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私は「赤毛のアン」が大好きなので、同作品を批判し、悪口コメントで一杯のこのスレッドに呆れているのだが、これだけ悪口コメントが集まるのは実際に、女性の間ですら今の若い人たちは「赤毛のアン」嫌いが多いという可能性もありそうだ。だとしたら、その理由は何なのだろうか。まあ、コメントをしているのは男が多いのではないか、という気もするが、コメント35などは女性と思われる。男が、女性が「女女している」のを嫌うというのはありそうにない。急進的フェミニストの発言の雰囲気だ。「若草物語」も好きではない、というのは保守的倫理観が嫌いなのだろうな、と想像できる。まあ、その性的自由主義が今の社会の荒廃を招いているのだが。

(以下引用)

コメント

      • 1. 本当にあった怖い名無しさん
      •  
      • 2021年10月16日 16:40
      • 第2作ではアンが母校を教える傍ら村の環境整備に奮闘したり若き社会人ぶりが良い感じだったが
        第3作で念願の大学に進学してからは上流階級の学生たちと付き合って苦学生ギルバートを振ったり
        自分の言葉で語らず大学教授の言葉の受け売りばかりするつまらない秀才女になっていたな
      • 2. 本当にあった怖い名無しさん
      •  
      • 2021年10月16日 17:29
      • モンゴメリは作品の中で必要以上の人種差別をしている。
        アンシリーズにも日本人と中国人をバカにする記述や、差別語として用いた部分があるが、日本人はそれを全く気にせず、アンが好きだモンゴメリのファンだとカナダに金を落としにいく。
        カナダは人種差別意識の高い国だけど、日本人がチヤホヤされるのは、誹られても気づかず、モンゴメリを褒めてお金を落としていい気分にしてくれるから。

        これ中学の時、教師の交換留学で来たカナダ人英語教師が言ったこと。
        中学生でアンを読んでなかった女子生徒は「女として終わってる(ちゃんとした思春期を迎えられてない)」とカナダでは言われる、と言う話から何故か上記のことまでペラペラと。
        英語主任が止めたが、本人は「本当のこと言っちゃった、ごめんごめん」って悪びれなかったのも衝撃だった。

        大学こモンゴメリ研究の教授からも、カナダ人の日本文学教授からも、同じことを聞いた。モンゴメリは日本人がお金を落とす理由の一つだから、表向きは持ち上げるが、時代だから、と看過できないほどの差別主義で恥ずかしいと思ってるカナダ人も多いと。
        中国人の教授はカナダに留学中、何度もモンゴメリの小説に出てくる東洋人侮蔑の言葉を投げかけられ、うんざりして「カナダの人って本当にそう言うんだ」と興奮気味に返したら言われなくなったそう。
      • 3. 本当にあった怖い名無しさん
      •  
      • 2021年10月16日 18:48
      • 女性が能力で成功するということ自体が素直に称賛されない時代だったのも大きいな
        逆に与謝野晶子は本人の性格もあってか成功してた
        正直なところ鉄幹は晶子の才能を超える作品を終生作り出せなかったと思ってるが、それでもずっと晶子は鉄幹を尊敬して公私ともに支えて子だくさんで幸せに生涯を全うした
        鉄幹は愛人にも慕われてたし、たぶん度量の広いいい男だったんだろう
      • 4. 本当にあった怖い名無しさん
      •  
      • 2021年10月16日 18:55
      • 無理に結婚なんてするもんじゃないね
      • 5. 本当にあった怖い名無しさん
      •  
      • 2021年10月16日 19:20
      • 2が書いてるから書かないけど赤毛のアンは信者がウザくて嫌いだったからザマァとかヤッパリとしか思わん
      • 6. 本当にあった怖い名無しさん
      •  
      • 2021年10月16日 19:26
      • ハリーポッターとか最初からそうなんだが
      • 7. 本当にあった怖い名無しさん
      •  
      • 2021年10月16日 21:15
      • 文学ファンの皆さま、横道それてすみません。
        >> 2
        「赤毛のアン」シリーズでは、日本のハンカチ?とか、○○は日本に行った、の記述がありますがが、差別的な感じはありませんでした。雇ったフランス人農夫とか、行商に来たユダヤ人、あたりは異質な者として嫌っている感がありました。1世紀以上前の小説ですから今の常識とは異なります。

        教師や教授が言ってたから正しい、と思うマヌケ(失礼)、或いは権威をかざせば信じるだろう、と企むゲス(失礼)、そのどちらでもないなら具体的にディスリの箇所を示していただきませんか。
        「日本人」をバカにする記述限定でお願いします。話ひろげちゃぁ、ダメですよ。
      • 8. 本当にあった怖い名無しさん
      •  
      • 2021年10月16日 21:44
      • ※6
        ハリポタ作者は映画主演のダニエル・ラドクリフに夢中になって
        「養子にしたい」とマジで言い出してラドクリフ少年をビビらせたが
        ラドクリフが年々濃い顔になって腕なんかも毛むくじゃらになったら
        いつの間にか養子の話をしなくなったらしいw
        我が子が3人もいてそのうち一人は男の子なのに気持ちを考えなかったのか。
        離婚したのもそういう恥知らずで無神経な性格が関係あったのかもしれんな。
      • 9. 本当にあった怖い名無しさん
      •  
      • 2021年10月16日 22:53
      • ※6
        ハリポタ作者ローリングは有名になり大金稼ぐようになったら元夫が「離婚の成立はしていなかった」とか言って訴訟に持ち込もうとした。元夫は既に別の妻がいるにもかかわらず。
        元夫との間に生まれた娘にも接触しようとしてきた。ここでローリングが万一死んだら、未成年の娘の親権とともに莫大な印税が転がり込む、元夫に。そこでローリングは医者と再婚、その夫との間にも子供作ったんだよ。財産を利用して福祉もやってる。自分は離婚後、生活保護受けてたことも正直に話してるからそれほどひどい人ではない。
      • 10. 本当にあった怖い名無しさん
      •  
      • 2021年10月17日 00:11
      • 松本侑子訳の「アンの夢の家」の後書き(487ページ)に興味深い話が出ている。

