桜田という姓で思いついたが、「桜田一家」というテレビドラマのアイデアがある。
父親は大富豪で黒幕政治家、長男は警察庁長官、二男は暴力団の影の大幹部、三男は検事、四男は弁護士という一家。どんな犯罪をしても、まず大丈夫という一家www
すなわち、「サクラダ(聖別された)ファミリア」である。
その一家の落ちこぼれ五男坊か、妾の息子である主人公が、正義感が強い探偵か刑事で、大きな犯罪を捜査するのに、一家がしぶしぶバックアップする、という話。まあ、筒井康隆の「富豪刑事」みたいなもので、タイトルが少し凝っているだけ。
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唐沢なをきさんがリツイート
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江川宇礼雄と言えばウルトラQの一ノ谷博士が有名でありんすが、新東宝映画『妖蛇荘の魔王』でも桜田博士と言うキチガイ博士を演じています。
#博士の日#江川宇礼雄pic.twitter.com/wCkTgmdKWQ -
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これは私自身がかねてから疑問に思っていたところで、なぜ学生運動家(まあ、全共闘と言うべきだろうか。私は彼らの政治的ジャンル分けがよく理解できないのである。)は民青を明らかな自分たちの敵、と見做して、体制そのものとの戦いよりも民青との戦いに熱中していたのかが私には理解できないのである。同じ学生同士が争って喜ぶのは社会支配層だけだろうに。いわゆる「内ゲバの論理」というのは、高橋何とかという作家にそういう題名の文章があったと記憶するが、どんな理屈をつけてもアホの骨頂としか思えない。事実、そのために日本の「若者による政治運動」と市民運動は死滅したようなものだ。
下の回答については、それを鵜呑みにしていいのか分からないが、一応参考にしておく。
なお、民青を「民コロ」と呼ぶ蔑称があるが、それは中国人を「チャンコロ」と呼ぶ下劣な右翼的習性の尻尾を感じる。つまり、全学連と現在のネトウヨは、案外精神的な類似性があるのではないか、と思いつきを書いておく。
(以下引用)
学生運動で民青派と全共闘が激しく対立していたと聞いたのですがなぜですか。 そ...
2015/2/2719:55:31
ベストアンサーに選ばれた回答
2015/2/2723:37:31
民青は日本共産党の青年組織です。
全共闘は、新左翼と呼ばれた反日共(反代々木)系と非日共の革命運動体に、経済社会に疎外感を覚えた無党派、文化活動家から実存主義、虚無主義、無政府主義まで集めた、組織とはいいがたい集団で、体質が民青とは異なります
中核、革マル、ブンドといった新左翼、構造改革派という別種の社会主義者は、元は共産党にいたのですが宮本主流派に追い出されて、別組織を作ります。選挙に候補を立てる力がなく、自らの党派の存在をこういった運動で明示し拡大に努めます
最初の対立は60年安保闘争、高度成長期に定員が増た大学自治会の支配権争いから、早慶の学費値上げ反対運動、ベトナム反戦運動と沖縄返還闘争・・それぞれ目標は共通ですが、闘争方針が対照的でお互い相手を罵り、大学の内外で衝突します。
一部私大の職組や生協は共産党の生命線でしたから、大学解体すら叫ぶ全共闘は目の敵にされました。
学生運動が頂点に達する1970年は米ソ冷戦のピークで、平和と安保政策に若者の関心は高く、経済成長の影である公害が社会問題化し、闘争タネは尽きないが共産と新左翼系は 戦術面での対立は各所でおきます
共産は市民運動でさえ党派拡大の道具に利用し、成田闘争が典型例のように途中で相手と妥協するが、全共闘・新左翼は権力と徹底抗戦し、常に新聞紙面を賑わす参加者を増やします
おりしも中国の紅衛兵を表にした文革、米国での反戦徴兵拒否、仏の5月革命など若者の反乱が世界を席巻したのです
政治に限らず反体制的なロック音楽や演劇、映画も新しい世界を切り開く芽生えであったのですが、民青は優等生的で冷やかでした
党の方針が「学生党員は運動に力を入れすぎないようにして勉強に励み社会に出ろ」ですから、反体制運動には相入れない存在でした
新左翼内部でも党派抗争が激化し死亡事件を続発する一方でした 拠点大学が次々と落城し、権力側も党派への弾圧を強化し指導者層を疲弊させます、72年頃跳ね上がった連合赤軍ら過激分子が次々とテロ事件を起こし、支持層が離反して終わりになります
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ベストアンサー以外の回答
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govprotoさん
2015/2/2800:24:16
正確なご回答をppiipppq000pifpさんがされていますので、
私は少し付け足しを・・・。
「全共闘運動」が盛り上がっていたのは、1960年代の後半で、
1969年がピークだったと思いますが、有名なエピソードと
しては、民青のゲバ部隊の存在です。
日本共産党の学生組織の民青同盟は、黄色のヘルメットと角材
で武装して、新左翼である各セクトや全共闘と対峙していました。
(全共闘は、セクトの学生とセクトに属さないノンセクトの
