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男の名は冬木刑士郎。仕事は二年前までは警察官だったが、ある事件で免職になった後、しばらくして東城の下で働くようになった。
東城の命じる仕事は、簡単に言えば殺し屋である。だいたいは企業の依頼を受けて、企業に不利な活動をしている人間(中には組合活動をしている人間などもいる。産業スパイもいる。単なる企業内部の権力闘争もある。基本的にその理非は問わない。)を殺す仕事である。野党政治家を殺したこともある。行政府の役人を殺したこともある。すべて、時の政権中枢部に不利益な活動をした、あるいはすることが判明した人間だ。彼が殺した人間の中には小島のような、ヤクザの舎弟である総会屋などもいる。こういうのが、殺しても一番後腐れが無い。警察もマスコミも本気では調べないからだ。
これまで冬木が殺した人間は5人。貰った金は2000万円くらいだろう。野党政治家を殺した時が一番高く、1000万円の報酬があり、その時は1年間ハワイに逃げてほとぼりをさました。
その時の金は内閣調査費という、「領収書不要」の金から出た。これは年間数億の予算がある。
誰を殺そうが、冬木の心が痛むことはない。無邪気な子供でも殺すなら別だが、汚れきった大人の寿命を数年か数十年縮めることに彼は何の痛痒も感じなかった。

刑士郎の脳裏に妻の面影が浮かんだ。「汚れきった大人」という言葉に心が反応したのだ。汚れたのは誰なのか。
刑士郎はテーブルの上のワイルドターキーをグラスに注ぎ、それを一息で飲んだ。焼けるように熱い液体が喉を通って胃の中に落ちていく。

刑士郎の妻は二年前、刑士郎の留守中に、自宅アパートで、ある男に犯された。
相手は、刑士郎が以前に検挙したチンピラだった。刑士郎はその若者のマンションに乗り込み、両腕をへし折った後、恐怖で縮こまっているその陰茎を台所の包丁で切り落とした。
その事件のために刑士郎は警察を免職になったのである。
妻とは、妻の方からの申し出で、半年後に離婚した。まだ二十代の若いきれいな妻だった。今はアメリカに行き、そこで暮らしているという話を、妻の実家の者から刑士郎は後で聞いた。

刑士郎が今の仕事をしているのは、妻の事件が理由というわけではない。その事件の前から彼の犯罪者への憎悪は異常なものだった。だが、二年の間に、彼の憎悪は犯罪者から人間全体へと対象が広がったのかもしれない。それは、自分がしていることを正当化する心的機制だったのだろう。
もちろん、今でも彼が一番憎んでいるのは犯罪者である。当の彼自身が犯罪者であることを考えれば、これは少々滑稽ではあったが、警察官であった時代の名残で、彼はヤクザや犯罪者を心の底から憎悪していたのである。それは妻の事件で永遠に心に刻印されたのだ。
(連中は人間じゃない。連中を人間扱いすること自体が間違いなんだ。)
警察官であったころ、様々な事件に出遭うたびに彼の胸の中にはそういう思いが高まっていった。特に、犯罪被害者やその家族の再起不能の状態を後目(しりめ)に、加害者が証拠不十分で釈放されたり、あるいは刑期を終えて世の中に復帰し、大手を振って歩いている姿を目にする度に、彼の憎悪と怒りは高まっていった。そして妻へのレイプ事件で彼の怒りは爆発したのであった。

妻を犯したチンピラの陰茎を切断した時の快感を刑士郎は思い出していた。チンピラの恐怖にゆがんだ顔。哀願する声。左手で握った情けないほど縮んだ陰茎を右手の包丁で切った時の感覚を彼は一生忘れないだろう。その汚らしい一物を彼が足で踏みつぶした時の、相手のあの絶望した顔。これこそ復讐の快感であった。彼は、妻のためにではなく、その快感のためにこの行為をやったのかもしれない。心の奥底を見れば、その時の彼の心には妻を思う気持ちは無かったのだから。
その後の裁判の間も、刑士郎は一瞬も自分のやった行為を後悔しなかった。むしろ、それをやらなければ、どんなに後悔しただろう。
バーボンの酔いが次第に回ってきて、刑士郎はやがてベッドに倒れ込み、そのまま眠りの中に落ちて行った。





