「このままでいいのか、だめなのか、そいつが問題だ」
これこそ、この時のハムレットが抱えていた最大の問題であるのは明白である。つまり、「生きるか死ぬか」という問題ではなく、母親の不倫(父王の生前からの関係がどうかは不明だが、父王を殺したのが叔父なら、その可能性大)と、叔父による王(ハムレットの父)の殺害に対して立ち上がるか否かという問題だ。
そして、立ち上がることは、自分の死をもたらす可能性もあり、母の不倫を世に知らしめることにもなる。だからこそ、ハムレットは悩みに悩み、オフェーリアさえも「女という、不倫予備軍」と見てしまうのである。彼のオフェーリアへのあまりに無情な態度の意味はそこにある。だから「尼寺へ行け」なのである。それは「性欲を断て」という厳しい命令なのであり、そこに母親の不倫に苦しむ息子の怨念があるわけだ。
(以下引用)
「生きるべきか死ぬべきか」、それは誤訳だ。『ハムレット』の"例の箇所"について(透明なシェイクスピア(1))
宮さん宮さん(トンヤレ節)
お馬の前に ヒラヒラするのは 何じゃいな♪
『宮さん宮さん』は、1868年の戊辰戦争(ぼしんせんそう)を新政府軍(官軍)側から描写した明治時代初期の流行歌。
戊辰戦争時に実際に歌われていたとのことで、日本初の軍歌としても位置づけられる。歌詞から「トコトンヤレ節」、「トンヤレ節」とも題される。
写真:有栖川宮記念公園内の熾仁親王像(東京都港区南麻布)
「宮さん」とは、戊辰戦争時に新政府の総裁で東征大総督を兼任した有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう/1835-1895)を指している。
官軍の司令官となった有栖川宮熾仁親王は1868年2月、明治天皇から錦の御旗(にしきのみはた)と節刀を授けられ、同年4月には無血開城された江戸城へ入城している。
作詞:品川弥二郎、作曲:大村益次郎とされるが、実際の作曲者については、品川弥二郎と親しかった祇園の芸妓・中西 君尾(なかにし きみお/1844-1918)の名前を挙げる説もあるようだ。
【YouTube】 宮さん宮さん
歌詞
1.
宮さん宮さん お馬の前に
ヒラヒラするのは 何じゃいな
トコトンヤレ トンヤレナ
あれは朝敵 征伐せよとの
錦の御旗(みはた)じや 知らないか
トコトンヤレ トンヤレナ
2.
一天万乗(いってんばんじょう)の 一天万乗の
帝王(みかど)に手向かい する奴を
トコトンヤレ トンヤレナ
ねらい外さず ねらい外さず
どんどん撃ち出す 薩長土(さっちょうど)
トコトンヤレ トンヤレナ
3.
伏見 鳥羽 淀 伏見 鳥羽 淀
橋本 葛葉(くずは)の戦いは
トコトンヤレ トンヤレナ
薩長土肥(さっちょうどひ)の 薩長土肥の
合(お)うたる手際じゃ ないかいな
トコトンヤレ トンヤレナ
4.
音に聞こえし 関東武士(さむらい)
どっちへ逃げたと 問うたれば
トコトンヤレ トンヤレナ
城も気概も 城も気概も
捨てて吾妻(あづま)へ 逃げたげな
トコトンヤレ トンヤレナ
5.
国を追うのも 人を殺すも
誰も本意じゃ ないけれど
トコトンヤレ トンヤレナ
薩長土肥の 薩長土肥の
先手(さきて)に手向かい する故に
トコトンヤレ トンヤレナ
6.