一般過激学生の混成部隊の場合が多かったようです)
当時の新左翼のセクトは中核派、社青同解放派の学生組織の
反帝学評、共産主義者同盟の学生組織の社学同(ブント)、
そして、革マル派などです。
「恐怖のあかつき行動隊」と呼ばれる民青のゲバ部隊は
とりわけ有名で、作家の宮崎学は早大の現場責任者でした。
とにかくめちゃくちゃ強かったそうです。
早朝、全共闘の学生の立て籠もる校舎を襲撃していたのです。
バリケードストライキを敢行している全共闘に対して、
「大学の秩序を守るため」と称して、徹底的な暴力で
排除しようとしていたのです。
そのため、セクトや全共闘の学生を拉致して、リンチに
かけることもよくおこなわれていました。
ひざの皿を割られた、水責めに遭った、リンチが終わって、
「捕虜」を返す時、トラックから投げ捨てられたという
当時の学生の人たちの回想録を読んだことがあります。
民青は、全共闘に「暴力学生」というレッテルを貼り、
口では「平和と民主主義を守れ」と言いながら、自らも
徹底したゲバ行動にも出ていたわけです。
「右翼と民の血が恋しい」という当時の校舎の落書きは
有名です。
新左翼諸セクト、全共闘の学生から見れば、民青も右翼と
同等の反革命組織にしか思えなかったのです。
かつて、全共闘運動をしていた、ご年配の団塊の世代の
人たちのリベラル派が、日本共産党に投票しないのは、
その名残です。
(誤解のないように言えば、今の民青はそんなことは
ないと思います。もう時代が違いますからね。)
人類が月に「40年以上行っていない」理由 アポロ計画の功罪
Forbes JAPAN 5/5(金) 14:30配信
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1969年、人類は初めて月面を歩いた。しかし、その3年後のアポロ17号の打ち上げ以来、有人月面着陸は行われていない。一体その理由とは? 質問サイト「Quora」に寄せられた質問に、SF作家のC・スチュアート・ハードウィックが回答した。
なぜ私たちは40年以上、月に行っていないのか? そのわけは、実に莫大な費用がかかるから、そして行かなければならない実用的な理由がないからです。
ある意味、その実用的価値の低さこそが、アポロ計画を偉大たらしめていると言えます。ソビエト連邦との宇宙開発競争が背景にあったことは事実ですが、根本的には、私たちは月に行くことが可能だったから行ったのです。先の戦争で傷を負った者たちは、空を見上げては、上の世代からさんざん「お前には○○できるわけがない」(You can no more do ○○ than fly to the moon./fly to the moonはできないことを意味する慣用句)と言われ続けたことを思い出し、こう考えました。「私にはできる(I can fly to the moon.)。少なくとも私の世代にはできるはずだ」と。
とはいえ、アポロ計画はアメリカにとって自らの首を絞めるプロジェクトでした。ケネディ大統領は、1960年代中に月面着陸を実現させると公約し、驚異的な速さで国力を食い尽くす怪物を発動しました。その結果、基礎研究の途中で開発が始まり、宇宙船のデザインが決定する前にエンジンの選定が行われました。また、故障の場合に備えて複数の異なるテクノロジーを使った冗長システムが採用されました。そして私たちは、再利用可能な複数の宇宙船を別個に打ち上げて軌道上で組み立てる方式ではなく、パーツを積んだ1基の巨大なロケットを打ち上げる方式を選び、史上最も馬鹿でかい使い捨てのロケットを作り上げたのです。
月面に人類初の足跡を残すための事業に、約50万の人力と、世界一豊かな国家の軍事力と産業力が投入されました。その後、月面着陸が成功すると、宇宙原子力推進事務所(SNPO)は、ロスアラモス国立研究所とマーシャルスペース宇宙飛行センターとともに原子力ロケットエンジンNERVAの開発を進め、次は火星の有人探査が可能になると喧伝しました。
「アメリカの理想」を実現した功績
ところが残念なことに、米議会はNERVAプログラムに予算を割く気はありませんでした。議会はNERVAプログラムを中止に追い込み、アポロ計画をキャンセルします。それから数十年にわたって、NASAの計画は小粒なものになっていきました。
もっとも悪いことばかりではありません。月面着陸計画は今もなお、アメリカの産業や研究、教育の現場を活性化し続けています。スペースペンやマジックテープの発明の話ではありません(ちなみに両方ともNASAが使っていることが売りですが、発明したのはNASAではありません)。ボイジャーによる土星の観測、ソジャーナの火星探査、イーロン・マスクの宇宙輸送ビジネスなどの土台を、アポロ計画は築きました。
アポロ計画で導入された当時最先端のミリタリーレベルの技術は、現在の宇宙航空産業では標準技術です。時代遅れなものも少なくありません。私たちは、民間企業が月やその先への有人飛行を計画する時代に生きています。
もしアポロ計画がなかったら、私たちは今よりも進んでいたのか、それとも遅れていたのか。その答えは誰にもわかりません。ただ、私たちアメリカ人が、素晴らしく勇敢で、壮大で、立派な事業に挑み、それを成功させたことは確かです。反知性主義、反政府的レトリックが蔓延する現代から見て、賞賛に値することではないでしょうか。
Quora .