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何か書きたい気持ちはあるが、アイデアを掘り下げる気力が無いので、昔書いた作品を「清書」しておく。書いたのは1998年なので、(ノートによると1月3日の1日で書いたもので、推敲も何もしていない。)18年も前の作品である。中学生か高校生の書いたような下手なハードボイルド小説だが、ゴミにするのもつまらないから、ここに上げておく。
題名の「町の名は」は、ダシール・ハメットの「町の名はコークスクリュー」から取ったもので、内容も同作品から、というより、同作品を下敷きにした黒澤明の映画『用心棒』をモデルにしている。ハメットの作品は読む機会が無かったが、題名の「町の名はコークスクリュー」というのはいい題名だなあ、とかねがね思っていたのである。
手元に何の資料も無しで書いたので、警察組織や武器などについての記述はひどくいい加減である。それ以外にも妙な記述はたくさんあるだろうが、下手なりに面白いところが少しでもあればそれでいいと思っている。


「町の名は」



(1)

男はラッキー・ストライクを箱から1本取り出し、口にくわえて火をつけた。一息深く吸い込んで煙を吐き出した後、煙草をくわえたままソファに身を沈める。いつも通りの安ホテル、いつも通りの煙草の味だ。
部屋のベッドサイドの小テーブルに置いたポータブルの薄いCDプレイヤーから、コルトレーンの「say it」が流れている。旅のお友としていつも持ち歩いているプレイヤーと、数枚のCDの一つだ。
窓の外にはけばけばしい赤いネオンがまたたくのが見える。
男は目を閉じて物思いに耽った。年の頃は四十前後の中年男である。疲れた表情だが、日に焼けた顔の作りは青銅を彫ったように端正だ。髪は長めで、黒々としている。ソファから投げ出した足は長い。筋肉質の体で、身長は180くらいだろう。

「小島の件で一心会がどう動くかは、こちらでも調査中だ。あんたの事だから足は着いていないと思うが、しばらくここを離れて身を隠しておくのがいいな」
警察庁長官東城一矢は、まだ四十代前半でありながら警察庁のトップに上りつめた切れ者らしい鋭い顔を男に向けながら言った。
「残念ながら、小島に渡った金は回収不能だ。しかし、これ以上せびり取られないだけでもマシだろう。まったく、日本の大企業という奴は、どこもかしこも脛に傷を持っているから、あんな総会屋ごときにつけ入れられるんだ。問題はあいつのバックの一心会だな。小島の金の大部分は一心会に上納されていたという話だから、小島を殺(や)られた一心会は必死で下手人を探しているはずだ」
東城はデスクの引き出しを開け、紙包みを取り出して、それをデスクの上に置いた。
「200万ある。これで特に不満は無いと思うが……」
男は、不満は無い、というように軽く肩をすくめた。
「リスクを負うのはそっちも同じでしょう。むしろそっちは社会的な地位も高いだけに、やっていることがバレた時に失うものも多い。私は、せいぜい自分の命だけだ。幸い、家族もいないのでね。その自分の命もたいして惜しくもない」
「君のような人間があと二、三人いるとこっちも助かるんだがな」
「世直し団ですか。時代劇か漫画の見過ぎですよ。私は自分で使うカネが欲しいだけだ。正義感のために人殺しをする奴はいない」
「動機はどうでもいい。私は、自分がしたいことをするのに手足になってくれる人間が欲しいんだ。私の本当に知りたいことを教えてくれる人間、私に代わって人を殺してくれる人間がね」
「確かに警察庁のトップ自ら人を殺したんではまずいでしょうな。私はカネを貰い、あんたは自分の欲求不満を解消する、というわけだ」
「欲求不満か。確かにその通りだ。私は今の立場にいるかぎり、本当の欲求を満たそうとすれば、手足を縛られているようなものだ。正義の執行者が悪を為すことは表向きには不可能だからな。しかも、その『悪』が自分が本当に望む正義なのだから。信じて貰えるかどうか分からんが、私がこの世界に入ったのは『悪い奴』をやっつけたいという、それだけだったんだよ」
「少年の夢ですな。ところが、いざ警察のトップになってみると、悪い奴に対して何一つ手出しができない。それでこういう行動に出たわけだ。でも、いずれバレますよ。これでも日本は一応法治国家らしいですからね」
「そうならないように気をつけるよ。もし助けが必要な時は、この番号に電話してくれ。私の私設オフィスだ。オフィス名と番号は覚えて、この名刺は処分してくれ。秘書が電話に出るはずだから、名前と連絡先を言っておいてくれればいい。そうすれば、後でこちらから連絡する」

