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産めよ増やせよ大和撫子より(らしい)転載。
アメリカがけっして銃社会をやめない理由のひとつかもしれない。


(以下引用)



開始>
ここ
ヒトの血液 ― 33,500円/約500cc
ヒトの精子 ― 500,000円/標本
ヒトの角膜/眼球 ― 1,500,000円/個
ヒトの腎臓 ― 20,000,000円/個
ヒトの肺 ― 31,200,000円/個
ヒトの肝臓 ― 60,000,000円/個
心臓 ― 99,700,000円/個
終わり>

持続的供給がないと価格はつかない。

価格というのは必ず市場=相場形成装置が必要です

ちなみにこの前亡くなったDRFは6回心臓移植したとかいうネットの噂。
他人からの臓器移植の闇は

アメリカの銃殺人とリンクしていること。だからアメリカへ心臓移植に行くのです

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覚えておくと便利な「思考素」(考えを組み立てる材料や道具)の一つ。
辞書によれば、fallacyは「誤謬」というよりは「誤った考え」のようである。「誤り(誤謬)」と「誤った考え」は少し違うのではないか。どう違うかは言いにくいが。
要するに、fallacy of compositionとは、「部分品がすべて正しいとしても、それを組み立てたら正しいものができるというのは誤った考えだよ」といったようなことだろう。
その「単純合成」の古い思考法を否定したのが「部分品相互の関係性にも目を向けるべきだ」という「構造学派」かと思う。まあ、よく知らないけど。


合成の誤謬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
        

合成の誤謬(ごうせいのごびゅう、: fallacy of composition)とは、ミクロの視点では正しいことでも、それが合成されたマクロ(集計量)の世界では、必ずしも意図しない結果が生じることを指す経済学の用語[1]

 

何かの問題解決にあたり、一人ひとりが正しいとされる行動をとったとしても、全員が同じ行動を実行したことで想定と逆に思わぬ悪い結果を招いてしまう事例などを指す[1]

起床前の朦朧とした思考の中で、次のような思考連鎖があった。

・私は10歳11歳のころの記憶がほとんど無い。それはなぜか。

・その頃の記憶はただ、M・Eという少女への片思いしかない。
              
・しかし、その片思いの具体的な情景の記憶はほとんどない。

・彼女は私にとっては唯一の光源だった。それ以外は闇。
(you are my sunshine , my only sunshine)というわけだが、当時の私にとって彼女は太陽と言うよりは、闇の中の灯か。私は石の下のワラジムシのようにまどろみ、夢の中で朦朧とひとつの光源を見ていたようだ。


実はその前に、朦朧思考の中でひとつの歌を作っていたのだが、それは以前にも作りかかって投げ出していた歌のように思う。その一節が(through the summertime)というもので、歌のイメージとしては、子供が家の戸口で外界を眺め、夏の情景を味わっている、というものだと思う。そこからの連想で、なぜ自分に10歳11歳くらいのころの記憶が無いのか、という思考につながったのだろう。歌の出だしが、たしか「I was an eleven boy」という、英文法的にはどうかと思われるものだったが、とりあえず記録だけしておく。eleven years oldでは曲に合わないのである。

M・E関連の思考から、幾つか思考連鎖があったかもしれないが、覚えているのは次のような思考連鎖。


・(コーヒーの)モカの味と匂いはラッカーを連想させる。

・ラッカーと言えば、「ラッカー行進曲」。

・「ラッカー行進曲」の中に出て来るイギリスの挿絵画家の名前は何だったか。名前の中に「ラッカー」という語が含まれていたが。


で、そのあたりではっきりと目が覚めてしまって、しばらく考えていたが、ラッカー行進曲の一節「クラック・ラック・ラックラー」は「クラック」と言っているのだから、何かを「壊せ」そして「ラック」は「ラッカーせよ」つまり、自分の嫌な記憶を壊し、それに新しい色を塗れ、と言っているのかもしれない、と今思いついた。とすると、この「ラッカー行進曲」が出てきたのは(もちろん大島弓子の)「いちご物語」だったのかもしれない。あの話の中に、主人公が自分の嫌な記憶を消したい、と泣く挿話があった。(まあ、作品が何だったかはここでは関係はないのだが、)「記憶を消す」という点では、一番最初の思考連鎖と潜伏的なつながりはあったのかもしれない。


(追記)なぜ唐突に「モカ」が出てきたかと言うと、実は昼間に、挽いたコーヒーを買ってきたので、その保存をどうするか気にかけていたからだろう。買ったのはモカではなくブレンドだが、私はモカが好きなのでコーヒー豆のことを考えると自動的にモカを連想するわけだ。モカという存在が「夢中思考」に出てきたのは、昼間の経験が夜の夢(潜在意識)に投影されるという、アニメ「銀河鉄道の夜」のモチーフと同じである。


(追記)念のため調べてみると、あれこれ間違っている。まず「ラッカー行進曲」は「いちご物語」ではなく、「ヒー・ヒズ・ヒム」に出てくる歌で、「クラック・ラック・ラックラー」というフレーズは無い。しかし、「いちご」は歌の中に出てくるから、朦朧思考の中で「いちご物語」と私が結びつけたのだろう。






