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これは成功者への嫉妬とかではなく、合理的に考えて当たり前の話である。べつにナンバーワンよりナンバーツーが優れているという話でもない。ナンバーワンだろうがツーだろうが、成功するのにもっとも必要なのが運であることは明白な話だ。その運とは生まれと環境だ。
たとえば、天才が未開人の間に生まれたとして、世界的な大富豪や大科学者になるか、と考えればいい。その才能など、誰にも知られることもないだろう。
逆に言えば、先進国に生まれた人間はそれだけで幸運なのである。ただし、その国やその社会の中で上位に行くにはまた別の幸運(上級国民の家に生まれるなど)が要る。




最も成功している人は過大評価されがちだが運による要素が大きい。本当に学ぶべき対象は2位や3位(英研究)

2017年09月13日 ι コメント(24) ι 知る ι 料理・健康・暮らし ι #

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 勝者はその実力を過大評価される傾向にあるという。ゆえに彼らを真似するべきではないと専門家は警告している。

 数学モデルによると、実力が同程度であれば勝敗を分けるのは運の要素が非常に大きいそうだ。

 人生の勝者である世界最高の富裕層は、とかくお手本として参考にするべきだと思われがちだ。しかし英ウォーリック・ビジネススクールのチェンウェイ・リュー(Chengwei Lau )氏は、「彼らが優れていることは確かだろうが、最高のスキルを持っているかといえば必ずしもそうとは言えません」と話す。
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勝者になるかどうかは運が大きく左右する


 リュー氏らが2012年に『Proceedings of the National Academy of Sciences』で発表した研究によると、突出したパフォーマンスを示す人物が最も優れたスキルを身につけているという見解は間違いだという。その理由は突出したパフォーマンスはしばしば例外的な状況で生じるものだからだ。

 すなわち最高のパフォーマンスを示した人物は、しばしば最も運に恵まれた人物であるということだ。彼らは富める者がさらに富めるダイナミクスの恩恵を受け、最初の幸運を増進させることができた人たちだ。

 一方、成功者は自分の成功が運によるものだとは認めたがらない。彼らを取り巻く人たちもそうだ。その結果、類まれな成功物語ばかりが注目を集めることになる。成功者は最もスキルに長けた人物であるとみなされ、その行動が模倣される。


本当に注目すべきは2位の人物


 リュー氏はむしろ「2位の人物に注目すべき」と述べる。

 この理論は、スポーツの世界でも当てはまる。昨年の優勝チームに賭ければ、シーズン序盤で負けるだろうことを示唆している。

 勘違いしないでほしいが、スキルや努力に何の意味もないというわけではない。だが運はそれ以上に影響するのだ。

 この場合でいう運は、持って生まれた環境も含まれる。


ビル・ゲイツの成功の影に家庭環境あり


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 例えば、世界最高のお金持ちであるビル・ゲイツは上流階級の生まれで、そのためにプログラムを経験することができた。

 彼の世代でコンピューターを利用できたのはわずか0.01パーセントに満たない。母親はIBMの会長と面識があったため、ゲイツはPCのリーディング企業から契約を得ることができ、それがソフトウェア帝国を築くために決定的に重要であった閉じ込め効果を発生させた。

 「もちろんゲイツには才能と努力があり、それがマイクロソフトの傑出した成功に重要な役割を果たしています。でもそれだけでは不十分です。それなのに人は最も成功した人をお手本にしようとします」(リュー氏)


最も成功している人=最高のスキルではない


 彼の調査によれば、被験者に対しパフォーマンスを評価するうえで明確なフィードバックとインセンティブを与えたにもかからわず、58パーセントが最も成功しているが明らかに最高のスキルとは言いがたい人物を「最高のスキルの持ち主」と評価していたという。

 「そうした想定は失望を招くでしょう。仮にビル・ゲイツの何から何までを真似できたとしても、彼の最初の幸運までは真似できませんから」とリュー氏は説明する。

via:pnas / To be a winner, learn from ‘losers’/ translated by hiroching / edited by parumo

