忍者ブログ
[255]  [256]  [257]  [258]  [259]  [260]  [261]  [262]  [263]  [264]  [265
以前は「ctrl+ alt+ delete」で強制終了できたのだが、今は違うのだろうか。あまり勝手にいろいろ変えないでほしいものだ。





Windows 10で、フリーズしたパソコンを強制終了する方法について教えてください。
フリーズの状態が続く際は、パソコンを強制終了することで、再起動後に動作が正常になる場合があります。
フリーズの状態が続く際は、パソコンを強制終了することで、再起動後に動作が正常になる場合があります。

はじめに

Windows 10では、パソコンの使用中に、キーボードやマウスなどを操作してもパソコンが反応しなくなり、操作が正常に行えなくなる場合があります。この現象をフリーズと言います。

しばらく待ってもフリーズの状態が続く場合は、パソコンを強制終了します。
強制終了が完了したら、パソコンを再起動し、正常な操作ができることを確認します。

マウス操作でパソコンが反応しない場合は、以下の情報を参照し、マウスの使用環境や設定を確認してください。
Q&Aマウスを動かしてもマウスポインターが正しく動作しない場合の対処方法

頻繁にフリーズが発生する場合は、以下の情報を参照し、原因を特定できるか確認し対処方法を行ってください。
Q&AWindows 10でパソコンがフリーズして反応しない場合の対処方法

※ Windows 10のアップデート状況によって、画面や操作手順、機能などが異なる場合があります。

操作手順

Windows 10でフリーズしたパソコンを強制終了するには、以下の操作手順を行ってください。

1. 操作前の確認事項

フリーズしたパソコンを強制終了する場合は、事前に以下の内容を確認してください。

  • 強制終了した場合、作成途中のデータ(文書ファイルなど)は最後に保存したときの状態となります。

  • ハードディスクやCD/DVD/ブルーレイディスクドライブのアクセスランプが点灯または点滅しているときは、ハードディスクやドライブが動作しているため、ランプが消えるまでお待ちください。
    ハードディスクなどが動作しているときに強制終了を行うと、データが失われたり、ハードディスクが破損したりする場合があります。

    アクセスランプのマーク(一例)
    アクセスランプの一例

    アクセスランプの場所(一例)
    アクセスランプの場所(一例)

    ※ アクセスランプのマークは、パソコン本体に刻印されています。場所は機種により異なります。

  • パソコンにCDやDVD、ブルーレイディスクなどが挿入されている場合は、イジェクトボタンを押して取り出してください。挿入したまま電源を入れると、パソコンが正常に起動しない可能性があります。

2. キーボードで操作できる場合

キーボードで操作できる場合は、以下の操作手順を行ってください。

以下のいずれかの項目を確認してください。

ショートカットキーで強制終了する方法

ショートカットキーで強制終了を行うには、以下の情報内の「ショートカットキーでシャットダウンする方法」を参照してください。
Q&AWindows 10でパソコンの電源を切る方法

メニューから強制終了する方法

キーボードで操作できる場合は、メニューを表示し、強制終了することができます。
メニューからシャットダウンするには、以下の操作手順を行ってください。

  1. 「Windows」キーを押しながら「X」キーを押します。

  2. メニューが表示されます。
    キーボードの「矢印」キー(↑↓)を押して「シャットダウンまたはサインアウト」を選択し、「Enter」キーを押します。
    表示された一覧から、キーボードの「矢印」キー(↑↓)を押して「シャットダウンまたはサインアウト」を選択し、「Enter」キーを押します

  3. 表示された一覧から、キーボードの「矢印」キー(↑↓)を押して「シャットダウン」を選択し、「Enter」キーを押します。
    表示された一覧から、キーボードの「矢印」キー(↑↓)を押して「シャットダウン」を選択し、「Enter」キーを押します

以上で操作完了です。

3. キーボードもマウスも操作できない場合

キーボードもマウスも操作ができない場合や、上記方法で強制終了ができない場合は、電源スイッチを押し続けることでパソコンの電源を強制的に切ります。
※ パソコンによって電源ボタンの位置が異なるため、見つからない場合はパソコン添付のマニュアルで確認してください。

