ダイソーの100円ゲームをパソコンに入れてやっているが、それの勝率が途方もないものになっている。まあ、たまに最下位にもなるが、だいたい、4回に3回はトップである。たぶん、合理的な打ち方をしていれば、自然と勝率は良くなるのだろう。だが、パソコンの麻雀ゲームに熟達してどうするwww
同じく囲碁ゲームもあるが、こちらは頭を使いすぎるので、頭脳の疲労感が残るためあまりやらない。麻雀ゲームは、ほとんど考えないで、ツモの流れに従って打てば、勝率は良くなる。もちろん、流れ次第で、少しでも高い役を目指すというのも、その「自動的打ち方」の一部だ。頭はほとんど使っていないが、「自分がスキルを使って勝利する」という「報酬」を得る喜びがあるのはRPGなどと同様だ。
2016年05月25日 12:08
「お金のかからない趣味ってどんなものがある?」みんなのオススメいろいろ
お金をかけなくても楽しめる趣味や遊びは、探してみると意外にあるものです。
海外掲示板で、
「お金がかからない趣味にはどんなものがありますか」と質問の投稿がありました。
回答コメントをご紹介します。
What is a hobby you can get into for almost no money?
●原始的なテクノロジー
Building a tiled roof hut - YouTube
(自作の小屋作り)
●石集め。1つしか持っていないが、始めたところなんだ。
●学ぶこと。
●走ること。
●書くこと。限界があるのは想像力だけ。そして必要なものは安い紙とペンだけだ。
●エクササイズとか瞑想。
●人間観察。
↑何年か前、高校生のときによくやっていた。でもやめたのは起訴される可能性もあるからだ。
●図書館へ行けば読書も無料だよ。
●天文学。毎月の星のチャートをダウンロードして、外に行くだけ。
●ボディ・ウェイト・フィットネス。
↑スポーツ全般だね。
●ギターを弾くこと。友人はアコースティックギターをチャリティショップから5ドルで買って、オンラインで学んだよ。
●プログラミング。パソコンは持ってるかい? それだけでいける。
●折り紙。
●ディスク・ゴルフ。
Disc Golf highlights: THIS IS DISC GOLF - YouTube
●利き手じゃないほうの手で書けるようにすること。長いこと練習したよ。
●スケートボードやロングボード。ボードが高いこともあるが、うまく探せば割と安くてまともなのも見つかる。自分のは35ドル(約4000円)だったがとても良い。
●みんなのコメントをいろいろ読んで、問題はお金ではなく、自分は本当に何もしたくないんだと言うことに気づいた。
●ハイキング。
●絵を描くこと。ペンと紙だけ。始めるネットの情報はいくらでもある。
●今の趣味は仕事に応募すること。無料で精神力だけがいる。憂鬱になると言うボーナスはついてくる。
●チェス。
●料理。お金は使うが、どの道食べるために必要なことだから。
●トランプは100円未満から買えるが、トランプでできることは多い。
●言語を学ぶこと。
●PCゲームで無料の物は多い。
いろいろあるものですね。
今どきは、料理や楽器など、あらゆるハウツーがインターネットで簡単に調べられるので、安上がりな趣味を始めやすいかと思います。
たしか吾妻ひでおの漫画だったと思うのだが、
「うらぶれこの身に吹く風悲し」
というセリフがあったのをいまだに覚えているのだが、今日たまたま久世光彦の「遊びをせんとや生れけむ」というエッセイ集を読んでいると、これが出てきた。
川内康範作詞、小林旭の「落日」の冒頭らしい。
最初にこのセリフを読んでから、いったい何年がたっただろう。世の中には思いがけない再会というものもある。
(追記)
同じ本に、北原白秋の詩があって、それが
にくいあん畜生は紺屋のおろく、猫を擁えて夕日の浜を
知らぬ顔して、しゃなしゃなと。
