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モホロビチッチ不連続面(モホ面)から連想して、
ホモロビッチ・ホモスキーというロシア人を考案した。まあ、クレしんに出てきそうな名前である。
なお、モホ面は地殻とマントルの境界面で、地殻は薄いところ(海面下)では5kmくらいしかないらしい。
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とある女性(おそらくアマチュア創作家)のツィートだが、私も同じ気持ちを持つことがある。と言うか、だいたいそういう気持ちだ。アマだと創作でカネは入ってこないが、プロだと責任の重圧が凄いだろう。才能ある人々は創作能力が高いので、要求に応えて次々と創作できるわけだ。プロの中にはその重圧に負けて精神を病む人も多い。アマチュアにはそれがない。しかし、「締め切り」や義務が無いだけに、いくらでも怠けられ、そのために自分の能力を鍛えないまま一生を低レベルな創作家として終わるわけである。
「高慢と偏見」のオースティンは一生をアマとして終えた(プロと言えるほどの生涯収入は無かったはずだ。)が、悠々と創作活動を続け、優れた作品を幾つも生み出した。それは書くこと自体が好きだったからだ。「赤毛のアン」のモンゴメリーは、2作目以降はプロになったと言えるだろうが、そのために夫との仲が悪くなり不幸な家庭生活を送った。「アン」の2作目以降は、出版社の求めに応じて書かれたもので、おそらく書くべきこともさほど無かったためか、ほとんどが凡作らしい。

(以下引用)

私の理想の生き方は、ヘンリー・ダーガーかも。
子供のころに過失で人を殺した人間の半生を小説にしたらどうかな、と思ってその場合法律的にはどういう措置になるのか調べてみたが、下記の親の責任云々の話はあまり関係はなさそうだ。まだ調べる必要はあるだろうが、一応、「子供(幼児)には責任能力は無い」ということで事故扱いになるのだろうと思う。

【民事・18歳未成年者の不法行為と親の法的責任・未成年者に責任能力がある場合の監督義務者の責任】

質問:私には18歳になる息子がおり,今では実家を出て一人暮らしをしているのですが,先日,暴力沙汰を起こしてしまい,相手に大怪我をさせてしまいました。息子には資産もなく支払能力がない状態です。相手は,治療費や慰謝料等の支払い義務は親にもあるはずだと言って,多額の賠償金を支払うように請求してきました。未成年の子供をきちんと育てるのは親の役目だとは思うのですが,息子が相手に負わせた怪我の賠償責任まで親である私が負わされることになるのでしょうか。

回答:原則としては,息子さん本人のみが暴行事件による損害を賠償する責任を負うことになりますが(民法712条,714条参照),例外的に,未成年である息子さんに対する親の監督責任について,親自身が一般不法行為責任(民法709条)を問われる場合があります。

解説:
1.(未成年者の責任能力)
 未成年者が他人に損害を与えた場合でも,責任能力がないとされるときは,その未成年者自身は不法行為による損害賠償責任を問われないこととなります(民法712条)。責任能力とは損害を発生させた具体的行為が道徳上許されないということにとどまらず法律上批難される違法なものであることを理解できる能力を言います。未成年者の責任能力の有無は,年齢・環境・生育度・行為の種類などから判断されますが,概ね12歳(又は13歳)くらいまでは責任能力がないと考えられています。刑法上の責任能力は14歳と規定されていますので(刑法41条)、それよりは幾分程度が低いと考えることもできますが、同程度と評価できるでしょう。法的責任の根拠は、個人主義(私的自治の原則の前提)の見地から、違法な行為を認識しながらあえてこのような行為を行うという個人への非難にあるので、違法行為を認識できなければ非難すなわち法的責任を負うことはないわけです。