電源が切れたら、少し時間を置いてからパソコンの電源を入れます。

パソコンを再起動できた場合は、もう一度通常のシャットダウンを行い、再度電源を入れて、問題なく動作するか確認してください。

補足

  • 操作中の内容などは保存されません。

  • 電源ボタンによる強制終了は、頻繁に行わないでください。

  • ごくまれに、パソコン本体の電源スイッチを押し続けても、電源が切れない場合があります。
    この場合は、ディスプレイとパソコン本体両方の電源ケーブルをコンセントから外して、放電を行ってください。
    パソコンで放電処置を行う方法は、以下の情報を参照してください。
    Q&Aパソコンで放電処置を行う方法

  • 電源ボタンを押したときの動作設定が「シャットダウン」以外に設定されていると、電源ボタンを押してもシャットダウンできない場合があります。
    電源ボタンの設定を確認するには、以下の情報を参照してください。
    Q&AWindows 10で電源ボタンを押してパソコンをシャットダウンする方法

↑ページトップへ戻る

PR
「独楽な日」というブログから転載。
私自身も、日本では地下室を家に作るほうが何かと都合がいいのではないかと思っているのだが、建築法の規制でもあるのか、日本では地下室のある家は希だと思う。
地面というのは夏涼しく冬温かいのだから、冷暖房の費用も地上部分より少なくて済むだろうし、地震の際にも安全ではないか。ひょっとしたら、火事の時でも助かりやすいかもしれない。(空気取りの穴などの工夫は要るだろうが。)
ロンドンの家屋など、半地下部分のある家が多い。
現在のように周囲がすべて家屋やビルであるという都市環境では、窓から風景を眺める喜びもほとんんど無いだろうから、地下室を活用するのが、これからのトレンドになりそうな気がする。


(以下引用)


2017-06-03

独楽な大地Add Star

好きなものは、すいすいと頭に入って、不思議なほど記憶にしっかり残りませんか。

それなのに年を重ねると、あんなに好きだったことが思い出せなくなったりします。

それは当たり前なのかもしれませんが、最近ふと思いました。

忘れないように努力するより、

興味をもって新しいことを覚えていくことによって、

過去に覚えたことも忘れなくなるのではと。

なんだかそんな気がします。

問題はどうやって興味を持つか、どうやって好きになるか、ということですね。

段々と色々な思考が身についてきて、若い頃のような無邪気に好き!というのは、なかなかなれません。

良いも悪いも含めて、どう肯定的になっていけるか、それが核のような気がしますが、精進精進。


そんな今日この頃、自主で動いているプロジェクトのために色々と本を読んでいます。

とにかく専門用語も多く、調べると更に知らないことが出てくるので、ひぃーとなりながら、グーグル先生のお世話になっています。

そんな中の一つに、とても面白い記事があったので、ちょっとご紹介。

アイヌの伝統民家「チセ」

http://www.chinetsu.jp/cise01.php

アイヌの住居は当然ですが、極寒の豪雪地域です。

今の私達の暮らしからは、現在のような建築ではなく、自然の材料だけで作られた住居でどうやって生きていけるのか、全くもって想像もつきません。せいぜい、昔の人は苦労してたんじゃない?とか。

上記の記事は実際にチセを建てて、寝泊りし、データを取りながら、アイヌの長老から聞いたことや、文献等の状況に近づけていく、そんな作業を10年ほどしたものになります。

本当に貴重な研究で大変感動しました。

そして永い歴史と地域風土に育まれた知恵というのは、想像を遥かに超えるものがありました。

色々と面白いので是非読んで貰いたいのですが、

私が特に感動したのは、大地の5m下では真夏と真冬の温度が反対になっているということでした。

夏の熱が地下5mに届くのに半年かかっているというのです。

それは大地が半年先まで、夏の熱や冬の冷熱を持ち越す力を持っているとも言い換えれます。

雪解けして直ぐに新しい芽が出るはそのお陰だと。

そしてアイヌの住居「チセ」はそのことを活用した作りになっていました。

丁度、読んでいる本にも、日本では竪穴式住居が長く一般的だったとあり、まさに目から鱗でした。

竪穴式住居も大地を掘って、そこを生活の場としているのです。

驚きじゃないですか?