というものだが、もしかして裕次郎の映画「憎いあん畜生」はここから取った題名だろうか。
昔の映画屋は教養があったものだ。
主犯はすべて宗像真知で
第一の犯行(宗像家放火事件、宗像庄太郎殺害事件)での共犯(実行犯)は真知の兄の山内陽平か、真知の息子の正明。
第二の犯行(大野夕雨子殺害事件)での共犯は正明か陽平。おそらく正明が沖から浜に泳ぎ戻って撲殺。死体を「二度殺した」石はあまり意味はないが、崖の上で絵を描いていた退職警察官が遊び半分で投げ落とした後、下に死体があることに気がついて、その後ごまかしたものでも、あるいは陽平あたりが投げ落としたものでも、どちらでもいい。
第三の犯行(山内陽平殺害事件、オランジェ夕陽丘事件)の共犯(実行犯)は正明。
犯罪動機は、
第一の犯行では夫の財産と保険金(家の保険と生命保険)、あるいはここまで書かれていないが、庄太郎の性格からして、夫への積年の憎悪もあるかもしれない。
第二の犯行では、大野夕雨子が第一の犯罪について(陽平などから)聞いて知ってしまったこと、もしくは、(ここまで書かれていないが)夫庄太郎と夕雨子が不倫関係にあったことへの復讐。
第三の犯行では、姪の朱美が、この家にまつわる犯罪について火村英生に調査を依頼したことで、事件解明を恐れ、「共犯者」の陽平を始末した。
推測の根拠は、
1)第一の犯罪で最初に疑われるべき、「受益者」真知への言及がまったくない。
2)放火事件で、陽平が実行犯ではないか、と朱美が潜在的に疑っているという記述がある。また、事件現場から逃走する高校生(おそらく正明)の姿が目撃されたという記述がある。陽平、正明のどちらかが実行犯であることを暗示している。また、第三の事件で犯人に仕立てるための脅迫材料となった、六人部を写した写真は現在はカメラマンの正明が撮ったと推定できる。(夜の写真を、フラッシュ無しで、顔が分かるように映す技術は素人離れしている。これは、正明が「人物写真」専門であること、コンビニの光の中の人物を写した写真の描写などで暗示されている、と見える。)
3)第二の事件で、真知はビデオに写されまいと抗っている。これは犯罪をこれから行う顔を写されたくない、という心理かと思える。同様に、正明が写される側から撮る側に回っている。
4)一番奇妙なのは、第三の事件(小説内では最初に出てくる)で、犯行の行われたマンション内に住む、「被害者の唯一の関係者」である正明の犯行を疑う記述がほぼゼロであること。これは警察の捜査として、ありえないのではないか。「利害関係者を疑え」は捜査の鉄則だろう。同様に、第一の犯罪(宗像家放火事件)で、最大の受益者である真知が、嫌疑の対象から最初からはずれているようにしか見えない記述もおかしい。
第二の犯罪(大野夕雨子殺害事件)で、死体の第一発見者が誰か、どういうように発見されたか、という一番大事なことが書かれていない。その他、すべての事件で事件関係者のアリバイがまったく薄弱で、誰でも犯行は可能であるようにしか読めない。とすれば、動機から犯人を推定するしかないわけで、以上のような解答となる。
A川Aリスの作品は(長編だけの特色かもしれないが)ムダな描写があまりに多く、必要な記述がたくさん欠けているという欠点があり、「フェア」な推理小説とは思わないが、逆に、そういう欠点があるからこそ、「読者からのチャレンジ」がやりやすいとも言える。つまり、雑情報をすべてふるい落とし、推理に必要な情報だけを絞ることで、犯行事実が推理できる、そういう「思考の遊び」に最適かもしれない。
(追記)さて、最終章を読んでみた、その結果は……大外れ!orz……
だが、外れて満足でもある。それほど、この「解決篇」はひどい。これほど説得力の無い、不合理な解決は初めて読んだ。動機がひどい。私が上に書いたものならまだ合理性はあると思うが、これを読んで納得した人はいるのだろうか。これでは「太陽がまぶしかったから人を殺した」というのと大差ない。「文学」では許せても、推理小説で、これは無いだろう。