 ナンバーワンになる人は「(運を)もっている」人だ。なのでスキルはナンバー2以下の人の方が高いということもあるということだ。

 その世界でナンバーワンとなった成功者の本はとても良く売れていて、皆がこぞってそのやり方を真似しようとする。だが、そこには運が大きく絡んでいるということを、理解しておいた方がいいかもしれない。








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物語創造のメカニズム

 

1 オブセッション(強迫観念)

 

創造の土台にあるのが、このオブセッションである。創造におけるオブセッションとは、何かが自分にとって切実に感じられるという気分である。実際、それは創作者にとって重要だと本能的に思われ、したがって、それについて考えることやそれに時間を費やすことは意義があると感じられる。このオブセッションが無い創作活動は、ただのルーティンワーク的作業になる。大多数の二流創作家の仕事が尻すぼみになるのも、このオブセッション無しで物を作ろうとするからである。

どのような人間にもあるオブセッションは、性欲と恐怖である。したがって、性と恐怖は物語的芸術の柱である。

性欲の一つの形態が恋愛である。恋愛とは美化された性欲である。しかし、美化するという行為はけっしてつまらないことではない。逆に、美化されない現実はそのままでは芸術的なものにはならない。

エロスとタナトスの欠如した作品は、一般人の本能を引きつける要素がない。笑いの芸術はその両者を欠いたものが多い。したがって、高度な感覚を持った人間でないと笑いの芸術は理解できない。笑いの芸術では性も死も笑いの対象であり、したがって人間存在そのものが高い次元で客観視されている。そのようなメタ意識が笑いを理解するには必要なのである。粗野な、野獣的人間は笑いを理解できない。

 

2 自らの作った虚構に没頭できる能力

 

創造において一流と二流を分ける部分が、この虚構への没頭、言い換えれば「熱」である。天才的創作者は、自らの作った虚構に没頭する。その没頭している時間は彼らに充実感を与える。だから、彼らはたいていワーカホリック的に長時間の仕事を平気でやる。たとえ報酬がなくても彼らは自分の好きな仕事をやるだろう。実際、天才的創作者の得た報酬は、彼らの費やした時間と努力に対して、驚くほど微々たるものである。しかし、実は仕事自体が彼らにとっては第一の報酬であったのだ。

物を作る能力と、それを売って報酬を得る能力は、まったく別である。

 

3 問題とその解決

 

あらゆる創造は、突き詰めると「問題の発見とその解決」である。そのうち、より重要なのは、「問題の発見」である。これはいわば、虚空の中から物体を取り出すような行為であり、神の天地創造に等しい。

適切な問題を発見すれば、後の創作行為はルーティンワークに近い。 

もちろん、「問題のいいかげんな解決」では一流の創造にはならないが、すぐれた問題は、それ自身の中にすぐれた答えを蔵していると思われる。

 

宮崎駿(だけの創造ではないが)の初期の傑作「未来少年コナン」において、ヒロインのラナにテレパシー能力を与えたのは、通常ならば蛇足とされるだろう。しかし、ドラマの最終段階において、ラナのテレパシー能力が無いと、この物語はあれほど見事に完結しなかっただろう。そこまで見越して、つまり最終ステージから逆算してラナにテレパシー能力を与えたのか、それとも直観的にそういう設定でスタートして、それをうまく利用して最終場面に持っていったのか、そのどちらであるかは不明だが、創作者の物語への没頭はしばしば「問題への奇蹟的な解答」を呼びよせるものだと思われる。

 

物語的芸術における「問題」を言い換えれば、「物語の基本設定」である。どのような人物が、どのような状況にいるか、ということだ。その人物や状況の設定は、ありえないようなものでもよい。たとえば、考えるだけで人を殺す能力がある人間でもいい。ある小学校全体が異次元に飛ばされるという状況でもいい。

読者は、そういう基本設定自体は、それをフィクションの特性として容易に受け入れる。だが、その設定からはありえない事柄が生じると、読者はそれを駄作であると判定する。

「デス・ノート」の基本設定は、「ありえない話」である。だが、その進行はすべて合理的である。最初の設定(あるいは途中で追加された、あるいは途中で明らかにされた設定も含め)を裏切るようなご都合主義は無い。読者は、その物語に参加し、その合理的進行と問題の合理的解決に酔いしれるのである。