男は3本目の煙草に火をつけ、曲の終わったCDを再びプレイにした。東城との会談が昨日で、そのまま夜行列車に乗って、今朝この町に着いたのだった。
町の名前は北**市。東北地方の大都市の一つだ。冬の初めの肌寒い気候の中を一日歩き回り、町の様子を見た後、このホテルに投宿した。特に警戒を要するような気配も無かったので、近くのレストランで夕飯を食った後、ホテルに戻ってきたのである。




鮎川哲也編「あやつり裁判」感想。
全体のレベルは高い。読後感もいい。推理小説というよりは怪奇小説や冒険小説と言うべきものも中にはあるが、読んだだけの甲斐はある作品がほとんどだ。
順位をつけて短評をしておく。

1位:古風な洋服(瀬下耽):謎の解明や小説の構成が見事で、文学的香気がある。小さな人間悲劇。モーパッサン風。読後に心に残るものがある、という点で一番。推理小説に限定せず、日本の短編小説ベスト100くらいには入れてもいいように思う。
2位:翡翠湖の悲劇(赤沼三郎):恐怖美がある。殺人トリックも説得力がある。「動物を使った殺人」トリックとしては世界短編推理小説のナンバーワンではないか。大正昭和初期風のエロが話にからんでくるのが気に障る人もいるかもしれない。映像化するなら、これが一番だろう。
3位:海底の墓場(埴輪史郎):推理小説というよりは冒険小説だが、読後感は一番爽やか。
4位:あやつり裁判(大阪圭吉):実に筆の立つ作家だと思う。作品も多いようだから、まとめて読んでみたい。推理小説というよりは、「文学的短編小説」がつい面白い方向へ行ってしまったという雰囲気。中島敦の庶民版と言えば褒め過ぎか。ペンネームで損をしている。大阪というだけで下卑た匂いがして嫌いだ、という人間は関東人以外でも多いだろうから。
5位:霧の夜道(葛山二郎):トリックは一番つまらないし、そもそも、話の筋自体が朦朧としているのだが、これも筆が立つ人で、「罪と罰」のポルフィーリーの長口舌を読むような面白さがある。作者自身、それを意識して書いているようだが、これだけ雰囲気を出せるだけでたいしたものだ。