何か言葉に出来ない感に打たれました。

私はその後、住居に床を作っていき、色々ありながらも、現在のような椅子生活がメインなった日本の文化も好きです。

ただ東京に住んでいると、本当に土をほとんど見ないのです。そして何か忘れものをしているような気がしてしまいます。単に過去に戻ろうという気持ちはないのですが、改めてスケールの大きい奥深さに出会う大切さはあるようにおもいます。

建売住宅に地下室付きが少ないのはなぜ?

一戸建てに住んだら、地下室でカラオケや映画鑑賞を思い切り楽しみたい・・・そんな夢を持っている人が多い。でも、マイホームを探すと、「地下室付き一戸建て」はほとんどない。なぜ、少ないのか。そして将来、リフォームで地下室をつくることはできないのか。その疑問に答えたい。

規制が緩み、地下室はつくりやすい状況

一戸建て住宅を建てるときは、建ぺい率・容積率をめいっぱい使うのが普通。その土地に許される最大の家を建てるわけである。

近年、この建ぺい率・容積率に関する規制が改められ、地下室は別扱いされることになった。容積率をめいっぱい使った家でも、地下室ならば設置が認められるわけだ。

そうなると、地下室付きの建売住宅が増えても良さそうと考えてしまう。さらに、リフォームで地下室をつくってしまおうと考える人も増えるだろう。

地下室があれば、大音響で映画鑑賞を楽しんだり、カラオケルームをつくることができる。麻雀室をつくるのもわるくない、などと夢がふくらむ。

ところが、この地下室、簡単につくることはできない。防水工事を行うのはもちろん、防湿をしっかりしないとカビだらけの空間になってしまうからだ。

実際には地下に鉄筋コンクリートの箱を造り、さらに壁を二重にするような工事が求められる。工事費用が非常に高くなる。

一般的に、地下室付き住宅の新築費用は、そうでない住宅の2倍以上になるとされている。2階建てが総工費2,000万円で建設できる場合、その2階建てを地下室付きにすると総工費は4,000万円以上になるわけだ。

この工事費用に土地代が加わると、建売住宅としては高額物件となり、買い手を探しにくい。だから、建売住宅では「地下室付き」が登場しにくいという状況が生まれるのである。

リフォームで地下室付きをつくるのも大変

pic_detail01
後から地下室を作るのは大変

一戸建て住宅を購入した後、何年か後にリフォームで地下室をつくる場合も簡単にはできない。まず、既存の建物が工事の邪魔になる。映画に出てくる銀行強盗のように家の下に穴を掘って地下室をつくる、なんてことはできない。既存の家を横にずらし、地下室をつくる。地下室ができたら、家を元の位置に戻す・・・そんなことをしたら、いったいいくらかかるのか。さらに、家をずらすことができるくらい庭が広くなければ工事ができない。

実際のところ、地下室を手に入れたいなら、既存の家を壊して地下室付き住宅を新築することになる。地下室付き住宅は、現実的にお金に余裕がないと実現がむずかしいのである。













下に転載したスレッドはまだ読んでいないが、面白い話題なので、スレッドを読む前に、私なりに各国の打線を組んでみる。未読の作家もたくさんいるし、記憶から抜け落ちている作家もたくさんいるだろうが、とりあえずのラインアップである。(書いている途中で面倒になったので2国だけにする。ほかに強いのはバルザックやスタンダールやデュマやユーゴーのいるフランスか。)

イギリス

1中堅手H・G・ウェルズ
2遊撃手スウィフト
3二塁手J・オースティン
4捕手ディッケンズ
5一塁手フィールディング
6左翼手G・B・ショー
7右翼手O・ワイルド
8三塁手 E・ブロンテ
9投手 シェークスピア

代打:G・エリオット

まさに多士済々であり、このほかに代打も代走も守備固めも何人もいる。

ロシア

1 右翼手ツルゲーネフ
2 遊撃手チェーホフ
3 投手ドストエフスキー
4 捕手トルストイ
5 一塁手プーシキン
6 中堅手ソルジェニーツィン
7 左翼手ゴーリキー
8 二塁手?
9 三塁手?