その辺の町工場のオッサンが独力で、原価五千円くらいで作れるんじゃないか?
しかも、足の部分が、この作りでは寝ていても不安感がありそうだ。ホームシアターで映画を楽しむなら、もっとどっしりした足が必要だ。このような、可動性を持った足は、作業用の椅子のものであり、安楽椅子のものではない。
なお、私が座り心地が最高だ、と思うのは自動車のシートである。あれは人間工学的に最高度に工夫されていると思う。どんなちゃちな自動車でも、シートだけはいい。
できることなら、あれを取り外して、家の中で安楽椅子に使いたい、と私は考えている。しかも、そのような「宝」が、廃車置き場には無数に捨てられている。
自動車のシートに次ぐのが、散髪屋の椅子、歯医者の椅子。おっと、廃車の椅子も「ハイシャの椅子」であるwww
竹熊健太郎《地球人》 @kentaro666 12時間前
いつの日かお金持ちになってこの椅子に座ってホームシアターで映画見たいなあ。65万円もするけど。http://storesystem.hermanmiller.co.jp/fs/hmjapan/special_loan/ES67071OU2109 …pic.twitter.com/Ae4oiEil10
しかし、真相は、実にくだらないものだったwww
ニッポン放送で毎週土曜日の朝に放送されているラジオ「八木亜希子LOVE & MELODY」。2017年4月22日は「歌謡探偵アキコ」と題し、ヒット曲にまつわるさまざまな謎を「アキコ探偵」が解き明かす企画が放送されました。
よく知っているあの曲の、意外な誕生秘話や歌詞の由来が満載。その放送で判明した謎の数々を、ピックアップしてご紹介します!
スピッツの「ロビンソン」って一体誰のこと?
1995年発売・スピッツの11枚目のシングル「ロビンソン」。ロビンソンは歌詞には一切出てきませんし、特に意味もありません。実は作曲者の草野マサムネさんがタイを旅行した際、印象に残ったという『ロビンソンデパート』を仮タイトルにしていたところ、そのまま正式名称に採用されたとのことです。
ファンの間ではかつて埼玉や札幌にあった「ロビンソン百貨店」から取ったのでは?と噂されていたようですが、タイの方だったんですね。
チェッカーズの「涙のリクエスト」に出てくる「ミッドナイトDJって誰?」
チェッカーズ最初の大ヒット曲で出世作になった「涙のリクエスト」。60年代のアメリカの雰囲気がするという人が多いようですが、作詞者の売野雅勇さんによるとジョージ・ルーカス監督の映画「アメリカン・グラフィティ」を見ていて、この古いアメリカの雰囲気が使えるかなと思って、歌詞の世界に取り入れたそうです。
では、この曲の冒頭の歌詞「最後のコインに祈りをこめて Midnight D.J」の「ミッドナイトDJ」とは、誰のことか?売野さんによると、日本のディスクジョッキーの草分け的存在だった糸居五郎さんのことなんだそうです。売野さんはリズミカルなグルーブを持つこの人のトークが大好きだったとか。
ちなみに糸居五郎さんはこの「涙のリクエスト」が発売された1984年の暮れに亡くなっています。
ユーミンの名曲「卒業写真」の『柳の道』ってどこ?
ユーミンこと松任谷由実さんが、荒井由実時代に書いた名曲「卒業写真」。2番の歌詞に出てくる「話しかけるように揺れる柳の下を 通った道さえ今はもう電車から見るだけ」の通った道とはどこがモデルになっているのでしょうか?
ユーミンによると、これはデビュー当時通った、東京・田町のアルファレコードのスタジオに向かう途中にある柳の道がモデルなんだそうですよ!
そういえば「卒業写真」に出てくる「貴方」は彼氏のことではなく、ユーミンの恩師だった女性教師のことなんですよね。
井上あずみ「となりのトトロ」の主題歌「さんぽ」のさんぽ道はどこ?
井上あずみさんが歌う「となりのトトロ」の主題歌「さんぽ」に出てくる「坂道~デコボコ砂利道」とはどこのことでしょうか。
この曲の作詞者・童話作家の中川李枝子さん(あの有名な絵本「いやいやえん」や「ぐりとぐら」の作者!)によると、中川さんが子どもの頃6年間住んでいた、福島をイメージして書いたものだそうです。「トトロ」の舞台は埼玉でしたが、曲は福島だったんですね!