        「夫と心の通い合わない結婚に打ちひしがれるレスリー・ムーアのイニシャルが、
        『夫を愛したことはこれまで一度もない…彼のことは好きではあるが』と
        日記(1917年1月5日)に書いているモンゴメリと同じL・Mである点は暗示的です。」
      • 11. 本当にあった怖い名無しさん
      •  
      • 2021年10月17日 00:24
      • >>7
        2じゃないけど、それ原書で読んだの?
        翻訳なら、都合の悪い箇所はカットしてることもあるぞ。
      • 12. 本当にあった怖い名無しさん
      •  
      • 2021年10月17日 03:05
      • >>11
        アドルフ・ヒトラーの我が闘争にも、東洋人や日本人に関する蔑みの言葉が可也、有るけれども、支障を色々来す部分が有るので削除した部分が有るのは有名。 確か、海軍はナチに関しては快く思ってはおらず、我が闘争を読んで…狂人だと誇大妄想狂だとか、見抜いて居た人がかなりの数居た。とくに東洋人への侮蔑の部分には激怒し、同盟には大反対した人も多かった。
      • 13. 
      • 2021年10月17日 04:04
      • このコメントは削除されました。
      • 14. 本当にあった怖い名無しさん
      •  
      • 2021年10月17日 08:12
      • こんな人生モーゴメンリー
      • 15. 本当にあった怖い名無しさん
      •  
      • 2021年10月17日 12:39
      • 差別的な~というけどその部分の抜粋をだれも持ってこれない不思議

        アン自体読んだことないから自分も知りませんw
        日本人が赤毛のアンにの舞台に金落とす~ってのはほとんどアニメの影響だろうしなあ
      • 16. 本当にあった怖い名無しさん
      •  
      • 2021年10月17日 12:44
      • 金子みすずは梅毒じゃなかったっけ
        当時は死病で全身に梅斑ができたあげくに鼻がとけてなくなり最後は脳梅毒といって脳にまわってのたれじぬという救いようのない病気だった
      • 17. 本当にあった怖い名無しさん
      •  
      • 2021年10月17日 12:47
      • 金子みすずは梅毒じゃなかったっけ
        当時は死病で全身に梅斑ができたあげくに鼻がとけてなくなり最後は脳梅毒といって脳にまわってのたれじぬという特効薬すらない救いようのない病気だったので、それを悲観して自殺したはず
        ちなみに今はよく効く特効薬があるので死病ではない
      • 18. 本当にあった怖い名無しさん
      •  
      • 2021年10月17日 13:19
      • >>11
        助言ありがとう。原書はほぼ読んだことはありません。関係ないけど村岡花子訳が好きです。

        2さんの言う「教師・教授」が「モンゴメリは日本ディスてんでぇ!」的な事と言ってるなら、
        まず自ら調べ「ほんまや!」となるはずです。それ吹っ飛ばして「金になるから黙っている。日本人は馬鹿nid..(失礼、噛みまみた)」に結論づけるには「無理があるんじゃね?」とオモてます。

        民族的差別が普遍的だった時代の小説です。日本サゲを知ったとしても「けしからん」と憤るつもりはなく、モンゴメリの本質を垣間見れるので興味深々です。

        2さんには「話を広げないで」とお願いしてありますので「日本人」サゲ箇所を、得意な英語表記で示してくれることでしょう。deepLが唸っているぜ。
      • 19. 本当にあった怖い名無しさん
      •  
      • 2021年10月17日 21:10
      • >>2は中国人じゃね?カナダで生まれ育ったのち日本に移住した中国人。
        「赤毛のアン」には白人ばかりで中国人は出てこないが、
        カナダはちょうど赤毛のアンの時代設定である1880年代から中国人の移住が始まった。

        (時事用語辞典より)カナダの中国系移民 [Chinese immigrants in Canada]
        中国からカナダへの移民は歴史的に見ると二つの要因により動いてきた。最初の要因は19世紀中ごろに始まったゴールドラッシュであり、西海岸のビクトリアやバンクーバーにおいて小さな中国人コミュニティーが形成されることになった。第2の要因は大陸横断鉄道の建設に必要となる労働力の一部として、カナダ政府が中国人労働者を受け入れたことであり、時期としては1880年代から始まる。地元の白人社会は中国人労働者の受け入れには反対したが、連邦政府は安い労働力を確保できるとしてこれを推進した。しかし、大陸横断鉄道が完成した85年以降、連邦政府は中国からの移民について、一人当たり50ドルという「人頭税」を課すなど、厳しい条件を課すようになった。これらの制約を課した中国人移民法は1947年に廃止された。
        (https://imidas.jp/genre/detail/D-116-0097.html)

        >>2がモンゴメリとその作品に反感を持っている本当の理由は、
        中国人移民がカナダ社会から完全に拒絶されていたからではないか?
      • 20. 本当にあった怖い名無しさん
      •  
      • 2021年10月17日 23:07
      • >> 19
        なるほどね。"ボス"のほうでしたか。句読点しっかり打って読みやすい文章ですもんね。
        ほらほら2さん、出ておいでー。中国人ディスリ箇所でいいから示して欲しいな♡
      • 21. 本当にあった怖い名無しさん
      •  
      • 2021年10月19日 13:34
      • そんな事言ったらラヴクラフトも話の中に有色人種に嫌悪感もっているような描写があったし、時代的にも仕方ない気がするなあ。
      • 22. 本当にあった怖い名無しさん
      •  
      • 2021年10月20日 01:29
      • 別にアジア人だけを差別していたとは思わないな
        アンとダイアナが幼馴染の女の子、もちろん白人しかも金髪碧眼で顔も村一番の美人のことを
        「ギリス家の血筋が出てきたのよ、血筋だからどうしようもないわ」とこきおろす場面がある
      • 23. 本当にあった怖い名無しさん
      •  
      • 2021年10月20日 21:00
      • アンシリーズが書かれた当時はともかく、
        現在まだアンシリーズに夢中なのは日本だけらしいな。
        アニメ化した宮崎駿と高畑勲も原作を読んだ感想は「この小説のどこがいいの??」
        宮崎駿は会話ばかりで動きの少ない内容に嫌気がさして離脱し高畑勲だけ残った。
        その高畑もどう料理していいかわからず、とにかく全編原作に忠実に描き起こし、
        そのおかげで「原作を無視している」「改悪が多い」と言われた世界名作劇場シリーズの中で
        「唯一原作に忠実で素晴らしい!」と高く評価されるという皮肉な結果にw
      • 24. 本当にあった怖い名無しさん
      •  
      • 2021年10月21日 14:36
      • ※23
        外国でも「アン」人気はアニメ人気らしいよ。
        原作読んだことない英語国民も多い。
        「アヴォンリーへの道」というモンゴメリの他の作品を元にしたスピンオフドラマがカナダで製作されて大ヒットした。こちらはアンやマリラはその他大勢的扱いだが、マシュウ死後のマリラの様子やギルバートもちらりと出てくる。1990年代の作品だから人種や社会に対する理解も進んだ解釈。
        その後のポリコレ要素推進はあまりなくて受け入れやすい。NHKでも放映された。
      • 25. 本当にあった怖い名無しさん
      •  
      • 2021年10月24日 07:16
      • >>18
        その文章やばいね、いつの時代の人?
      • 26. 本当にあった怖い名無しさん
      •  
      • 2021年10月24日 07:22
      • >>23
        やっぱそうだよな
        私も小学校であれ読んで嫌な女だな…って印象しか受けなかった
        面白いとも思わず、結局読了せずに返した記憶がある