スタメンすら埋まらないが、そこを員数合わせするだけで、投手と捕手の二人で相手打線を完封し、それぞれ2ホームランずつ打ちそうである。



1: 名無しさん 2017/09/16(土)23:16:30 ID:Mux
総合点が高い国
no title

引用元: http://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1505571390/

2: 名無しさん 2017/09/16(土)23:18:26 ID:ZtL
ロシアすこ

6: 名無しさん 2017/09/16(土)23:19:26 ID:Mux
>>2
ドストエフスキーとトルストイとチェーホフとゴーゴリとツルゲーネフ以外になんかおる?

7: 名無しさん 2017/09/16(土)23:20:32 ID:RHI
>>6
プーシキン、ゴーリキー、ソルジェニーツィン

15: 名無しさん 2017/09/16(土)23:23:14 ID:Mux
>>7
はえ~
読んで見るわ

3: 名無しさん 2017/09/16(土)23:18:36 ID:RHI
文学全集を立ちあげるって本では
フランス文学の巻数が一番多かったな

8: 名無しさん 2017/09/16(土)23:20:51 ID:Mux
>>3
フランスは小説だけでなく詩も凄いイメージや
ボードレール、ヴェルレーヌ、ランボー、マラルメ、ヴァレリー、コクトーとか

9: 名無しさん 2017/09/16(土)23:21:19 ID:rOo
ロシアの文豪ってよく聞くけど他の国って学者の名前ばっかのイメージ

11: 名無しさん 2017/09/16(土)23:21:49 ID:Mux
ロシアの詩人ってマヤコフスキーしか知らんわ

12: 名無しさん 2017/09/16(土)23:22:25 ID:BMB
言語が違うのに1番すごいとか不思議な感じ
どうせ他の国に渡るときは翻訳されてぼやけるのに

13: 名無しさん 2017/09/16(土)23:22:44 ID:vuk
他媒体への影響を鹹味すれば
イギリス(シェークスピア等)とロシア(ドストエフスキー他)の二強やないか

18: 名無しさん 2017/09/16(土)23:25:16 ID:Mux
>>13
確かにシェークスピアは影響ありすぎやな
フランスだとそのポジションはラシーヌなんやろうけど
まあシェークスピアの方が影響力あるやろうな

20: 名無しさん 2017/09/16(土)23:25:57 ID:RHI
>>18
ラシーヌとモリエールやな

14: 名無しさん 2017/09/16(土)23:22:54 ID:il0
ロシア文学ってロードオブザリングの小説と同じくらい読むのしんどい

16: 名無しさん 2017/09/16(土)23:24:17 ID:Mux
ドイツはどうなんや?
大正義ゲーテがいて面白いトーマスマンがおる
ドイツ語の範疇にしてしまえばカフカもいる

19: 名無しさん 2017/09/16(土)23:25:28 ID:RHI
>>16
あとはゲーテ、シラー、ホフマン
日本ではなじみがないけどムージル

17: 名無しさん 2017/09/16(土)23:24:34 ID:RHI
ロシアはビッグネームおるけど選手層が薄い印象
イギリスフランスは選手層が厚い

24: 名無しさん 2017/09/16(土)23:27:29 ID:Mux
>>17
イギリスって厚いんか?
詩人はいっぱい知ってるけど小説家ってそんな大量に浮かんで来ないわ
ワイルドとかブロンデとかジョイスくらいしか浮かばない
あとディケンズもイギリスか

27: 名無しさん 2017/09/16(土)23:29:48 ID:RHI
>>24
デフォー、スウィフト、ロレンス・スターン
ハーディ、コンラッド、ヴァージニア・ウルフ
イーブリン・ウォー、グレアム・グリーン
かなりおるで

28: 名無しさん 2017/09/16(土)23:30:37 ID:Mux
あとイギリス詩といえばエリオット!