2.(監督義務者の責任、民法714条の監督義務者、親の法的責任の性質、根拠)
 このように未成年者自身が責任能力を欠き不法行為責任を負わない場合には,その親などが監督義務者等として損害賠償責任を負うことになります(民法714条)。これは,発生した損害の公平な分担の理念から当該未成年者に責任を追及できない被害者の救済を図るために,監督義務者である親などの責任を加重して責任を問えるようにしたものです。監督義務者・代理監督者は,監督義務を怠らなかったことを証明すれば責任を免れることができますが(同条1項但書),被害者側ではなく監督義務者の方で義務懈怠がなかったことの立証の負担を負わされる点で,被害者救済がより強く図られているのです。条文上挙証責任を転換して事実上被害者の責任追及を容易にしています。
 理論的根拠ですが、どうして、責任無能力者の監督義務者は責任が加重されるかといえば、工作物責任(民法717条)と同様、危険責任に類するものと考えることができます。人間は、工作物のように物ではありませんが、責任無能力者は、自らの不法な行為について法律上許されないという認識する能力がないのですから、能力者よりも自己抑制ができず不法な行為を行う危険性を常に有しています。このような危険性を有する無能力者の監督義務者は、この危険性を認識することが可能であり管理監督する者として、危険性を有する人物の不法な行為を防止する責任が加重されることになります。財産的損害が発生した場合、私的自治の原則に内在する公平の理念から被害者側と加害者、監督者を一体とみて被害者側を救済しています。この理屈は、2項、代理監督義務者も同様です。

3.(本件)
 もっとも,息子さんの場合は,18歳で物事の分別もつき,物事の是非善悪も判断できると考えられますので,責任能力があると判断されることになるでしょう。そうすると,親であるあなたが,監督義務者として民法714条により責任を負うことはないことになります。
未成年者本人に賠償能力が無い場合は、被害者側としては、未成年者本人に対して損害賠償請求訴訟を提起し、確定判決を取り、請求権の消滅時効期間が10年間に延長されますので、10年以内に、この確定判決を債務名義として、未成年者の財産に対して強制執行をしていくことが考えられます。通常は10年以内に成人し、就職したり、自営業を開始したりして、収入を生じるようになりますので、強制執行や任意の弁済を受けることができるものと思われます。

4.(未成年者に責任能力があっても監督義務者の一般不法行為責任を負う場合)
 上記のように,親である監督義務者が民法714条により責任を負わない場合でも,親自身が独自に一般不法行為責任(民法709条)を問われる場合があります(最判昭和49年3月22日)。未成年者に責任能力があり,親に民法714条の監督義務者責任が生じない場合でも,親の監督義務違反があり,その義務違反行為と損害の発生の間に因果関係があるとされた場合には,親の監督義務違反自体が一般不法行為責任の要件を満たすことになり,民法714条による責任を負わないことが一般不法行為責任の成立まで妨げるものではないと考えられるためです。どのような場合に親の監督義務違反が損害との間に因果関係があるといえるかについては,被害者救済の見地から広く認めるべきとする見解があり,他方,あくまでも一般不法行為責任(民法709条)が認められるかどうかの判断の中で親の監督義務違反が検討されるにすぎず,親に一般的包括的監護教育義務違反があれば足りるとは考えない見解もあります。

5.(基本的考え方)
 基本的には、一般不法行為の要件、過失の一つとして監督義務違反を考える説が妥当であると思います。このような判例が存在する理由は、未成年者が責任能力者であっても、実際は被害弁償をする財産的能力がなく、被害者の救済を図ろうとするところにあります。しかし、被害を受けて加害者に弁償する財産的なものがないことは、未成年者の不法行為に限った事ではありませんし、過失責任の大原則は、監督義務者である親にも保証されるのですから、危険責任等の正当な理論的根拠なく安易な拡大解釈は許されないと思います。唯、責任能力があっても未成年者は、精神的、肉体的に未成熟であり、その点教育監護権を有する両親等は、過失すなわち不法な行為の予見、回避義務を解釈上認定される可能性があると思われます。

6.(一般的判断基準)
 どのように具体的に検討されるのかについては、次に記載した判例を参考にして下さい。判例では、監督義務違反と結果発生について相当因果関係があることを前提に、過失の内容について①親として家庭教育が行われていたか、②違法な行為をするのではないかという結果の予見可能性があったか、③そのような結果を予見できたとして、結果を回避するために可能なことがあったか、それらの可能なことについてどのような対応策を講じたのかまた、努力したのか、という点から検討されることになります。ご自身では判断が難しいようでしたら,法律の専門家である弁護士に一度相談してみることをお勧めいたします。

「文春オンライン」の高橋留美子インタビュー記事で、全体がいいが、特に重要な部分を転載する。小池一夫の「最後を主要人物の笑顔で終わる」ということと、それについての高橋留美子の「その笑顔に至る過程が大事だ」という解釈も素晴らしい。



「受けゼリフを言うな」

――印象的だった教えはなんでしょう?

高橋 「受けゼリフを言うな」ってことですね。

――受けゼリフ?