 

4 物語芸術における創造のセオリー

 

少年漫画における一番単純なストーリー展開は、「勝負と勝利」の連続である。これを「バクマン」では「王道バトル物」と呼んでいる。この方式だと、「強敵の出現」「それをいかにして倒すかという問題の発生」「特訓や援助によって強敵を倒す」の繰り返しで、いくらでも物語を続けることができる。しかも、大多数の読者にとっては、自分が感情移入している主人公の勝利は自分自身の勝利の快感と同一なのである。したがって、「読む者に快感を与える」という最大のサービスが確実に保障されている。だから「王道」なのである。後はそれにお色気と笑いをまぶせば、それでいい。

だが、年少の読者ならそれでいいが、ある程度の批判精神を持った読者には、そういう「営業セオリーで作った作品」は鼻につくものである。

手塚治虫は、そういう「王道バトル物」はおそらく一度も書いていないだろう。

それは、そこには彼のオブセッションが存在しないため、彼に創作させる熱を与える要素が存在しないからである。

「王道バトル物」に近いが、そこに作者のオブセッションが加わって傑作になったものが「あしたのジョー」である。丹下段平というキャラクター、力石徹というキャラクターには、通常の「王道バトル物」には無い、「赤い血」が流れている。それは主人公のジョーにしても、その他の脇役にしてもそうである。つまり、梶原一騎は物語を愛していたし、「営業セオリー」で物語を作ろうなどとは少しも考えていなかったのだ。物語要素の順列と組み合わせで物語を作るなど、彼は考えていなかった。(彼が物語を常に人生論として描いたのは、「巨人の星」の主人公の名前を「飛雄馬」=ヒューマンとしたことからも分かる)彼はジョーという野性的少年がボクシングを通じて人生と格闘する姿を描きたかったのだ。もちろん、「あしたのジョー」は「強敵の出現」とその「対策」「勝利」の連続という、見かけは「王道バトル物」そのものだ。だが、それは力石の死後の話だ。力石徹が死んだ時点で、この話はほとんど終わっていたのである。それが魅力的キャラクターを生み出すことの功罪である。

小説の話だが、「銀河英雄伝説」でヤン・ウェンリーが死んだ後、もう一人の主人公、おそらく真の主人公であるラインハルトの生にはほとんど意味がなくなる。これは力石が死んだ後のジョーに似ている。主人公を上回る魅力のあるライバルは、もはや物語の実質的主人公なのである。ならば、それが死んだら、物語は終わりだろう。

 

王道バトル物の話はここまでとする。

 

5 なぜ物語を書くのか

 

山岸凉子は短編の名手だが、彼女はなぜ物語を語るのだろうか。

あるいは世界一長い小説である「グイン・サーガ」を書いた栗本薫は、なぜ物語を語るのだろうか。

この両者にあるのは、「物語愛」とでもいうべきものである。短編で無数の名作を書いた山岸凉子も、長編小説を延々と書き続けた栗本薫も、物語が好き、という一点で共通している。そしてそれはあの膨大な物語群を生み出した日本最大の天才、手塚治虫も同じである。

彼らはみな、物語が好きなのである。おそらく、他人の作った物語を読むのも見るのも好きだろうが、自分の中にある物語を形にするのがもっと好きだったのだ。

では「自分の中にある物語」とは何か。

それは、広い意味での「人生の可能性」ではないだろうか。

物理的・社会的に縛られた自分の人生とは別に、すべてが可能な世界が物語の中にはある。その世界を作り、その世界の中の登場人物と生きることで、彼らはもう一つの人生を生きているわけだ。他人の作った物語よりも、自分の作った物語のほうが性に合うのは当然だ。

つまり、ヴァーチャルな生こそが彼らの実人生以上の快感を彼らに与えていたのではないか、と推測できる。

リラダンの言葉を借りれば、「生活などは召使にまかせておけ」ということである。これはランボーも同様のことを言っている。「我々の人生とは(行為などではなく)我々が考えたその中身だ」と。