>>27
イーブリンウォー忘れてたわ
クソ面白いのに

30: 名無しさん 2017/09/16(土)23:31:25 ID:RHI
>>28
ウォー好きとは珍しい
ワイも「大転落」は何度も読んだ
大転落 (岩波文庫)

21: 名無しさん 2017/09/16(土)23:26:51 ID:XNz
やっぱ海外の文学好きな人は原著読んだりするん?

34: 名無しさん 2017/09/16(土)23:32:59 ID:vuk
>>21
詩なんかは翻訳やと韻が失われるから基本原著やで

22: 名無しさん 2017/09/16(土)23:27:10 ID:HNy
小説ではないが
俳句・短歌の日本と律詩・絶句のちうごくはダメですかね(小声)

23: 名無しさん 2017/09/16(土)23:27:11 ID:RHI
あとイギリスフランスはそれぞれ
ジョイスとプルーストっていう中核打者がおるのが強い

26: 名無しさん 2017/09/16(土)23:29:22 ID:Mux
詩人だとキーツとかバイロンとかシェリーとかブレークとかワーズワースとかコウルリッジとかブラウニングとかテニスンとかおるわな
昔岩波の対訳つきの文庫本で自分で訳したりしてたもんや

31: 名無しさん 2017/09/16(土)23:32:16 ID:XNz
>>26
やっぱ自分で訳したりするんやな
あとはいくつか訳があるようなのやと読み比べたりとかするんかな
たのしそう

32: 名無しさん 2017/09/16(土)23:32:35 ID:2gb
ファンタジーやSFはイギリス強いんちゃうか?
ハリーポッター 星を継ぐもの 地球の長い午後
ぜんぶイギリスやで
星を継ぐもの (創元SF文庫) 地球の長い午後 (ハヤカワ文庫 SF 224)


38: 名無しさん 2017/09/16(土)23:34:47 ID:Mux
>>32
確かにイギリスはSFって感じがするわ
産業革命起こしただけある
ウェルズとかオーウェルとかハクスリーはイギリスだよな

40: 名無しさん 2017/09/16(土)23:35:50 ID:RHI
>>38
ミステリも多いで
ドイル、アガサ、ル・カレ

33: 名無しさん 2017/09/16(土)23:32:47 ID:RHI
イギリスはエンタメ方面も多いしな

39: 名無しさん 2017/09/16(土)23:35:29 ID:Hjl
ミステリもイギリスは強い

41: 名無しさん 2017/09/16(土)23:35:52 ID:vuk
イギリスは前進感っていうか前向きな作品多いやね

42: 名無しさん 2017/09/16(土)23:35:55 ID:Mux
幼年期の終わりの作者もイギリスやんけ!
SF凄いな
幼年期の終り

43: 名無しさん 2017/09/16(土)23:38:11 ID:hxt
古代ギリシャ

45: 名無しさん 2017/09/16(土)23:39:08 ID:Mux
>>43
プラトンとかアリストテレスとかヘロドトスとかも含めるなら確かに凄い

49: 名無しさん 2017/09/16(土)23:43:02 ID:hxt
>>45
ぶっちゃけほとんどの西洋文学はギリシア文学、思想の影響受け取るからなんとも

44: 名無しさん 2017/09/16(土)23:38:54 ID:vuk
ジャズやロックもそうやけどアメリカより先に
これええやんけ!って取り入れて独自発展させるような
妙なフットワークの軽さがあるな<イギリス

46: 名無しさん 2017/09/16(土)23:40:10 ID:RHI
>>44
ロックは完全にイギリス文化やもんな

47: 名無しさん 2017/09/16(土)23:41:12 ID:Mux
イギリスってなんであんなにロックが凄いんや?
クラシックでイギリスってあんまパッとしない気がするんやが

48: 名無しさん 2017/09/16(土)23:42:18 ID:Mux
ロックって元は黒人音楽やろ?
それを白人に持ち込んだのがアメリカ人のエルヴィスプレスリーやろ?