高橋 たとえば「いいお天気ですね」と話しかけられたときに「そうですね」と返したら、マンガにはならないでしょ。「いいお天気ですね」に対してどう返すかで、キャラクターも話も膨らみます。その教えは、いまだにすごくためになっています。

結局、「キャラクター」は…

――小池先生の著作を読むと「キャラクターづくり」を重視するイメージが強いですが、高橋先生は「セリフ」のつくり方が印象に残っていた?

高橋 結局、「キャラクターとは何か」と言ったら、言葉でできているじゃないですか。造形とかは置いといて、ね。その人が何をしゃべるか、どう受けるか。そのリアクションでキャラクターはできあがっているのだな、と。つまり「受けゼリフを言うな」ってことは、イコール「キャラクターを考える」ことなんだ、と思っています。

――『うる星やつら』では、主人公の諸星あたると面堂終太郎は「同じレベルのアホ」(「星座はめぐる」単行本3巻収録)ですが、リアクションの出方が違うわけですね。

高橋 そういうところはあるかもしれません。新キャラを登場させたときの掛け合いで、既存のキャラクターの別の一面が出ることがあって、おそらく根底に「受けゼリフを言うな」の教えを思い続けていたからだろうなぁ、と思っています。いまマンガを描いている人も、この教えを覚えておくと、おもしろいんじゃないでしょうか。

『うる星やつら』新装版第3巻第6話「星座はめぐる」より。諸星あたると面堂終太郎はラムの持ってきたホロスコープの天秤にかけられると両者は釣り合い、「同じレベルのアホ」と認定される。

『めぞん一刻』ヒロインの笑顔の裏側

――劇画村塾では、かなり高度なことを教えていたんですね。

高橋 プロになって何年も経験を積んでから「あの時言ってくれたことはこういうことだったのか」と気づく瞬間があるんです。たとえば「最後に印象的な笑顔でニコッとする」という教えがあるんですけど、ただ笑顔を描けばいいというわけではなくて、ラストのコマに至るまでの積み重ねのエピソードが大事になってきます。

 でも、村塾に通っている頃のレベルでは、最後のニコッとした笑顔だけを真似してしまう。経過は吹っ飛んじゃっているので、そんな笑顔には意味はないんです。漫画家を何年も続けているうちに、そのことにふと気づくんですよねぇ。

――どの作品を描いているときに、その気づきを得ましたか?

アニメ「神様になった日」を全部見たが、面白くて見たというより、この話をどう展開させるか、という興味で見た感じだ。実際、話としては無理がありすぎ、ギャグ的キャラクターに悲劇を演じさせるという根本的な無理が、視聴者(私)に不快感を感じさせたのだが、前半はよくあるギャグを上手く使っていて悪くはなかった。後半は、まったく不快なドラマである。これが「泣きゲー」的感性なら、私とは水と油だ。
ちなみに、「麻枝」は「まえだ」と読むらしい。中二病的ネーミングである。

(以下引用)

Key設立後[編集]

ビジュアルアーツ移籍後は、企画者、シナリオライター、作詞家、作曲家(Key名義)として活動する。涼元悠一が企画・シナリオを手がけた『planetarian 〜ちいさなほしのゆめ〜』を除き、1999年に発売した第1作『Kanon』から、第7作『リトルバスターズ! エクスタシー』まで第一線で活動し続けた。10年近く制作現場の中核的位置にいたことから、実質的なKeyの代表とみなされるようになっている。

しかし、必ずしも麻枝が「Key」というブランドに固執していたわけではない。『Kanon』発売直後においては、『ONE 〜輝く季節へ〜』と同様に久弥直樹の人気の高さに勝てなかったと感じていたため、Keyを辞める意向をビジュアルアーツの社長である馬場隆博に伝えている[7]。しかし、久弥の個人的都合による退社でKeyへの一時的な残留が決定。一作限りということで、第2作『AIR』の企画、執筆を行った。だが、『AIR』完成時には新ブランド設立時の相方となるはずだったイラストレーターと縁が切れており、以降もKeyに残留することとなった[14]