        周囲もそんなに流行ってなかったので、最近は読む人も減ってるんでは?
      • 27. 本当にあった怖い名無しさん
      •  
      • 2021年10月24日 07:23
      • >>7
        ここって文学ファンが集まるとこだったっけ…?
        どこから来たの?文章浮きすぎてやばいよ
      • 28. 本当にあった怖い名無しさん
      •  
      • 2021年11月02日 13:41
      • カナダへの集団移民の日本人がほぼ消滅したって話前にみたよ
        これや今回の話から察するにエグい状態だった「かもしれない」から皆はややこしい事にならん様に気をつけてな
      • 29. 本当にあった怖い名無しさん
      •  
      • 2022年01月07日 22:02
      • >>21
        時代背景的には一般的だけどラブクラフトがガチのレイシストだったのは有名な話ですよ。
        そもそも深き者とかグールは有色人種のメタファーって言われてるし
        インスマス面は西洋人から見たアジア人の特徴そのものだし
      • 30. 本当にあった怖い名無しさん
      •  
      • 2022年02月18日 00:17
      • カナダは国の方針で日系人にめちゃくちゃ厳しかった歴史があるからな
      • 31. 本当にあった怖い名無しさん
      •  
      • 2022年02月28日 11:46
      • ラブクラフトとP・K・ディックは、レイシストというよりは、東洋人恐怖症に近いと聞いたことがある。
      • 32. 本当にあった怖い名無しさん
      •  
      • 2022年03月07日 22:36
      • アンの話は主人公の頭がイカレている感じがして1冊目も完読できなかった。
        あの話にはまる人の頭も理解ができないと思った。
      • 33. 本当にあった怖い名無しさん
      •  
      • 2022年03月14日 12:40
      • 一回図書館で借りたけど主人公のキャラがキモくて読むのやめたから内容もおぼろげな昔のアニメと三部作の映画しか知らない
      • 34. 本当にあった怖い名無しさん
      •  
      • 2022年03月26日 01:19
      • アンの根強い人気なんて今の50代以上の話でしょ
        ワイは世界名作劇場のアニメですら面白いと思えんわ。
        不思議な島のフローネの方が好き
    • 35. 本当にあった怖い名無しさん
    •  
    • 2022年05月15日 23:32
    • 私もアンは女女してて苦手だわ
      若草物語の方が読みやすかった(こっちも好きではない)

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「シロクマの屑籠」から転載。末尾を省略。

ところが経験値が増して世界が大きくなると、その外側にある未知の領域のこともなんとなく予測できるようになり、いわば疑似既知化できる。予測可能領域がひろがり、本当は未知なのに、なんだか既知の内側にとりこんでしまっているような感覚になり、それなら対応可能だろう、と思えてくるのだ

という部分は「中年の危機」のメカニズムとしてかなり妥当性がありそうだ。

(以下引用)

残り時間を気にしながらいつも走っている

 
president.jp
 
4月に入ってからいろいろ忙しいため、しばらく読むのを後回しにしていたけれども、読んで得心するものがあった。そうか、私はこれを読むのを怖がっていたわけだ。
 
リンク先の文章は『裸の大地 第一部 狩りと漂白』という書籍からの抜き出しであるという。そこに書かれている、冒険家の筆者が43歳という年齢を迎えて思うこと・実行することは私には身近なことと感じられ、他人事で済まされるものではなかった。
 
四十代になって見えてくるいくつかの問題。
 
ひとつめ、厄年の問題。
 
古来、日本では42歳は厄年と言われ、忌み嫌われてきた。実際には、女性の厄年としての33歳、子どもの厄年としての13歳もあり、それら厄年みっつの合計数である88が、四国遍路の霊場の数だったりする。
 

「四十二歳は日本人にとって不吉な年なんだろ。ナオミだって死んだ。カナダで氷に落ちて死んだのもいただろ。日本人はみんな四十二歳で死ぬんだ。たぶんあんたも北方の旅から村にもどる途中、イータの地に立ち寄り、そこで命を落とすことになる。あんたの遺体はオレが六月に鴨の卵を取りにボートでイータにむかったときに発見することになるだろう。本当だよ」
(上掲リンク先より)

この、イヌイットのシャーマンの言葉をひいたうえで、筆者は日本の探検家たちが43歳前後で相次いで命を落とした事実を振り返る。確かに、それぐらいの年齢で亡くなった探検家は多い。でもってリンク先の文中にも書かれているように、これは、職業によっていくらかのズレを含むものでもあるのだろう。たとえば瞬発力を必要とするスポーツなら危機の年齢は早まり、たとえば結晶性知能で勝負の職業なら危機の年齢は遅くなるだろう。eスポーツ選手などは、もっともっと早くに危機の年齢が訪れるのかもしれない。
 
危機の年齢と言って語弊があるなら、人生の曲がり角、とでも言えばいいか。とにかく、発展と発達の一途にあった人でさえ上り坂から下り坂に変わりやすい時期を、いにしえの人々は厄年と名付け、注意を払った。思春期の盛りを過ぎた後、人間の肉体は少しずつ衰え、いっぽうで経験は少しずつ蓄積していく。その能力の総和として、これから下り坂に入っていく直感が得られる時期が厄年のあたりなのだろう。
 
ふたつめは「今ならできる」という問題。
厄年のあたりで自分が下り坂に入っていくという直感が得られたとて、本当に衰えてしまう時期はまだ遠い。これも職業によるが、基本的にあと何年かは全盛期に近いアウトプットが期待できるし、衰えを補えるぐらいの経験蓄積も期待できる。全盛期そのもの、ではないかもしれないが全盛期に近いアウトプットを、残り何年かは叩き出せるという目算が立つ。
 