そしてまた、それは優れた物語を読む時の我々の気持ちでもある。

優れた物語を読む時、我々は「高次元の生を生きている」のである。

もちろん、そこには「現実」は無い。実際の肉体も実際の自然もない。

実際の肉体や実際の自然、つまり現実以上の価値あるものはありえない、と考えるのも一つの考え方だろうし、むしろそのほうが一般的な共感を得るだろう。

だが、我々は優れた芸術に触れることで、「より高次元の生」を知るのである。

これは、優れた詩や絵画に触れることで、人格が変わるということでもある。それだけ芸術とは凄いものなのである。たとえば、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読む前と読んだ後では人生や世界の見方に大なり小なり変化が生じるだろう。これは人格が変わったということだ。べつに宗教的になったり道徳的になったりするということではない。「ドストエフスキーの目と頭」の一部があなたに転移して、物の考え方がそれ以降は少し変わってくるということだ。これが芸術の力である。場合によっては全人格の大変容が起こることもある。それが幸福な変化であるとばかりは限らないが。

 

話を物語に戻す。

物語とは高次元の人生である、と定義しよう。現実には不可能な「人生の実験場」、それが物語だ。つまり、物語を読まない人間の人生はリアルな、その人の等身大の人生で終始する。それも必ずしも悪くはない。しかし、我々は自分の人生以外に、頭の中でヴァーチャルな人生を生きることができる。それが物語だ。

この麻薬に取りつかれると、物語の無い人生、フィクションの無い人生に耐えきれなくなることもある。いわゆる「本に読まれる」状態だ。

それもまた困りものだが、限定され、不自由の極みである現実人生よりも楽しい人生を味わえることは、この世における大いなる恵みの一つである。

 

なぜ物語を書くのか。

それは、書き手にとって、それが楽しいからである。たいていの場合、自分の現実人生以上に。

したがって、物語を考えることが楽しくないなら、その人は物語作者としては大成できないだろう。

 

6 キャラクター

 

物語芸術におけるキャラクターとは何か。

それは、第一に作者の分身である。しかし、作者自身ではない。だから、作中人物を殺したり、悲惨な目に遭わせたりすることも作者はやる。

「赤毛のアン」の中には、アンが自分を悲劇のヒロインに見立てる場面がしばしば出てくる。悲劇は、それが本当に自分の身の上にふりかかったら、これほど悲しく苦しいものはないはずだ。しかし、アンが自分を悲劇のヒロインに見立てることで快感を得ているのは確かだ。これはなぜだろうか。

あるいは、お芝居としての悲劇を見る観客は、そこに何かの快感を得ているはずだ。それは何か。

「あなたは他人がひどい目に遭うのを見て面白いのですか?」と彼らに聞いたら、彼らは「自分はそんな残酷な人間ではない」と、憤然とするだろう。しかし、実際には彼らは悲劇を見て楽しんでいるのである。それが可能なのは、それが他人の身の上だからだ。

他人とは言っても、それが現実の人間の身の上なら、見る側も平静ではいられないだろう。しかし、芝居や小説の人物ならば、我々はそれがフィクションであると知っているから、その悲惨な身の上も平気で見ていられる。いや、平気ではない。我々は自分が感情移入をした人物の身の上を平静に見ることはできない。フィクションの中の好きな人物には幸せになってもらいたいし、嫌いな人物が悲惨な目に遭うと快哉を叫ぶ。

映画の初期の時代に、スクリーン上の悪漢にピストルを撃った観客がいたそうだが、その気持ちは誰にでもある。

これが、フィクションは第二の現実である、ということだが、フィクションの中の人物は、我々の愛憎の対象になるのである。その愛憎の感情が、ドラマを見る快感の土台だ。

アンの話に戻ると、アンは悲劇のヒロインがひどい目に遭うからそれを好んでいるわけではない。悲劇のヒロインとは、たいてい美女であり、気立ても良い。自分がそういう人物であったら、と空想するのがアンは好きなのだ。そして、ヒロインの受ける悲劇的運命は、「それを味わわなくてすむことの幸せ」を彼女に感じさせ、それがフィクションであることは彼女に「安全なスリル」を味わう機会を与える。