こういう動機ならば、犯人の立場から前半を書き、倒叙法にしたほうがよかっただろう。犯人の心理を克明に書かないと意味がない。
なお、「軽トラック」はそれほど大きいものではない。普通乗用車と車高はそれほど変わらない。2トントラック、あるいは4トントラックでないと、5メートルの崖下まで影の長さに影響を及ぼす高さではない。さらに、崖ぎりぎりに車を止めないと、崖の影に幾分かを加えるような影響は無い。そういう位置に車を止める馬鹿はいない。「不能犯」というアイデアを何とかして使いたいがための、「トリックのためのトリック」である。こうした欠陥にアドバイスできる程度の編集者もいないのだろうか。
どういうものが「要らない」とされ、「捨てられる」か、あるいはどういう人が捨てるのか、どういう場所で「実際は有益なもの」が「不要」とされて捨てられているか、などと考えを「ずらして」見ていけばいいだろう。
と前回書いた、その続きを考えてみる。まあ、何であれ、とっかかりが無いと、物事を始めるのは難しいわけだ。
何が「要らないもの」となるか。
1)使えないもの
2)趣味に合わなくなったもの、好かれなくなったもの、古くなったもの
の2点に大きく分かれそうだ。つまり、「使えるが要らない」か、「使えないから要らない」のどちらかで、後者は本物のゴミである。回収業者は、ゴミを集めているわけではなく、「使えるが要らないもの、不要品」を回収し、それを再利用することで商売にする。
書籍などは「文化の塊」のようなもので、その中身である「情報」にはもの凄い価値があるものもあるがたいていの場合は古い書籍は不要品となり、ゴミとされる。情報などはパソコンやスマホでネットを通じて入手すればいいから、無駄に空間を占領する「物」は不要、という時代だ。
回収業者も古本などは古書店に売るか、再生紙の原料にするだろう。
どうも、この「不要品」をテーマで考えると、いいアイデアが出ない。
儲けにつなげるには逆方向から考えたほうがよさそうだ。つまり、「何を世間は必要と思うのか」である。
その対象には、食品や医薬品のように「生存のために切実に必要なもの」と、衣料品や化粧品などのように「生命維持には関係はない(切実さはあまりない)が、社会生活に参加する上では是非必要」というもの、趣味や娯楽関係のように「余裕があれば欲しいし、生活を健全に楽しむためにはあることが望ましい」ものなどがある。
ここで、価格というものについて 簡単に言ってしまえば、「生存に直結する物質の価格は安く抑えられている」「生存に直結しない、物質的精神的装飾は価格が青天井である」と言えるのではないか。そして、後者の価格つり上げには、社会的洗脳が必須であるわけだ。誰もが、そのべらぼうな価格を不審に思いながら、それがそういう価格で取引されているという事実が、その価格の正当性を裏付けている、つまり、高価格のものは実際に価値があるのだと自分自身を説得させてしまうのである。
これは人間の脳の「物語作成システム」である、勝手につじつまあわせを脳が作るのである。そうでないとつじつまの合わないことばかりで、先に進めないから、無意識のうちに自分で「合理化された物語」を作る、ということだ。
価格と価値の相違を簡単な例で言おう。朝鮮の民家に転がっていたほとんど無価値な便器を千利休が「これは素晴らしい価値のある茶器だ」とお墨付きを与えれば、その便器は一つの領国に等しい価格となる。これが「価格」というものである。ネットに転がっている素材を名のあるデザイナーが少し加工したら何千万の価格で売れる、という例を我々は最近見ている。つまり、価値のつり上げは社会的地位と関連するわけである。だから詐欺師は例外なくいい身なりをする。社会的地位の高さを偽装するのである。詐欺師は仲間を増やすことで価格のつり上げや利益の独占や保全もできる。これが「上級国民」である。で、価格にだまされているのが下級国民である。