これも私自身にはわかる感覚で、今の私は30代の頃にできなかった幾つかのことが楽々とできるし、30代の頃には読めなかったものが読め、書けなかったことが書けるようになっている。ああ、もし今の私ぐらいの能力が20代や30代の私自身に宿っていたらどんなことができたんだろう、という思いと、いやいや、40代になってようやく今の私ぐらいの能力なのだから、この先は知れているという思いが相半ばする感じだ。と同時に、おそらく人生のなかで現在ほど高い打点でヒットやホームランを狙える時期は無いはずだ、という直感もある(これが、後述する残り時間に対する焦りをも生む)。
 
だから、物書きとしての私は今、全力で、できれば、全裸で走りたいと願っている。おそらく人生のなかで一番高い打点でヒットやホームランが狙えるのは、今を置いて他にないからだ。私よりもずっとずっと偉大な物書きの先人たちを見ていても、代表的な作品が50代を過ぎてから出ている人はいないわけではないが少数だ。だから統計的に推定しても、自分自身の直感に問いただしても、まさに「今ならできる」だとしか思えない。
 
しかし、リンク先にはその「今ならできる」について以下のように記されている。
 

実際にできるかどうかより、たぶんできるはずだと思えるようになるところがポイントだ。

若くて経験値がひくく想像力が貧困であれば、実際の経験の外側にある未知の世界は、純粋に未知で、予測がつかないぶん恐ろしく、そこに手を出すことなど考えられない。あるのは体力だけ、だから思いつく計画のレベルもたかが知れている。

ところが経験値が増して世界が大きくなると、その外側にある未知の領域のこともなんとなく予測できるようになり、いわば疑似既知化できる。予測可能領域がひろがり、本当は未知なのに、なんだか既知の内側にとりこんでしまっているような感覚になり、それなら対応可能だろう、と思えてくるのだ。だからカヤックの経験が皆無でも、北極で長期の旅を何度もこなしていれば、つぎは北極をカヤックで旅するか、という発想がおのずとうまれる。経験と予測の相関関係はこのような仕組みになっている。

この文章を読むと、中年期の「今ならできる」の感覚のなかには、経験の蓄積や世界の拡大に伴って可能になった、ある種の先読みによる疑似既知化が含まれていると記されている。つまり「本当はやっていないことでも」「これまでの経験と照らし合わせて、おそらくこれぐらいでできる」という読みをきかせてしまっている部分。
 
たぶん、ここが中年が人生を滑落を滑落させるポイントのひとつなのだろう。中年の「今ならできる」という手ごたえの内側には、先読みによってだいたいできると推測しているもの、逆に言えば、本当は踏破していないものが含まれている。「今ならできる」と思ってトライするものに対する予備調査能力も若い頃よりは高まっているに違いない。けれどもそれはどこまでも推測の域であり、予備調査でしかない。それらに基づいて大股なトライをした時、何%の確率かはわからないが、足を滑らせたり、脱出不能の穴に落ちたりする可能性は否定できない。だのに、「今ならできる」と思い込んでいると、推測や予備調査にうつらない穴の存在を忘れてしまう。
 
なにより、みっつめは残り時間の問題。
どんなに「今ならできる」と思っていても、中年には残り時間がない。

このように四十になると、人の世界は経験によって拡大膨張し、その大きくなった世界をよりどころに様々な局面を想像できるようになり、冒険家にはなんでもできるという自信がうまれる。つまり経験値のカーブは上昇線をえがく。その一方で、肉体は衰えはじめ、体力や勢いや気力などが低下し、個体としての生命力は下降線をしめす。

リンク先の筆者は、経験が増えても体力が、気力が、生命力が落ちていく、その交叉点として40歳か41歳を挙げている。繰り返すが、これは冒険家の場合で、スポーツ選手なら、医者なら、それぞれまた異なった年齢が交叉点になるだろう。いずれにせよ、その交叉点を越えてからは経験の蓄積を生命力の衰えが凌駕していくようになり、総合的なスペックは下降線を辿るようになる。
 
「今ならできる」という感覚と、総合的なスペックの翳りが重なる時、人は焦りを感じる。「今ならできる」が「今やらなかったら、もうできない」になっていく。ゆえに筆者はこう書いている。
  

南極大陸犬橇横断を最終目標としていた植村直己が、やらなくてもいいように思える冬のデナリにあえてむかったのは、なんでもいいから身体を動かしておかないと、南極が、すなわち彼固有の、彼にしか思いつけない最高の行為が遠のくという焦りがあったからだ。北極点から愛媛の自宅に帰るという旅に出発した河野兵市にも、おなじような焦燥があっただろう。
 
すくなくとも、二〇一八年三月に私をシオラパルクにむかわせた原動力として、この年齢の焦りは確実に作用していた。私がやりたかったのは、北極で狩りをしながら長期に漂泊することだ。それは今年やらなければ、もう永久にできないことだと思われた。

植村直己の挑戦とご自身の挑戦とを、筆者はここでダブらせている。「今年やらなければ、もう永久にできない」。私もまた、それにシンパシーを感じた。私も物書きとして、今年とは言わないにしても2020年代にやらなければ、もう永久にできないという気持ちを抱えている。「今なら書ける」が「今書かなかったら、もう書けない」になるきわの淵に、私は立っている。

アガサ・クリスティーの「象は忘れない」を読み終えたのだが、彼女の作品の明るさ、気持ちよさは何が原因なのだろうか。
その反対が松本清張で、彼の作品の暗さ、読んだ後の不快感は何が原因なのだろうか。
どちらも同じようにほとんどが殺人を扱っているのに、印象が正反対だ。私は文学者としての松本清張を非常に高く評価していて、「日本のバルザックだ」と思っているのだが、彼の作品にはユーモアのかけらも無い。むしろユーモアがまったく似合わないと言うべきか。あの暗さ、陰鬱さこそが清張の味であり個性なのだろう。
運命や社会への怒りが彼の創作の原動力なのではないかと思うし、そのあたりはプロレタリア作家に似ている。プロレタリア作家もほとんどユーモアの要素が無いはずだ。
ただし、ユーモアは無いが、清張にも抒情性がある。抒情性とユーモアは文学の二大要素だろう。で、その両者とも無い粗製乱造大衆小説は無数にある。
鴎外にも漱石にも抒情性もユーモアもある。ただし、森鴎外のユーモアは稀だが、作者の精神が晴朗なので読んでいて不快感がゼロである。
一見ユーモアに見えるもので、「冷笑」や「嘲笑」というものがあって、芥川龍之介やチェーホフの「笑い」はそれである。精神が暗いのだ。晴朗な笑いではない。
「象は忘れない」の中に出て来る女流推理小説作家は明らかに作者自身の戯画だろう。そのように、自分自身も含めた人間の弱点やこっけいさをメタ視点から眺めて、作者自身が気持ちよく笑うのがユーモアだと思う。笑っていても笑っている当人が心の中で苦虫を嚙み潰しているのが冷笑や嘲笑だ。その最大の作家がスイフトだろう。怒りを含んだ笑いなのである。
「アーサー王物語」を新しい視点から書いてみようかと思っているが、一番面白いのはグィネヴィアだろう。しかし、一番好きになれないのもこの女だ。まさに妖婦である。モーガン・ル・フェイなどの数倍妖婦だろう。それが「白い妖精」という名前を裏に持っているのが面白い。

