおいては盛んに軍歌が制作され、日本においても当時の欧米の流行歌として娯楽の対象になった[19]

日中戦争期[編集]

満州事変後、世論やメディアは事変を積極的に評価し、レコード会社はこれに便乗して軍歌を量産し始めた。1932年には爆弾三勇士の顕彰歌が乱発し、メディア各社が公募を行うなど、最終的には20曲近くに達した。

一方で、国内クーデターである五・一五事件を賛美する軍歌も発表されたためこれが大問題になり、1934年、出版法を改正、レコード検閲が開始された。ただし、内務省内の検閲当局は小規模であり、すべてのレコードを検閲することは不可能であったため、「内閲」(レコード会社内部での事前チェック)と「懇談」(当局とレコード会社側でのすり合わせ)という運用方針を確立し、阿吽の呼吸で効率的にレコード市場が国策に深く関わるようになる[20]

太平洋戦争期[編集]

太平洋戦争開戦とともにさらに数多くの軍歌・戦時歌謡が作られた。公募は戦争末期まで多く行われ、戦時下にあった外地にあっても相当数の応募が存在した。1942年に戦況が暗転し始めると、「海行かば」が国歌に次ぐ「国民の歌」に指定されるなど、大政翼賛会主導の下、「国民皆唱運動」が行われ、軍歌は名実ともに総力戦体制の一翼を担うようになった。更に、歴代の軍歌のリバイバルやレコード会社の統合再編、敵性音楽の禁止など、「上からの軍歌」の様相が強くなった[21]

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・大正末期の庶民の窮迫を訴える当時の新聞記事が連続して画面に出る。
・同様に労働運動の激化を伝える新聞記事。
・政治の堕落を批判する新聞記事。
・関東大震災を伝える新聞記事。
・(昭和に入り)「515事件」を伝える新聞記事。
・「226事件」を伝える新聞記事。
・シナ事変勃発を伝える新聞記事。
・黒い画面に、一字ずつ、次の短歌が現れる。(カギカッコ無しで文のみ)

「ほのぼのとおのれ光りてながれたる蛍を殺すわが道暗し」

「たたなはる曇りの下を狂人はわらひて行けり吾を離れて」

「ダアリヤは黒し笑ひて去りける狂人は終にかへり見ずけり」

「監房より今しがた来し囚人はわがまへにて少し笑みつも」

「紺色の囚人の群笠かむり草刈るゆゑに光るその鎌」

「たたかひは上海に起こり居たりけり鳳仙花紅く散りゐたりけり」

「ひた走るわが道暗ししんしんとこらへかねたるわが道くらし」




         (斎藤茂吉「赤光」より)
全体の構想はある程度あるし、後少しで話はほとんど終わるのだが、「ワルプルギスの夜」を書いて、どう続けるか、まったく思いつかない。
最初は、兵頭が須田銀三郎に逃走資金を借りにきて、論争になる予定だったが、理伊子が死んだ直後にのんびり政治問答をするのはあまりに不自然だろう。ならば、兵頭と銀三郎は接触しないまま、それぞれに別の道を行くか。そうすると、ラストシーンに用意していた兵頭の墓前での銀三郎のモノローグが使えなくなる。つまり、別のラストシーンを考える必要が出て来る。というわけで、少し頭を休めようかと思うのだが、逆にここで止めると再開する気力が湧かない可能性もあるわけだ。

後で、もう少し工夫してみたい。



・前の場面に続く。
・画面が数秒暗いまま。
・佐藤らの下宿の戸を叩く音。
・赤ん坊に見入っていた佐藤と鱒子がハッと顔を上げる。
佐藤「富士谷の奥さんかな?」
・佐藤、立ち上がって部屋を出る。
・玄関の外の兵頭・富士谷・栗谷、玄関から顔を出した佐藤を見る。
佐藤「何だ、君たちか。富士谷さん、さきほどは奥さんに世話になった」
富士谷「うむ。それで、赤ん坊が生まれて慌ただしい時に済まないが、君が組織から預かった例の品物を我々に引き渡してほしいんだ」
佐藤「あれを? 今さら、なぜ?」
富士谷「君は組織を脱退したから、あれを所有する権利はないからだ」
佐藤「ふん、五人組か。あれの上部組織なんてのがあるのか」
富士谷「じゃあ、引き渡しを拒否すると?」
佐藤「いや、君の奥さんには世話になったし、渡そう。しかし、あれは人気の無いところに隠したんで、少し歩く必要があるが」
富士谷「かまわん」
佐藤「兵頭さんも、この件に関わっているのか」
兵頭「まあ、まったく無関係でもない」

・佐藤が部屋に戻り、鱒子に少し待っているように告げる。不安そうな顔の鱒子。

・闇の中を歩いていく四人。町の外に出て、寂しい郊外の土手の上を歩く四人を、空をバックに映す。

・その四人から遅れて、彼らの後をつける、赤子を抱いた鱒子。

・或る沼の傍の小屋に入って、中から風呂敷に包んだ何かを持ってくる佐藤。

佐藤「これが、例のあれだ」
富士谷「中身を確認させてもらう」
・富士谷が風呂敷包みを開ける間に、佐藤の背後に回った栗谷が兵頭にアイコンタクトを取る。
・兵頭は顎を動かして「やれ」という合図をする。
・鈍器で佐藤の後頭部を殴る栗谷。
・(スローモーション撮影で)ゆっくりと倒れる佐藤。
・地面に倒れた佐藤の鼻に手をかざし、心臓に手を当てる富士谷。頷く。
・三人が佐藤の死体に石を縛り付け、沼に投げ込んだ瞬間、やっと彼らに追いついた鱒子が即座に状況を理解して悲鳴を上げる。
・沼に沈んでいく佐藤の死体の後から、赤子を抱えて飛び込む鱒子。
・驚いてその様子を見守る三人。
・鱒子の姿も沼に沈み、数個の泡だけが暗い水面に昇る。
・顔を見合わせる三人。

(このシーン終わり)
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