ある作家が書いていたが、作者が主人公を美男だとも美女だとも書いてないのに、読者は必ず主人公を美男か美女だと思い込むそうである。

それがフィクションのお約束だから、とも言えるが、実は読者の「そうあってほしい」という願望の反映だろう。自分が感情移入した人物と自分を同一化しているのだから、それが美男美女であってほしいのは当然だ。

 

「タッチ」の主人公は、最初、何の取り柄も無い男として周囲から馬鹿にされている。ところが、ヒロインの南は最初から主人公に肩入れしている。これは非常に巧妙なやり方である。ヒロインがさえない主人公に肩入れしているということは、主人公に潜在的能力や魅力があることを示している。勘のいい読者はすぐにそれを読み取って、主人公と自分を同一化する。そうすれば、主人公への周囲の無理解は、読者にとって「俺の真価を知らない周囲の連中の反応」と同一になるのである。これが読者にとって快感であることは言うまでもない。「今でこそ俺はさえない存在だが、いつか俺の才能や魅力をみんな知ることになるぞ」というわけである。まあ、そんな日はまず永遠に来ないのだが、「タッチ」を読んでいる間はそういう妄想に包まれ、快感を感じているわけだ。そもそも、現実人生では南のような子がすぐ近くにいるはずもない。

 

 

7 物語作成の技術

 

物語とは、突き詰めれば「問題と解決」である。さらに加えれば、「問題と解決と報酬」だ。主人公の身の上に起こる様々な問題を主人公が解決することで主人公は報酬を得る。それを読む者は、主人公に感情移入しているために、問題解決の快感と報酬取得の快感を得るわけである。『高慢と偏見』は、結局のところ、主人公の男女がすったもんだしたあげく、結ばれるというだけの話だ。しかし、作者の腕によって、読者はこの話に引きずられて、どんどん先へ先へと読み進め、その間「物語を読む快感」を得続けるのである。

作り手の側から言えば、「物語作成の技術」とは「問題作成の技術」である。

推理小説などは、その問題を数学的論理性の問題に特化し、キャラクターはその説明の道具となったものだ。もちろん、キャラクターで読ませる推理小説も多いが、本質と基本は「奇抜な謎」にある。

 

 

例題1「バレリーナとしては致命的な身体的欠陥を持った少女はバレーの世界でどう生きるか」解答「創作バレーの開拓者としてバレーの世界で成功する」(「テレプシコーラ」)

 

もちろん、「テレプシコーラ」は複雑な作品であり、影の主人公である少女は本物の天才だが、性格破産者の父親を持ち、極貧の家庭で生きている。彼女を支えるのはただバレーへの情熱だけである。昔のドラマなら、こちらが主人公になっていただろう。だが、彼女は顔も醜いのである。さらに、主人公の姉は、すべてに恵まれた才能を持ちながら、学校ではいじめに遭い、しかもステージでの事故でバレリーナとしては再起不能になる。

こうしたさまざまなトラブルに満ちた三人の少女の半生がドラマにならないわけはない。

つまり、ドラマとはトラブル(難問)から生じるのである。

作者というものは、作中人物を平気でトラブルの中に投げ込む冷酷さが必要だと言える。言い換えれば、人生の暗黒を見つめることができる強靭な神経が必要なのである。

 

(未完)

野球漫画のキャラクター案:

日本に来た外人選手で、バリー・ボンズ並みの打力があり、2打席に1本くらいの割でホームランを打つが、働くのが嫌いで、1日に1打席しか立たないし、守備はしない、という選手。遅くまで縛られるのも嫌だというので、試合の序盤(1回の表か裏)しか出ない。夜7時を過ぎたら試合(職場)放棄してバーに飲みにいく。

 

  「碧空」と言いたいような、清澄な青空。エーゲ海の、ある小島である。

  広大な私有ビーチ。全景から、その中心にある建物へ。そして、そのベランダの手すりに手をかけて海岸を眺めている男。水辺で遊ぶ女たち。白いトーガのような物をまとった男は白い物の混ざった髭をふさふさと生やしているが、よく見るとあの「男」である。女たちは、水着姿か、これも「男」と同じく白いトーガをまとっており、まるでギリシア神話の中の人物たちのようだ。このパラダイスで只一人の男である「男」は、さしずめ「ゼウス」である。