(以下引用)

名前[編集]

Guinevereウェールズ語形であるグエンフイヴァルGwenhwyfarケルト祖語で「白い妖精」を意味する "Uindā Seibrā"と訳すことが可能であるため、「グィネヴィア」という名前は形容語句であるかもしれない。一方、ウェールズ文学にGwenhwyfarの妹の1人として登場するグエンフイヴァハGwenhwy-fach(小さきGwenhwy) (en:Gwenhwyfach) とキャラクター的に対比をなすグエンフイマウルGwenhwy-mawr(大いなるGwenhwy)から派生したという説もあるが、レイチェル・ブロムウィッチ (en:Rachel Bromwich) は、『ウェールズのトライアド』に関する学術書の中で、その語源の説明に否定的な見解を取っている。また、ジェフリー・オヴ・モンマスラテン語のグアンフマラGuanhumaraに由来すると言っている。

人物像[編集]

ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ『アーサー王の墓 - ランストロットとグィネヴィア最後の密会』

脚色も混じっているが、グィネヴィアはレオデグランス王 (en:Leodegrance) の娘で、アーサー王がまだ後ろ盾が必要だった若い頃に婚約した。後にランスロットと出会った時、グィネヴィアは彼に一目惚れしてしまった。2人はすぐに不倫関係になったが、夫のアーサーは長い間そのことに気付かなかった。気付いたのは祝宴の席に、ランスロットとグィネヴィアがともにいなかった時で、この不倫を明るみに出したのは、ロット王の2人の息子、アグラヴェインモルドレッドだった。ランスロットは逃亡し、アーサー王は気持ちとは裏腹に、グィネヴィアを火あぶりの刑に処すと宣言しなければならなかった。処刑のことを知ったランスロットと家族は何とかそれを止めさせようとした。アーサー王は多くの騎士たちを処刑台の守備にあたらせることにしたが、ガウェインはその任務を辞退した。ランスロットは処刑台に辿り着き、グィネヴィアを救出したが、その時の戦いで、ガウェインの兄弟ガヘリスガレスが死んでしまった。復讐に燃えるガウェインは、アーサー王にランスロットと戦うよう訴えた。アーサー王はランスロットとの決戦のため、フランスに行くことになり、(ランスロットから再びアーサー王の元に返された)グィネヴィアをモルドレッドに預けることにしたが、モルドレッドはグィネヴィアと結婚し、王座を簒奪しようと企んでいた。モルドレッドの求婚をグィネヴィアが承諾した話にはさまざまなヴァージョンがある。中には承諾せず、ロンドン塔に身を隠し、それから修道院に入ったという話もある。モルドレッドの裏切りを知ったアーサー王は急いでブリテンに引き返し、カムランの戦いでモルドレッドを倒した。しかし、その戦いでアーサー王も致命傷を負い、伝説の島アヴァロンに運ばれた。グィネヴィアは最後にもう一度ランスロットと会って、それから修道院に戻り、残りの人生をそこで送った。

ほとんどの物語でグィネヴィアには子供がいないが、例外として『ペルスヴァル』 (en:Perlesvaus) と『Alliterative Morte Arthure(頭韻詩アーサー王の死)』 (en:Alliterative Morte Arthure) の2つがある。『ペルスヴァル』には、彼女の子供としてロホルト(Loholt)という人物が登場する(ただし、マロリーリオノレスの産んだ子ボーレ(Borre)と同一人物だと考えられるとしており、そうなるとロホルトはグィネヴィアの子とは言えなくなってしまう)。ロホルトは他の物語でも、アーサー王の私生児として登場している。一方、『アーサー王の死の頭韻詩』では、グィネヴィアは自ら望んでモルドレッドの配偶者となり、彼との間に2人の子供をもうけたことが、それとなくほのめかされている。『ウェールズのトライアド』にも、アーサー王の子供たちについての言及があるが、母親が誰かは明らかにされていない。

他の家族関係もまたはっきりしない。たとえば、ランスロ=聖杯文学群やドイツ語のロマンス『Diu Crône(王冠)』 (en:Diu Crône) では、グィネヴィアの異父(異母)姉妹と兄弟の2人がかたき役を演じているが、この2人は他の物語にはいっさい登場しない。ウェールズの伝承(例えば『Mabinogion(マビノギオン)』)では、グウェンフイヴァハ(Gwenhyvach)という妹がいたと伝えられ、グィネヴィアたちと反目していたと物語られている。成立が遅い作品の殆どでは、グィネヴィアの父親はレオデグランスとされ、母親については触れないのが常であるが、母親は死んだと書かれたものが、いくつか見られる。その例として、中英語で書かれたロマンス『アーサーのターン・ワザリング冒険』では、イングルウッドの森 (en:Inglewood Forest) で、グィネヴィアの母親の幽霊が娘とガウェインの前に現れる。またある作品では、高名な従兄弟の名前がたった1カ所だけ出てくる。

グィネヴィアは、あらゆる面で弱く、日和見主義的な裏切り者である致命的な欠点を持つが、気高く高潔な貴婦人として描かれてきた。しかし、クレティアン・ド・トロワの『獅子の騎士イヴァン』 (en:Yvain, the Knight of the Lion) の中では、聡明で友情厚く育ちも良い女性として賛美されている。一方、マリー・ド・フランスの『ランヴァル』 (en:Lanval) (ならびにThomas Chestre (en:Thomas Chestre) によるその中英語版『Sir Launfal(ローンファル卿)』 (en:Sir Launfal) )で描かれるグィネヴィアは、執念深くふしだらな女で、アーサーや育ちの良い騎士たちから嫌われている。早い時期の作品ほど、グィネヴィアを不吉な女性として描く傾向が強く、後の作者たちはキャラクターをより掘り下げるため、グィネヴィアの善も悪も描いている。