雨の降るような 雨の降るような
鉄砲の玉の 来る中に
トコトンヤレ トンヤレナ
命惜しまず 魁(さきがけ)するのも
皆お主の 為故じゃ
トコトンヤレ トンヤレナ
歌詞の意味・補足
一天万乗(いってんばんじょう)とは、天子、天皇のこと。中国由来の表現で、天子は天下のすべてを治め、兵車を一万台も動かす国土を有する、との意味合いがある。「一天万乗の君」。
薩長土(さっちょうど)は、明治維新の原動力となった薩摩藩、長州藩、土佐藩の「勤皇三藩」の総称。戊辰戦争の頃から肥前藩を加えて「薩長土肥(さっちょうどひ)」と呼ばれ、明治維新の母体となった。
葛葉(くずは)の戦いは、鳥羽・伏見の戦いにおける楠葉台場(くずはだいば)での戦いのこと。現在の楠葉台場跡史跡公園。
吾妻(あづま)とは、上方から見て東の国々のこと。
魁(さきがけ)とは、先駆け、すなわち合戦において他の者よりも先に敵の中に攻め入ること。
まあ、欧米人や英語圏の人間は基本的に相手を思いやる、忖度する、ということは無いわけだ。相手の表現が自分の気に入らない場合は、即座に相手を悪意ある存在と見るわけである。しかも、なぜか非英語圏の人間は知能的品性的に自分たちより劣等の存在だと見ている。
外資・グローバル転職で役立つ英語表現(20)–Passive Aggressiveなフレーズ
前回、英語圏のZ世代の間では、 (thumbs up)が「失礼」「受動攻撃的(passive aggressive)」と捉えられると書きました。
この”passive aggressive”というのは、直接、不満や怒り、攻撃性を相手に示すのではなく、表面的にはやわらかい物腰で、暗に怒りや抵抗を表現して相手を攻撃することを言います。
たとえば、「怒っていない」「気にしていない」と言いながら、態度は明らかに怒っている、いやなこと、やりたくないことをはっきり「いや」「やりたくない」と言わずに、わざとゆっくりやったりしてサボタージュする、といったことです。誘われて「イヤ」と言わずに、ドタキャンする、ネガティブなことを遠回しに言うといったことも含まれます。
たとえば、下記のような表現ですが、日本語でいう「マウントをとる」に重なっている部分もあります。
「それ、すてきな服。私も着れればいいんだけど、やせすぎてて無理」
「掃除、手伝ってよ」と言わずに、「〇〇さんは、いつも掃除、手伝ってくれたんだけど」
日本語で「受動的攻撃性」というと心理学の専門用語に聞こえますが、英語の”passive aggressive”は、日常会話でもよく使われます。
Don’t be passive aggressive.(受動攻撃するなよ=言いたいことがあるなら、はっきり言えよ)
It’s not easy to deal with a passive aggressive person.
(受動攻撃的な人と関わるのは楽じゃない)
Passive Aggressiveなフレーズ
昨年、アメリカの会社がネットユーザーを相手に調査した結果(英語の非ネイティブも含まれている)、一番よく使われるpassive aggressiveは下記の表現だそうです。皆さんも、避けるべき表現として覚えておいてください。
1. Please advise
これは、古めかしく、もったいぶった表現で、(アメリカの)中年層ですら使う人がいるのか、疑問です。昔、取引先のアメリカ企業で、これをよく使う男性がいたのですが、その人は、今では60代です。
これに代わる一般的な表現は、”Please let me know”です。また、本文中に質問であることがわかっているのですから、何もなくてもいいのです。質問した後に、日本語で「よろしくお願いします」と書くようなもので、(余白を埋めるだけの)あまり意味のない表現です。
2. Noted
これを頻繁に使う(ほぼメールで毎回)在米の日本人女性がいます。その人が以前、勤めていたアメリカ企業では、よく使われていたのかもしれませんが、私はアメリカで30年働いて、これを使うアメリカ人に出会ったことがありません。
これは相手からのメッセージに対し「了解」という意味です。ちょっと上から目線なので、上司から来たメールに部下が”Noted”と一言返信するというのは考えられません。同僚間では「別に返答するほどの内容でもないし、はい、はい、わかりました」という感じで受け取る人もいるかもしれません。
3. Friendly Reminder