それ以外の作品も、部分的には面白いし、読んで損をした、という作品は無いが、上記の作品には劣るように思う。もちろん、私の好みだけでの話だ。吉野賛十の「鼻」などは、盲人の生理や感覚が見事に描かれていて面白い。だが、トリックの解明が、何となくがっかりさせられる。上記5位の「霧の夜道」よりは、こちらを5位に入れてもいい。
エラリー・クイーン「チャイナ蜜柑の秘密」感想。
作中の「謎」の解答は、これまで読んだ中では一番合理的かもしれないが、西洋の衣服、特に神父などの衣服についての知識が無いので、なんとも言えない。ネクタイが無いくらいでこれほど大騒ぎでわざわざ隠蔽工作をする必要があったのか。そもそも、人が大勢出入りする事務室の待合室で殺人を犯すという神経が理解できない。
自分のいる場所を密室にすることで、自分には殺人ができなかったというアリバイにするというアイデアは、通常の密室殺人をひねった面白いアイデアだが、そのアイデアをもっとうまく生かせなかったのだろうか。
その「密室」の作り方は「名探偵コナン」風というか、横溝正史風というか、例の「針と糸」式の奴で、馬鹿馬鹿しく見える。こういう「ドアの鍵」を使った「針と糸」式のトリックは、ドアの下と上にはわずかな隙間があって、そこから紐くらいは通る、というのが前提のようだが、左右の隙間と上下の隙間とはそれほどの違いがあるのだろうか。あまりピンとこない話だ。この「チャイナ蜜柑の謎」の場合は、トリックの作り方が大げさすぎて阿呆くさい。死体の衣服を裏返したり、死体の重さを使ったトリックを作ったり、部屋じゅうのあれこれをひっくり返したりしているうちに別の来客があったらどうするのだ。(それに、槍を二本服の背中に通しただけで「殺したて」の死体が直立するだろうか。死体を直立させるに足る死後硬直が起こるほどの時間はこの場合無かったと思われるのだが。)
あまりに、この犯罪は、そういう無謀さの点で不合理だろう。まあ、好意的に解釈すれば、犯人が被害者を殺す機会はこの時しかなかった、ということで大胆な犯行に及んだ、と言えないこともない。
なお、犯行機会は、真犯人以外にも誰にでもあったのだから、「密室を作ったのは、密室を作ることでアリバイを作った人間しかいない」という探偵クイーンの追及で気弱にも犯人が白状しなければ、犯人は罪に服す必要は無かったのである。要するに、この「密室」は「犯人を保護する密室」ではあるが、「殺人可能性」という点では、密室でも何でもなく、誰でも出入りでき、そこに通じる外部への非常階段すらあったのだから。
要するに、この「かんぬきのかかったドア」は誰に利益を与えたか、という一点で、この犯人はすぐに分かるわけである。だから、探偵クイーン自身、この犯罪は簡単明瞭だ、と言ったのだろうし、それは正しい。作者クイーンがこの作品がお気に入りである理由も、そういう「答そのものの単純さ」が、数学の公理の単純さを思わせるからではないか。逆に言うと、クイーン式の煩雑なミスディレクションを削ぎ落としたら、何も無くなるような作品だとも言える。
なお、例によって小説のタイトルの「チャイナ蜜柑」は犯罪にはまったく無関係であり、それを推理の手がかりとしようとした読者は腹を立てることになる。
今回は、クイーンのアンフェアなやり口も分かってきたので、「読者からの挑戦」の前に考えようとすらしなかった。そして、案の定、であった。

長谷川法世「走らんか!」の感想。
ある意味、完璧に作られた小説世界だが、その存在意義が分からない。
つまり、ここまでリアルな「もう一つの現実」を作り、それが「ある種の小説読者には嫌悪感をもたらす小市民たちの世界」であるなら、そういう小説世界を作ることの意味は何か、ということだ。何より、博多の男や博多の女に対する作者の没入感(肯定的姿勢)が不快感を与える。ところが、そういう不快感を与えかねないことも作者は承知しており、その世界(博多意識)への批判もちゃんと描いているところに、「先回りして批判を封じられた」感じが読み手に残るのである。
実に実に嫌な気分なのである。これを読んで、博多という世界が大嫌いになったのだが、なぜ嫌いになるのか、分からない人には分からないだろう。たとえて言えば「ふんどしをつけた男の尻」を目の前に突き付けられたような不快感だ。実際、褌男の描写も作中にあるのだが。
しかし、小説としては完璧なのではないだろうか。作者の本業であった漫画よりも上手い。リアリズム文学として、完璧である。ただ、「現実と等身大の人間たち」が角突き合わせる小悲喜劇を読むことに、私は小説を読む価値を見いだせないのである。まあ、花登匡の作品が私は昔から嫌いだったが、多分私は小説の中に実人生の匂いを感じること自体が嫌なのだろう。小説自体が卑小化されたような嫌な気分になる。
19世紀から20世紀初頭にかけてのイギリス文学には、そういう卑小さがまったく無い。ある意味、「小説の面白さ」をひたすら追求したからこそ、そういう卑小さを振り捨てたのではないかと思う。要するに、「生活などは召使いに任せておけ」ということだ。これは、「生活よりももっと高尚なものが世界にはある」ということでもある。それが「生活など」という、生活を低く見る姿勢である。恋愛ですら、「ただの生活」でしかないこともある。ベートーベンの「第七交響曲」が世界に出現するためだったら世界の他のすべてが失われても良かっただろう、と私はかつて思ったことがあるが、芸術だけが「至高のもの」というわけでもない。
いずれにしても、人間を低い地上に縛り付けるもの、すなわち「生活」が「走らんか!」の通奏低音のように、読んでいる間私を不快にさせたのである。
三島由紀夫が「楢山節考」を読んでいる時に感じていた不快感もまた、「お前はただの人間にすぎない」という悪魔の嘲笑だったのではないだろうか。



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