3作目では、企画者から一旦降板したが、別の担当者による企画が数ヶ月経っても全く進まないという事態が発生。やむを得ず企画者に戻ったものの、3回も開発中止の覚悟をするなど制作は難航した[7]。3年半後、第3作であるKey初の全年齢対象作品『CLANNAD』が完成。結果的に麻枝作品の集大成ともなった同作は高い評価を受けた。しかし、『CLANNAD』のスピンオフ作品として比較的自由に作った『智代アフター 〜It's a Wonderful Life〜』は強烈な批判を受ける。麻枝本人も後年「ボッコボコにユーザーに叩かれた」と語っている。評価する声も決して少なくは無かったが、それ以上にバッシングが大きく、麻枝はショックのあまり1 - 2か月の休職に追い込まれた[14]。復帰後は新人ライター・都乃河勇人の育成を兼ねて、『リトルバスターズ!』の企画、シナリオを手がけた[7]。『月刊コンプティーク』2007年2月号にて休筆宣言をした際には「麻枝引退!」と騒がれたが、「『次は誰かにまかせます』くらいの気持ちで言った」として、シナリオライターとしての活動継続の可能性を示唆[15]。その後アニプレックスの鳥羽洋典よりオリジナルアニメ企画への参加を依頼され[16]ピーエーワークス制作によるTVアニメ『Angel Beats!』が2010年4月から1クール(3ヶ月)アニメとして放送された。2009年10月には最後の本読みが終わり、この本読みを最後に再び休職に入ることを報告していたが[17]2010年11月12日京都大学での講演で、『Angel Beats!』のゲーム化、シナリオ執筆業の再開が麻枝本人から発表された。2012年にピーエーワークスの堀川社長よりもう一度麻枝と作品制作をしたいとの依頼があり[18]、再び脚本や劇中バンドの楽曲制作等で参加、2015年7月よりTVアニメ『Charlotte』が放送された。

2004年より『ヒビキのマホウ』で漫画原作にも挑戦している。麻枝は『ヒビキのマホウ』はルーツとも呼べる物語だと語っている[19]。こちらは作画担当の依澄れいの都合により長期休載中であったが、2013年より連載再開し当初の構想とは異なるものの[20]、単行本全六巻で完結している。

2016年2月29日、Twitterにて入院する旨をツイート。同年7月2日にTwitterを再開、特発性拡張型心筋症を患っており、その後第一種身体障害者心臓機能障害一級(心臓の機能の障害により自己の身辺の日常生活活動が極度に制限されるもの)となったことを公表するとともに、心臓移植が不可避の状態にあることを明らかにした[21]。同時に、元来のうつ病の影響で、仕事以外への関心が薄いため、仕事に復帰することが望ましいと診断されたことも明らかにした [22]

2015年秋ごろ『Charlotte』挿入歌『君の文字』歌唱担当の熊木杏里からオファーがあり[23]、オリジナルアルバムの制作を開始、麻枝の入退院を挟み完成し、『Long Long Love Song』として2017年7月に発売する。また退院後にシンガーソングライターのひょんとユニットSatsubatsu Kidsを結成、2017年末のコミックマーケット93にてアルバム『Hikikomori Songs』を、2018年5月に一般流通盤『Hikikomori Songs』を発売する[24]。加えてKeyの新作『Summer Pockets』にて原案と音楽を担当する[25]など様々な活動を続けている。

2019年11月28日に麻枝 准が原作・メインシナリオを手掛ける完全新作ゲーム『ヘブンバーンズレッド』がティザーサイトと同時に発表された。当初は2020年リリース予定となっていたが、後に延期が発表された。

2020年1月09日にVABLOG馬場隆博社長の記事『◆2020年の抱負など◆』にて「例のアイツが手がける情報未公開の作品については、今年ようやく発表になると思うのでよろしく!」[26]と記載され新作オリジナルアニメを示唆された。その後、2020年5月10日に行われたニコニコ生放送にて、原点回帰をキーワード[27]とした新作アニメ『神様になった日』が発表され、2020年10月から放送された。

2021年には、麻枝准が「純粋に書きたいものを初めて書いた」という初の小説「猫狩り族の長」が5月17日に発売された[28]

2022年2月10日、2020年リリース予定となっていた『ヘブンバーンズレッド』が正式リリースを開始した。

作品の特徴[編集]

泣きゲーのパイオニアとして知られる。最初期の『MOON.』の頃からシナリオにおける泣かせ要素に注目しており[7]、ジャンルを『鬼畜サイコ涙腺弛まし系ADV』としていた[29]。続く『ONE 〜輝く季節へ〜』は泣きゲーの始祖的存在として[30]、後の作品に大きな影響を与えた[注 3]。『MOON.』から数えて5作目となる『CLANNAD』で作風がほぼ確立。『電撃G's magazine』の美少女ゲームの人気投票で『CLANNAD』が1位に輝いた時、麻枝自身も「自分の中でもシナリオでは行き着くとこまで行っちゃって二度と超えられない壁になっている」とコメントしている。