  「男」の豪壮な邸宅は、オリンポスの神殿を思わせる。「男」は、その白いベランダから、水辺で遊ぶ女たちを眺め、手にしたワインを一口飲む。

  傍らに侍る女にグラスを渡し、室内に入る「男」。室内の様子もまた、神殿の内部を思わせる簡素さでありながら、そこを飾る彫刻や絵画は、一流の趣味で統一された品々である。室内全体が一つの大広間のようであり、壁は全面が窓で、天井から床まで広々と開いている。

  テーブルの上の大画面のコンピュータの前に座っていた女が、何かを見つけて男を振り返り、目で合図する。歩み寄る男。画面をのぞき込む男。

  コンピュータの画面に英文のメッセージが記されていく。

  「Mへ。    Kより。

お変わりないでしょうか。我々は全員元気です。」

  コンピュータの画面に重なって、薫の顔が浮かぶ。その顔が「男」に語りかける。

薫「と言っても、それは半年前までのことで、その後私たちはほとんどが整形手術で顔を変え、偽造された履歴とともに世界各地に散らばっていきましたので、その後の消息はわかりません。スイス銀行の口座にあなたから振り込まれたそれぞれ50億円の金は、多分一生かかっても使い切れないでしょう。しかし、僕にとっては、この50億の金よりも、あなたやみんなとともに過ごした一年あまりの日々のほうが、はるかに貴重なもののように思われます。僕にとっては、残りの平凡な人生は、まさしく余生です。でも、これは無い物ねだりかもしれません。僕はこの前結婚しました。もうすぐ子供も生まれます。これが、きっとあなたへの最初で最後のメールになるでしょう。あなたがこのメールに気づいてくれることを願っています。では、お元気で。……永遠に、さようなら。」

  コンピュータの画面を離れようとする「男」。しかし、「おやっ」という顔でもう一度画面に顔を戻す。

  コンピュータの画面。「P.S.  Who are you?」

  大笑いする「男」の顔。(ストップ・モーション)

  狂躁的で調子外れのロックにアレンジされたベートーベンの「歓喜の歌」が流れる中、エーゲ海の夕焼けの情景、島々の影、気が狂うほど美しい夕焼けの雲、夕日の反射光の中の海上のヨットなどのカット。そして、最後の光を投げかける太陽の輝きとともに……

  The Endのクレジット。

  (フェイド・イン)官房長官のデスクの上の電話。突然、プルルと呼び出し音がする。

  電話機に飛びつく官房長官。拡声器から声が流れる。

声(切迫した感じで)「もしもし、もしもし。こちら、宮内庁の侍従長の一色です。皇居にヘリで下りた犯人たちによって、皇居は占拠されました。ただ今から、彼らの要求を伝えます。……」

  固唾を飲んで、待ち受ける官房長官、警視総監。それに、総理大臣、与党幹事長もいる。並木は、彼らから一歩下がって控えている。

電話の声「犯人たちの言葉どおりに報告します。いいでしょうか。……一つ、我々は、今夜、ここを出発する。今から二時間以内に、ジェットヘリ用燃料2トンを皇居に運び入れること。燃料に細工したり、警官、自衛隊員などを忍び込ませてはいけない。そんな事をしたら、人質の安全は保障しない。

二つ、我々のヘリコプターが洋上に出るまで、ヘリコプター、ジェット機、セスナ、その他どのような飛行物も、東京上空を飛行させてはならない。民間機、米軍飛行機なども含めてだ。

三つ、我々が洋上に出てからも、我々に対して、攻撃はもちろんのこと、いかなる追尾もしてはならない。不審な行動を取った場合、人質の安全は保障しない。

 なお、我々が目的地まで着くまでの安全保障として、皇太子殿下に御同行願うことにする」

警視総監(顔を真っ赤にして)「馬鹿な! それだけは飲めん!」

声「以上が、我々の要求である。なお、すでにご存じのとおり、東亜会を壊滅させたのは、我々である。以上の要求、および大日本興業銀行からいただいた金は、日本を大掃除した事への、ささやかな謝礼と考えていただきたい。国民も、それで納得するだろう。さらに、皇太子殿下が人質になったのは、警官隊を含め、他の人々にこれ以上の被害を出したくないと、殿下御自身の申し出によるものである。諸君が、この崇高なご配慮を台無しにしないよう、無謀な行動にでないように自重することを望む。……