グィネヴィアの誘拐[編集]

モデナ大聖堂のレリーフ

グィネヴィアについて言及した最初のものは(おそらく11世紀頃作られた)『クルフッフとオルウェン』 (en:Culhwch and Olwen) というウェールズの話で、グィネヴィアはアーサー王の妻として登場はするものの、それ以上のことは何も触れられていない。1136年以前に書かれたカラドック・オヴ・ランカルヴァンの『ギルダス伝』では、グィネヴィアがいかにして「夏の国 Aestiva Regio」(おそらくサマセットのことと思われる)の王メルワス (en:Maleagant) に誘拐されたか、さらに、グラストンベリー (英語Glastonbury) でどのような囚われの生活を送ったかを描いている。この後、物語は、1年かけてアーサー王はグィネヴィアを捜し出したこと、メルワスの要塞を攻撃したこと、聖ギルダスの調停で平和的解決を迎え、夫婦が再会できたことを語っている。これが「グィネヴィアの誘拐」を描いた最初のものであり、以降、この主題は初期のアーサー王伝説で最も一般的なエピソードとなった。イタリアモデナ大聖堂のアーキボールト(飾り迫縁)のレリーフはこの話に関係したもののようで、その制作時期はカラドックより前の時代と思われる。そこには、Artus de Bretania(ブリタニアのアルテュス)とIsdernusが、MardocがWinlogeeを閉じこめた塔に近づく絵と、Carrado(おそらくカラドス)がGalvagin(ガウェイン)と戦っている絵、GalvaginやChe(ケイ)たち騎士が近づいている絵がある。Isdernusとは『クルフッフとオルウェン』にその名前が出てくるケルトの英雄イデール(Yder)の化身で、ベルール は『トリスタン』の中で、忘れ去られそうになっていた伝説の中で、Isdernusはグィネヴィアの恋人だったと言及し、後の時代の『Roman de Yder(イデール物語)』では、その場面が再現されている。ウェールズの詩人ダヴィッズ・アプ・グィリム (en:Dafydd ap Gwilym) も、2つの詩の中で、グィネヴィアの誘拐のことをほのめかしている。さらに中世研究家ロジャー・シャーマン・ルーミス (en:Roger Sherman Loomis) は、この話は「彼女はケルト版ペルセポネーの役割を受け継いでいた」ことを表していると言っている。

ジェフリー・オヴ・モンマスの語る「グィネヴィアの誘拐」はこうである。グィネヴィアはローマ帝国の貴族の血筋を引いていて、誘拐したのは、コーンウォール公カドール (en:Cador) になっている。アーサーがグィネヴィアを  のモルドレッドに預けた目的も、(架空の)ローマ帝国の皇帝代官ルキウス・ティベリウスと戦うべくヨーロッパに渡るためだった、ということになっている。以後、アーサーの留守中に、モルドレッドはグィネヴィアを誘惑し、結婚し、王を宣言。アーサーはブリテンに帰国、モルドレッドとの宿命のカムランの戦い、と続く。

クレティアン・ド・トロワが『荷車の騎士ランスロ』の中で語る、「グィネヴィアの誘拐」の首謀者はマリアガンス(Maleagant。おそらくメルワスからの派生語だと思われる)で、誘拐の場面のほとんどはカラドックの焼き直しである。しかし、グィネヴィアを救出するのはアーサーではなくランスロットに変わっている。2人の不倫を扱ったのは、この作品(詩)が最初で、クレティアン・ド・トロワがそれを創造したのは、グィネヴィアに夫以外の騎士の愛(貴婦人崇拝)を与えたかったからだと思われる。モルドレッドでは救出劇以上の出番があるのでその役は務まらなかった。イデールは完全に忘れ去られてしまった。

ドイツの『Diu Crône』での誘拐者は、グィネヴィアの兄弟のGotegrimである。正当な夫と主張するGasozeinとの結婚を拒んだことで妹を殺害しようとした。ウルリッヒ・フォン・ツァツィクホーフェン (en:Ulrich von Zatzikhoven) の『ランツェレット』 (en:Lanzelet) では、Tangled Woodの王Valerinが、学者たちがグィネヴィアは後々ブリテンの繁栄と支配を約束していると気付いたことに起因する権力闘争の結果、グィネヴィアと結婚する権利を主張し、彼女を誘拐して、自分の城に連れて行く。アーサーたちはいったんグィネヴィアを救出するが、Valerinは再びグィネヴィアを誘拐し、たくさんの蛇に取り囲まれた別の城で彼女を魔法で眠らせる。その城からグィネヴィアを救い出すことが出来るのは、凄腕の魔法使いMalducだけだった。求婚者は違えど、これらと類似の物語のすべては、「ハーデースによるペルセポネーの誘拐」以降何度も物語に現れるモチーフの1つと見られ、たとえば、(アイルランド神話の)冥界の王メディール (en:Midir) に地上から誘拐され、過去を失った、冥界の花嫁エーディン (英語Étaín) に、グィネヴィアはよく似ている。(ちなみに、この寓意は、不倫の罪で火あぶりにされかかったグィネヴィアを救出するランスロットの場面にもあてはまる)。

最近人から貰った英文短編集の中にシャーリー・ジャクスンの「くじ」があったのだが、私はこの作品を2度ほど読もうとして2度とも挫折している。その原因は不明である。最初から落ちを知っていたのかもしれないが、この英語の本を眺めた時には「くじ」の粗筋や落ちは思い浮かばなかった。ホラー小説は好きではないが特に毛嫌いしているわけではない。子供のころは好きなほうだった。
下の文章はネットで拾った「作品分析」だが、まあ、題材の作品を読んでいないので何とも評価はできない。何となく、英文学の大学生の論文みたいである。知的な気どりを感じるが、それは当たり前だろう。自分の頭に自負心があるから論文など書くのである。「石打ち」による処刑は旧約と新約の聖書をイメージさせるため、というのが正解だろう。(だから最初に大きな反応と批判を生んだわけだ。)「罪の無き者まず石を投げよ」である。そしてこの場合は「罪人」に処刑される根拠すら無いという不条理性がカフカ的な悪夢感を生んでいるのではないか。ユダヤ・キリスト教社会で「処刑」された人々は本当に罪人だったのか、と批判されているような気持になった人は多いだろう。

(以下引用)

Akosmismus

 

Me, poor man, my library was dukedom large enough.