― ラッカー行進曲 ―



今日の苺はラッカのかおり

今日の苺はラッカのかおり

シェラック ラッカラッカ

シェラック ラッカラッカ

アーサーラッカムラッカはぬらぬ

苺にぬらぬ

だけど今日はラッカのかおり

いまやイチゴはすごいかがやき

ひとくちかじればWA…O…O…O…N

WAOOOON

WAOOOON

シェラックラッカラッカ

シェラックラッカラッカ

(くりかえし)

つづきです



「聖十字架教会の謎」に関連して、ケルト十字をシンボルとする秘密結社も登場させるかもしれないので、参考に転載。
ルーン文字の解読なども絡めると興趣が増すかもしれない。

イギリスの地名は、語感に趣があるものが多い。

コーンウォールとかヘブリディーズ諸島とか。


ケルト十字

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
ケルト十字

ケルト十字(ケルトじゅうじ)はラテン十字十字の交差部分を囲む環からなるシンボルである。

ケルト十字の起源はキリスト教以前にまでさかのぼるが、後にケルト系キリスト教の特徴的なシンボルとなった。ケルト美術の主要な一部ともなっている。この意匠はまた、アイルランド十字やアイオナ十字とも呼ばれる。

起源[編集]

アイルランド大ブリテンのケルト地域では、支柱を持たない多くの十字架が立てられ、最初期のものは遅くとも7世紀にさかのぼる。これらのケルト十字の中にはルーン文字の碑文が記されたものがある(ルーン石碑)。いくつかはアイルランド以外にも、コーンウォール(ペランポースの聖ピランの十字などが有名)やウェールズヘブリディーズ諸島などに残っている。他にもカンブリア州スコティッシュ・ボーダーズに十字架があるが、いくつかは似通ったアングロ=サクソン十字である。

十字と円環を組み合わせた表現は広く見られ、キリスト教以前にも存在した。太陽十字と呼ばれるこれらは、青銅器時代のヨーロッパにみることができる。

アイルランドの伝説[編集]

アイルランドでは、聖パトリック異教のアイルランド人を改宗させる際にこのケルト十字を創った、という伝説が広く信じられている。彼はキリスト教のシンボルであるラテン十字と太陽のシンボルである円環を組み合わせたとされる。これは太陽の生命の源としての属性を十字と結びつけることで、十字の重要性を異教の信者に伝えるためである[1]

政治的なシンボル[編集]

政治的なシンボルとして使われるケルト十字の例

ケルト十字や太陽十字に類似したシンボルは白人優越主義ネオファシズムのグループのいくつかが象徴として使っている。それらの多くは単純な線からなる非常にシンプルな意匠であり、伝統的なケルト十字の装飾的な複雑さはもたない。これらは「太陽の車輪; sun wheel」とも呼ばれる。これらのグループがなぜケルト十字をシンボルとして採用したのかは不明だが、このシンプルな意匠に鉤十字と類似する点があったからではないかと考えられている。

現在のフランスイタリアといったヨーロッパ諸国では、ケルト十字はこの政治的な使われ方のほうが強くなり、伝統的な意味で使われることは少なくなっている。フランスでは、このシンボルは OccidentGUD といったグループが採用している。イタリアでは、このシンボルはファシズムや人種差別主義の象徴とみなされるため、競技場内での掲揚が禁止されている。

ケルト十字はまた、ブルターニュ・ナショナリズムといった、少数派としてのケルト人に対しての自治権拡大などの政策を支持する政治運動とも結び付けられる。


これがちゃんと読めてしまう、日本人の脳内補正能力は凄いのではないか。些細な違いをうるさく言わないからこそ、さまざまな「見立て」の遊びも生まれたのだろう。それがまた、脳内変換による誤読をも生むことになる。

今では見ることの無い看板だが、「おこと指南」を「おとこ指南」と読んだ人は多いだろう。これは、そもそも「おこと(御琴)」を平仮名表記すること自体が見慣れないから、より自然な「おとこ」に自然変換したのだと思う。次の瞬間には、「おとこ」を指南するって何だよ、と自分で可笑しくなるのだが。

なお、「単語の最初と最後だけ読んで補正している」というのは、下の文章を読んで知った。確かに、そういう傾向はあるようだ。
ただし、たとえば「けんきゅう」を「けゅきんう」と書かれたのを理解するのは、単語単独での「脳内変換」ではなく、「けゅきんう の けっか」まで読んで補正していると思う。単語の字数が5文字以上になると、変換が困難になるから、その次やさらにその次まで読んで理解しているわけだ。そういう「まとめ読み」は長い間の文章読み取り経験で見に付いたもので、無意識にやっている。



147 :名無しのこじまさん:2017/03/22(水) 17:45:20.20 0.net

こんちには みさなん おんげき ですか? わしたは げんき です。
この ぶんょしう は いりぎす の ケブンッリジ だがいく の
けゅきんう の けっか にんんげ は もじ を にしんき する とき
その さしいょ と さいご の もさじえ あいてっれば
じばんゅん は めくちちゃゃ でも ちんゃと よめる という
けゅきんう に もづいとて わざと もじの じんばゅん を
いかれえて あまりす。どでうす? ちんゃと よゃちめう でしょ?





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