テーマとして頻繁に取り上げられるのは「死」と「家族(及び家族に準じる集団)」とである。「死」は感動を呼びこむための要素として麻枝作品で度々使われる題材である。しかし「死」というテーマの陳腐化が否めないことに麻枝本人も悩んでおり、『Angel Beats!』では死後の世界を舞台と設定することで登場人物が全員物語開始時点で既に死亡してしまっているなどの設定が考案された。「家族」に関しては『AIR』までは母娘関係を取り上げていたが、近年は多人数間の友情を描く方向へとシフトしている(母娘関係を優先していたのは、出せるキャラクター数が限定されていたためである[31])。一方で、恋愛ゲーム、アダルトゲームのシナリオライターでありながら、恋愛描写、性的描写には殆ど重点を置かない。家族になる前の段階には興味がないとも述べている[31]

またシナリオライターとして久弥直樹の事を大変尊敬しており、『Kanon』や『Angel Beats!』などの雑誌やテレビのインタビューでも度々「自分にとって神・天才的存在」と発言しており、久弥がKeyを引退してから数年の間は「自分は一生Keyのファンには認められない。彼を超える事は一生できない」とプレッシャーを抱えながら努力と勉強の毎日だったらしい。

『CLANNAD』を発表してからはファンからの感想などにより自信が付き、ようやく自分も仲間に入れてもらえたように感じたと語っている[7]

麻枝に影響を与えた人物の一人に村上春樹がいる。高校生の頃に読んだ村上春樹作品、特に『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』からは人生観が変わるほどの衝撃を受けた。[32]その影響から「別の世界にいるもうひとりの自分」を想定し、それを作品に昇華させるようになったと語っている。[33]。麻枝の作品でしばしば主人公がいる所とは別の幻想的な世界があるのは〔世界の終り〕のイメージによる影響である[34]。また「えいえんのせかい[注 4]はかつて自身のウェブサイト名にタイトルを借りるほどこよなく愛するBTの「Flaming June」から生まれたと述べている[31]。BTの『These Hopeful Machines』日本盤ブックレットにて『AIR』や『CLANNAD』に関しても同じでBTの音楽が「懐かしいのに知らない世界」という心象風景をもたらしてくれたと語っている。

そして麻枝本人が度々言及しているように、『ONE 〜輝く季節へ〜』『Kanon』で同僚のライターであった久弥直樹の影響も大きい。両作品発表当時は久弥は麻枝よりも評価が高かったため、麻枝は久弥のシナリオを徹底的に研究して自分の作風へと取り入れた。キャラクターに好物を設定して個性を演出するのはその一例である[35]キャラクターデザインに関して好きではないキャラは動かせないので、縦ロールオールバック眼鏡のキャラは書かない、Key作品に基本的に眼鏡のヒロインがいないのは自分の好みが原因と語っている[36]

具体的な作風としては、テキストの特異性が挙げられる。学生時代に文章よりも音楽を志向していたためか、テキストのニュアンスは小説やシナリオよりも作詞に近い。麻枝本人は文章が短いほどいいとしている他、ビジュアルノベルスタイルだと文章の下手さが目立つとしている[31]。また、全く関係の無い2つの事項を組み合わせてギャップを作り、感動や笑いを演出する手法を得意としている。シナリオ全体におけるシリアスとギャグのギャップも激しい麻枝の手法は業界でも独特のものであり、強固なオリジナリティを持つ反面、模倣が難しい。そのため、麻枝作品の二次創作はいまひとつ盛り上がらない傾向がある。ただし、07th Expansionのシナリオライターである竜騎士07のように、麻枝の手法を自分の作風に取り入れた者もいる[37]

『Angel Beats!』では初のアニメの脚本を手がけたが、アニメはあまり見ない方だと本人は語っており、アニメの声優にもあまり詳しくないとのこと。声優を選ぶ際にも、花澤香菜が売れっ子声優であることや、牧野由依が歌手としても実績があるということを知らなかったという。その一方で、櫻井浩美を気に入っている様子が自身の口からも多々語られている[38]

好きなアニメに、『Angel Beats!』の制作を担当したP.A. Worksの社長である堀川憲司が制作デスクとして関わった『無責任艦長タイラー』や、庵野秀明の『新世紀エヴァンゲリオン』を挙げており、特に『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』をブログで絶賛している[39]

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