シャーリイ・ジャクスン「くじ」について

 完璧な短編小説とはなにか? そう問われたらわたしは悩んでからシャーリイ・ジャクスン「くじ」*1を挙げると思う。

 

0.
 Shirley Jackson "The Lottery" は 1948 年 6 月 26 日に The New Yorker 誌上で発表された短編である*2。ジャクスンはすでに短編をいくつか発表していたし、1944 年には高名なアンソロジー(The Best American Short Stories)に作品が収録されている。とはいえ、彼女の名が文学史上に現れたのは、なんといってもこの「くじ」によって、である。

 「くじ」が発表されるや否や、ニューヨーカー誌編集部にはそれまで受け取ったことのないほど大量の投書が舞い込んだ。曰く、「野蛮で、ナンセンスだ」「こんな風習が実際に行われているのか」「これ以上雑誌を購読したくない」*3

 ストラヴィンスキーの『春の祭典』も初演は歴史的な大失敗だったといわれている。「くじ」も同じだ。ジャクスンが受け取った手紙は 300 通を超えるが、そのうち好意的なものはわずか 13 通(それも、友人からのものがほとんど)だったという。しかし、なぜそこまで批判を集めたのだろうか? ただ批判されるだけでなく、誰もがこぞって批判したくなる、受け入れたくないと思わせるなにかがあったのだろうか。

 登場と同時に古典であった作品はいくつかあるが、「くじ」もまさにその類の作品である。それら優れた作品は善良な趣味人の感性を逆なでする真に新しいなにかと、芸術上の緊密な構成のどちらをも持ち合わせている。そのため、人々はそれを無視できないが、その場ですぐさま受け入れることもできない。この摩擦は激烈な批判となって噴出する。

 さて、本稿はまず「くじ」が持つ「芸術上の緊密な構成」を検討する。のちに、「感性を逆なで」した「なにか」とはなにであったか、考察する。

 

1.
 「くじ」のストーリーは単純である。村人が広場に集まり、くじを引き、当選したテシー・ハッチンスンは村人全員から石で打たれることになる。以上だ。

 ところで、われわれがくじと聞いて想像するものはおおむね肯定的なイメージで捉えられるものである。くじに当選*4すればプレゼントだったり、賞金だったり、王様になる権利だったり、競争入札において同額を示した入札者が複数いた場合には落札する権利が与えられる*5。というわけで、短編小説「くじ」は

からりと晴れて、暖かく明るい陽射しも澄んだ、夏らしい日となった。花は一面に咲き乱れ、草は青々と繁っている。

 情景から始まる。なにか楽しいことが起こりそうなイメージ。

 しかし、このくじがもたらす殺人という結末と、この牧歌的な情景はミスマッチだ。では、これは単なるミスリード、あるいは、結末の衝撃を増すためにあえてそうしたのだろうか、というと、もちろんそうではない。

 「くじ」を一度読んだ人間は、結末の衝撃に苛立ちを覚える。そして、二度目に読むと、その結末が周到に貼られた伏線の上に成り立っていたことを知る。まずはこの「二度読み」の過程を逐語的なスタイルで体験してみよう。「くじ」の結末が殺人であり、その犠牲者がハッチンスン夫人であることは十分に伏線で暗示されていることを確認する。

ボビー・マーティンのポケットは、早くも石でいっぱいで

 集まってきた子どもたちは石を集める。いわゆるチェーホフの銃というやつで、最終的に殺害に使われる石は、冒頭ですでに登場している。

ときおり誰かが冗談を口にしても、大笑いする者はおらず、せいぜいが笑みを浮かべて見せるぐらいだ。

 次に男たちが集まってくる。子どもたちとは違い、大人はこのあとに起こることとその帰結を知っているので、ジョークに大笑いすることはない。

ハッチンスン夫人が、広場に通じる道をバタバタと駆けてきた。

 犠牲者となるハッチンスン夫人はこの行事に遅れてやってくる。

 「このあたしに流しに皿を置きっぱなしにさせとくつもり、ジョー

  ハッチンスン夫人は、村の有力者であるサマーズ氏にジョーク交じりとはいえ、反論するような女である。

「北の方の村じゃ、くじを止めにしようとかいう話が持ち上がってるんだそうだ」

 そして、くじを引く過程で、北の方の村ではくじをやめることが検討されていると噂される。この村の人間たちも、くじをやめたいと思っていなくはないらしい。

「ああ、早く終わってほしいよ」
「走って父ちゃんに知らせに行くんだからね。いいね」
「父ちゃんに言ってきな」

 これは家長が怪我のため、妻が代わりにくじを引いたダンバー夫人のセリフ。「当たった」ことではなく、「外れた」ことを真っ先に父ちゃんに伝えたくなる、ということは?

 このように、「くじ」に当選することが望ましい結末をもたらすものではない、ということは、この短さの小説でありながら、堂々と示されていた。そして、その犠牲者がハッチンスン夫人であることも。彼女は村の協調を乱すような存在として最初から最後まで書かれていた。

 

2.
 さて、二度目の読みでわれわれは「くじ」の結末がアンフェアなものではない、作劇として卑怯な唐突さで読者を驚かすただのびっくり箱ではないことを確認した。

 しかし、まだ安心することはできない。ここまで周到に書かれた殺人は、いかなる意味を持つのか? 「くじ」とはいかなる性格の儀式なのか? それを探るために三度目の読みに入ろう。

 三度目の読みでは「くじ」の性格が以下の 3 点にまとめられることが明らかになるであろう。

(1) 村人たちにとって生活の一部と化していること
(2) 宗教的な起源をもつが、現在は宗教的な儀式ではないこと
(3) 村の利益に通じるものであること
 -(3a) 村人の結束を強めるものであること
 -(3b) 人口増を目的としていること

 

 (1)について。村人たちがこの儀式をどのような態度でとらえているか考えてみよう。

 「くじ引き」は昼前に開始され、お昼ご飯までには終わる。つまり、かれら村人は石で犠牲者を打ち殺した後、ほのぼのとした午餐の席に着く。さらに、

「さっさと取りかかって終わらせてしまうとしようじゃないか。そうすれば仕事にも戻れる」

 

村人たちはもう何度も同じことをやってきていたので、指示など話半分にしか聞いていなかった。

 

「くじとくじの間なんてあっという間のような気がするよ」

といった描写からは、村人がこの残虐なイベントに慣れすぎている様子が見て取れる。もちろん緊張感もあるのだが、終わってしまえばそれまでの定例行事としてみなされていると言っていいだろう。