私も、ビジネス英文メールなどの著書で、支払を催促する場合に、第一弾として”Friendly Reminder”の送信を勧めています。期日通りに支払をしていないのなら、いかなる”reminder”を送られても仕方ないと思います。
一方、社内で締切のリマインダーなんかで送ると嫌がられる可能性はあります。”Friendly”と言いながら(passive)、要求している(aggressive)点がpassive aggressiveだと思われるのでしょうが、単に”reminder”ならいいのか…
4. Will do
これはアメリカ人がよく使うフレーズで、「そうします」「その通りします」という意味です。私は、passive aggressiveだとは思わないのですが、シチュエーションによっては、そうとらえられる可能性はなきにしもあらず。
5. Thanks in advance
「前もってありがとう」という意味で、たとえば、質問をしたり、何かを依頼したときに、前もって感謝の念を伝えておく、ということですが、答えてもらう、やってもらうのを前提とすることで、相手がプレッシャーに感じることもあるということでしょう。
6. Per our last conversation (この間、話し合ったとおり)
7. As per my last email (前回の私のメールどおり)
8. As promised (約束したとおり)
9. As discussed (話し合ったとおり)
この4つが、上記リストの中で、一番passive aggressiveだと思います。私も、たまに使うのですが、暗に「ちゃんと言ったよね?」「前回のメール、読んでないの?」「聞いてないとは言わせない」と言っているようなものです。そこまでaggressiveではなくても、「ひょっとして、言ったのに、読んだのに、忘れた?」くらいのニュアンスは含まれているかも。できるだけ使うのは避けた方がいいでしょう。
そこには「宦官は(基本的に)セックスができない」というのが最大の根拠として存在しているのではないか。つまり、セックスによって君側の女性を篭絡し、あるいは利用することが無い、という思想である。これは、皇帝の側室や后妃が産んだ子供が確実に皇帝自身の子である、という保証になり、このことは血縁(家系)を最大に重視する中国(昔のシナ)では非常に重要だったと思われる。
なお、宦官を使わなかった欧州の王族や貴族の子供は、その家の召使や御者によく似た子供が頻繁に生まれたようだwww たしか、スイフトがそれを皮肉っている。むしろ、乱倫は欧州王侯の常態だった(ギャラントリーという奇妙な風習がその象徴)から、血縁をさほど重視しなかったのではないか。重視しても無駄だから。そこに血縁より家来の実績重視の「封建制」が発達する理由もあったわけだ。
Episode 洪武帝、一日に632件を処理
貧農から身を起こし、皇帝に上りつめた洪武帝は、権力の一切を皇帝に集中させる専制政治を作り上げた。その過程で、建国の功臣でもいささかでも疑わしいところのあるものを次々に粛清した。1380年の「胡惟庸の獄」(朱元璋時代の第一の腹心の部下であった胡惟庸という人物を権力を簒奪しようとしたとして捕らえた)では1万5千人が、さらに1390年にはその陰謀が再燃したとして1万5千人が捕らえられ、処刑された。専制政治を追求した洪武帝は、中書省を廃止、六部を直接統括し、行政文書はすべて自分で決済した。一説に拠れば、一日平均632件の案件を皇帝として裁決したという。皇帝に権力が集中すればするほど、官僚よりも皇帝の身の回りに仕える宦官の地位が高まることとなる。洪武帝自身は宦官の政治関与を厳しく禁止していたが、やがて永楽帝の時代になると、宦官は重く用いられるようになり、明の内政・外征に介入するようになっていく。
朱元璋
洪武帝 | |
---|---|
各種表記 | |
繁体字: | 洪武帝 |
簡体字: | 洪武帝 |
拼音: | Hóngwǔ dì |
ラテン字: | Hung2-wu3 ti4 |
和名表記: | こうぶてい |
発音転記: | ホンウー ディ |
英語名: | Hongwu Emperor |
朱 元璋(しゅ げんしょう)は、明の初代皇帝。廟号は太祖(たいそ)。諡号は高皇帝(こうこうてい)。その治世の年号「洪武」から洪武帝(こうぶてい)と呼ばれる。
生涯[編集]
皇帝即位まで[編集]
少年期[編集]