 以上が、犯人たちの声明です。なお、この声明への回答を30分以内にするように、との事です」

官房長官(総理大臣に向いて)「総理、どうします?」

総理(腕組みしていた手をほどき、電話に歩み寄って受話器を取り)「すべて承知した。私は総理の大友だ。犯人たちにそう伝えてください」

幹事長(顔を真っ赤にして、怒鳴るように)「総理、こんな屈辱的な要求を飲む気か!」

総理(目を閉じて、腕組みし)「それしかなかろう……」(フェイド・アウト)

 

  皇居。サーチライトに照らされた周囲には、何百台ものパトカーのほか、陸上自衛隊のジープ、装甲車、トラックが無数に詰めかけている。その周囲には、何千人もの武装警官、自衛隊員が、銃を持って、いらだった表情でたたずんでいる。さらに、その外には、テレビや新聞の報道隊や無数の野次馬たちが、わいわい騒ぎながら見物している。

  皇居内からヘリコプターの爆音が響き、やがて闇の中をサーチライトに照らされて、巨大ヘリが少しずつ浮上していく。

  見上げる警官隊、野次馬の顔、顔。

  一際ものものしく警戒された一画に、総理大臣らの顔も見える。

  皇居の堀。黒い水の中から、黒ずくめの姿の男が頭の半分ほどを出す。男は泳いで堀の側面に達し、人気のない茂みに隠れて上陸する。

  茂みの側に立って上空のヘリコプターを見上げている警官。その後ろから「男」の腕が巻き付いて首の骨を折り、茂みに引きずり込む。

  茂みの中から、警官の制服を着て現れる「男」。

  側のパトカーに乗り込み、発車させる「男」。

  群衆の間を抜け、脱出するパトカー。

  サーチライトに照らされながら、ゆっくりと皇居の上を離れていく巨大ヘリ。

  都内を走るパトカー。

  ライトアップされた東京タワーをバックに走るパトカー。

  サイレンを鳴らしながら、品川、大井を走り抜けるパトカー。

  ヨットハーバー。暗く静まり返った中、車のライトが道の彼方に現れる。

  「男」の乗ったパトカーが猛スピードでハーバーに進入し、桟橋に停泊しているクルーザーの側に停止する。

  車から素早く下りて、クルーザーのタラップを駆け上る「男」。

  操縦席でエンジンのスイッチを入れ、運転する男。

  ハーバーの桟橋をゆっくり離れていくクルーザー。

  ぐんぐんスピードを上げ、東京湾の入り口に達するクルーザー。背後に、東京の夜景が美しい。

  自動操縦に切り替え、操縦席を離れる「男」。

  つんつるてんの警官の制服を脱ぎ捨てながら、パンツ一つになり、奥の部屋に入る「男」。

  冷蔵庫を開け、冷えた缶ビールを取り出し、口に付けて一息に飲み干す「男」。

  ガウンを羽織ったあと、続けて、同じく白ワインを取り出し、これも冷蔵庫で冷やしてあるグラスを手にして操縦席に行く「男」。

  操縦席のナビゲーターと計器を見て、自動操縦装置が順調であることを確認し、操縦席に深々と座り込む「男」。

  グラスにワインを注ぎ、それを目の前に掲げ、「コングラチュレーション!」とつぶやいて、それを飲み干す「男」。

  目を閉じる「男」の顔。満足感に溢れている。やがて、「男」は眠り込む。(フェイド・アウト)

 

  暗い海上を飛ぶ巨大ヘリ。

  (上空から)航行する空母「サンタ・マリア」の姿。

  「サンタ・マリア」に近づくヘリ。

  「サンタ・マリア」の甲板にゆっくりと下りていくヘリ。(フェイド・アウト)

 

  新聞紙面の見出し。「5000億強奪犯人グループ、リビア入国」「人質の皇太子様、無事解放」「犯人グループ消息不明」「ダーク・エンジェルズ北朝鮮亡命か?」(フェイド・アウト)

 

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