 さて、なぜ殺人という結果を伴うようなくじ引きは村人に平然と受け入れられているのだろうか。その理由を探るために(2) について検討する。

 くじ引きは村の広場で行われる。村の広場には郵便局と銀行がある。ところで、これがアメリカの伝統的な村であれば、広場には当然教会があるはずであるが、それは描写されない。あるいは、教会などもともと存在しないのか。なんにせよ、この物語に教会が登場しないことが重要である。ところが、この物語世界に宗教が存在しないわけではない。くじ引きの儀式を描写する際に用いられる単語は chant 等の宗教的な語彙を含んでいる。また、くじを最初にひく男性の名は "Adams" である。そもそも、くじ引きと旧約聖書的な世界観が通底することはキリスト教徒にとっては常識だろうと思われる*6。いや、日本人にとってすら、くじ引きは神の意思の表れとみなされている*7

 さて、ではなぜジャクスンは「くじ」の儀式からキリスト教的な匂いを脱臭したのだろうか。現実のキリスト教会への配慮だろうか。特定の宗教への依存を否定することで、普遍性を求めたのだろうか。これらの解釈は一面の真理をとらえていようが、やはり重要な点を見落としている。先述の通り、「くじ」は「宗教的な起源をもつ」が、「今や世俗的なイベントとなっている」のである。起源と現状のずれの意味を考えなければならない。

 ところで、宗教的な儀式は理性的な吟味を必要としない。理性的な吟味が不可能なわけではないが、信仰はそれを必ずしも求めない。ところが、世俗的な儀式は、しかも、それが不利益――死――をもたらすものであれば、参加者は必ず自問自答する。なぜこのような儀式に参加しなければならないのか、と。

 この問いは意識的なものではないかもしれない。だが、ここでは、世俗的な儀式は理性的な基礎づけが可能でない限り存続しない、としたい*8

 「くじ引き」のような残虐な儀式は正統性と正当性の両方がなければ存続しえない。正統性についてはそれが持つ宗教的な背景が保証している。ところで正当性は? ジャクスンがここで「くじ引き」を「かつては宗教的であったが、いまや無宗教的になったもの」として描いた理由は、村人たちがこの儀式をある種の正当性をもって受け入れていることを示唆している。

 さて、(3) について。「くじ引き」はなんのために行われるのか? その答えはすでに小説内であからさまに示されている。それは「豊作」のためだ。

 (3a) くじの廃止が話題に上がったとき、ワーナーじいさんが持ち出す反論は、くじをやめると、「洞穴暮らし」に戻ってしまい、「はこべとどんぐりのシチューを食わにゃならん」から、というものだった。また、くじを引くことで、『六月にくじ引きゃ、とうもろこしはじき実る』らしい。

 ここでは狩猟採集生活と定住農耕生活が対置されている。定住農耕生活が求めるのはひとえに村人の団結である。農業は狩猟採集と違い、家族的な規模の小事業ではなく、一族が一丸となって行う大事業だ。

 くじ引きはこのように定住農耕生活に必要とされる団結を強化するものとして描かれている。それはくじ引きの結果としての殺人に用いられるのが「石」であることを思い起こせば簡単に理由が説明できる。

 くじ引きの犠牲者は別にギロチンで処刑されてもかまわないわけだが、なぜあえて村人全員から石で打たれて死ななければならないのだろうか。

 囲んで石を投げつけることは致命傷を与えたのが誰であるかを隠蔽するからだ。あなたの石はあの哀れな犠牲者を殺さなかったかもしれない。だが、あなたは石を投げたのだ。罪悪感と連帯感によって、村人たちはこの儀式に釘づけにされる。

 軍紀に違反したものを処罰するために、ガントレットと呼ばれる方法を取るところがある。二列に並んだ兵士の間を違反した兵は歩かされる。その間、両脇に並ぶ兵士たちはその違反者を棒で殴りつける。歩きとおしたことで釈放とする場合もあれば、死ぬまで往復させる場合もある。なんにせよ、これが軍隊の結束を高め、綱紀を粛正するために一番効率が良いのだそうである。くじ引きも同じメカニズムである。

 また、ハッチンソンが犠牲になっていることも「くじ」が団結のための儀式であることを物語の構造上から支持する。前述の通り、ハッチンソンは周到な伏線で描写されるように、村の秩序を乱す存在である。他にも、作中の語りは、夫が怪我のため妻がくじを引くことになったダンバー家や、(おそらく)父親が早くに亡くなったため、息子が一族を代表して母親の分のくじも引くことになったワトソンの息子、ジャックなどに視線をそそぐ。「くじ」はもちろん運任せだが、物語的には(そして、村人たちも気づいているのかもしれないが)、「壮健な男性によって強くまとまった一族」という枠から外れたアウトサイダーを選び出す装置として描かれている。

 (3b) また、くじ引きにはもう一つ決定的に重要な役割がある。それは「人口を増やす」ことである。
 うかつに読むとくじを「口減らし」の一形態だと捉えてしまいがちであるが、それではこの小説の趣旨を大きく見誤ってしまう。くじは死の儀式ではない。生と死の儀式なのである。くじ引きの日の天気を描写した箇所を再度引用しよう。

からりと晴れて、暖かく明るい陽射しも澄んだ、夏らしい日となった。花は一面に咲き乱れ、草は青々と繁っている。 

この描写はミスやミスリードではない。また、儀式を執り行う人物の名が生命力を象徴する Summers であり、村の長老格の老人の名前が死を意味する Graves であり、この二人が儀式の中心にいることも、もちろん偶然ではない。

 くじの持つ二面性の意味についてはのちに回すとして、それが「人口増」のための仕掛けであることを先に証明しよう。

 まず、端的に「人口も三百人を越し、さらに成長を続けるなかにあっては……」と書かれている。そう、あくまでもこの村は繁栄を続けているのである。明言はされないとはいえ、それが「くじ」の恩恵であることは明らかである。なぜか?

 ここで「くじ」のルールを確認しよう。

・一族の長がまず一族を代表してくじを引く
・当選した一族に含まれる家族の代表がさらにくじを引く*9
・当選した家族の構成員がくじを引く
・当選したものが石で打たれる

 以上である。お分かりだろうか。そう、人口 300 人の村において、くじの当選確率は 1/300 ではない。より大きな家族に、そして、より大きな一族に所属すればするほど、最終的な当選確率は低下する。逆に、独身者や、一族から外れたものは、当選確率が跳ね上がる。

 このシステムが村人たちに婚姻と出産をうながす強烈なプレッシャーとなるであろうことは想像に難くない。

 (以下略)

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