元末の天暦元年(1328年)の9月18日、淮水ほとりの濠州鍾離県(現在の安徽省鳳陽県)にて生まれる[2][3]。父は朱五四(後に世珍と改名)、母は陳氏。兄が3人、姉が2人いる6人兄弟の末っ子だった[2][3]。五四の兄五一の家に4人の男子がおり、朱家で8人目の男子ということから朱重八と名付けられた(以後、煩雑となるので元璋で通す)[2]。母親は夢の中で仙人から赤い玉を授かって重八を妊娠し、彼が生まれると家全体が赤く光り輝き、近所の人々が火事と勘違いして家に集まってきたが、火事が起きてないので不思議な顔をして帰っていったという[2]。
朱家は元は劉邦の出身地である江蘇省沛県に住んでいたが、元のはじめ頃に生活苦から句容に移る。しかし元璋の祖父初一は徭役の重さに耐えかねて盱眙県へ遷る。ここである程度の暮らしを手に入れることに成功し、息子の五一と五四も一家を構えることができた。しかし初一死後は再び困窮するようになり、濠州霊璧次いで虹県 に遷る。この間に3人の兄が誕生し、鍾離県に遷ったところで重八が生まれた。このように朱家は流民と言ったほうが良いような貧農だった[4][5]。
両親は幼い元璋を村の塾に通わせていたが、学費が続かず[6]、地主のもとに牧童として奉公に出されることになった[6][7]。幼い頃の元璋はガキ大将であり、牧童仲間の間で信望が高かった。ある時、腹を空かした元璋たちは我慢ができなくって地主の牛を1頭殺して皆で食べてしまった。満腹になった後、地主からのお仕置きを恐れて青くなった彼らだったが、元璋は自分が責任を取ると言って一人で地主のもとに赴き、地主から滅多打ちにされた[8][9]。
貧しいながらも何とか生きていた朱一家であったが、至正四年(1344年)、元璋17歳の時に淮河一帯が酷い干ばつに襲われる。農作物は枯れてしまい、そこに蝗が来襲して緑の物を食い尽くして飢饉となった。さらに追い打ちをかけるように疫病が流行。父母と長兄はこの時に死亡した[10][11]。3人の遺体を埋葬した後、次兄は郷里に残り、三兄は他家に養子に出て、元璋は隣人のつてにより皇覚寺(現隆興寺 [12])という寺で小僧となることになった(2人の姉はすでに他家に嫁いでいた)。その後、兄弟が再び会うことはなく、これが今生の別れとなった[13][14]。
しかし皇覚寺でも飢饉の影響は色濃く早々に食料が尽きてしまい、寺に入ってから2か月弱で食を求めて托鉢の旅に出ざるを得なくなった[13][15]。その様はほとんど乞食同然の悲惨なものであり、後年元璋はこのときのことを思い返して「身は蓬の如く風に逐われて止まるところなく、心は滾滾として沸騰する」と述べている[16][17]。濠州から始まって南の合肥、そこから西の六安・光州・固始・息州・羅山・信陽・汝州・陳州・毫州・潁州と3年にわたって淮西地方(淮河の西)をほとんどくまなく回った[18][17]。長く苦しい旅であったが、この旅で得た知識・経験はそれまで狭い世界に住んでいた元璋の目を大きく開かせることになり、のちの争覇戦での大きな助けとなった[19][20][21]。
3年後、元璋が21歳になった至正7年(1347年)に皇覚寺に戻り、再び僧侶としての修行に入る。後に部下となる徐達や湯和と付き合いがはじまったのがこの頃である[22][23]。
紅巾の乱[編集]
至正11年(1351年)、白蓮教徒の集団が各地で反乱を起こし、紅巾の乱が勃発した[24]。その中で皇覚寺は反乱軍に通じているという疑いがかけられて元軍から焼き討ちにされてしまった[25]。寺の焼け跡で元璋が自分の将来を占ってみたところ、紅巾軍への参加が大吉であると出たため[26]、韓林児を教祖とする東系紅巾軍の一派として濠州で挙兵していた郭子興のもとに身を投じた[27]。なおこのときに最初は間諜と間違われて殺されそうになったが、面構えが郭子興に気に入られて幕下に入ったという逸話がある[27]。朱元璋は郭子興の下でめきめきと頭角を現し[27]、郭の養女の馬氏を妻に貰った[27]。これが後の馬皇后である[28]。
この頃に名を重八から元璋に変え[29]、徐達[30]や勇猛で知られる常遇春[31]や後の謀臣の李善長[32]・劉基[33]ら優秀な部下を獲得していった。朱元璋は李善長から「漢の高祖劉邦は農民から身を起こしました。度量広く殺人を好まなかったために皇帝となりました。公(元璋)は高祖を手本とすれば天下を統一できます」と言われた[32]。1355年の郭子興の死後は郭軍団から離れて一独立勢力となり、翌年に集慶路(南京)を攻撃してこれを落とし[34]、ここを応天府と改名して本拠地に据え[35]、部下から推挙されて呉国公を名乗るようになった[36]。