50: 名無しさん 2017/09/16(土)23:43:57 ID:RHI
>>48
アメリカでは黒人差別に影響でエルヴィス以降があんまり続かなかった
イギリスでは差別が緩かったのでロックが流行った
とかいう説があるけど真相はよくわかっとらん

52: 名無しさん 2017/09/16(土)23:44:02 ID:vuk
あの頃のイギリス人は黒人文化に抵抗がなくて
アメリカでブルースやらジャズやらが出てきても距離置いてたのに
即飛びついてモノにした感じやね

53: 名無しさん 2017/09/16(土)23:44:34 ID:upF
なんでスペイン抜かすねん
セルバンテスとかロルカとかおるやんけ

57: 名無しさん 2017/09/16(土)23:45:57 ID:RHI
>>53
スペインは不遇やねん
ラテン・アメリカ文学も含めればおるのかもしれんけど

54: 名無しさん 2017/09/16(土)23:44:44 ID:Mux
ビートルズもローリングストーンズもツェッペリンもピンクフロイドもクイーンもイギリスやもんな
凄えわイギリス

58: 名無しさん 2017/09/16(土)23:45:58 ID:60n
トップは難しいけど一番駄目っぽいのはドイツやな

60: 名無しさん 2017/09/16(土)23:46:51 ID:vuk
チャックベリーとかが差別受けてた時にイギリスから
若い連中が訪ねてきて、チャックがお前ら正気か?って驚いたんやけど
そいつらが後のローリングストーンズやったっていう逸話があったはず

62: 名無しさん 2017/09/16(土)23:47:37 ID:Mux
ローリングストーンズとか黒人音楽リスペクトの極致やからな

70: 名無しさん 2017/09/16(土)23:50:22 ID:rSW
意外と強い中南米連合

73: 名無しさん 2017/09/16(土)23:51:05 ID:vuk
アメリカはこれからって感じやね
ニューロマンサー書いたウィリアム・ギブスンみたいに
未来予言的なSF系は後々評価される思う
攻殻機動隊もマトリックスもネット社会もみんなこれが元ネタやし
ニューロマンサー (ハヤカワ文庫SF)

77: 名無しさん 2017/09/16(土)23:53:00 ID:Mux
>>73
アメリカはポーがいるのとフォークナー、ヘミングウェイ、カポーティのイメージや
フォークナーはワイは読みづらくて諦めたけど大江健三郎とか中上健次とか持ち上げてるしかなり凄いんやろうな

82: 名無しさん 2017/09/16(土)23:54:35 ID:RHI
>>77
フィッツジェラルド、サリンジャー、カポーティ
ブローティガン、バロウズ、ケルアック
もおるで

85: 名無しさん 2017/09/16(土)23:55:32 ID:Mux
>>82
サリンジャーとかケルアックっていかにもアメリカ文学って感じがするわ

75: 名無しさん 2017/09/16(土)23:51:36 ID:Mux
日本文学
源氏物語、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫、安部公房、遠藤周作、大江健三郎、村上春樹

88: 名無しさん 2017/09/16(土)23:56:46 ID:RHI
アメリカはミステリ、SFも豊富
ちょっと文学よりなのは
チャンドラー、ハメット、ディック、ヴォネガット







これは成功者への嫉妬とかではなく、合理的に考えて当たり前の話である。べつにナンバーワンよりナンバーツーが優れているという話でもない。ナンバーワンだろうがツーだろうが、成功するのにもっとも必要なのが運であることは明白な話だ。その運とは生まれと環境だ。
たとえば、天才が未開人の間に生まれたとして、世界的な大富豪や大科学者になるか、と考えればいい。その才能など、誰にも知られることもないだろう。
逆に言えば、先進国に生まれた人間はそれだけで幸運なのである。ただし、その国やその社会の中で上位に行くにはまた別の幸運(上級国民の家に生まれるなど)が要る。




最も成功している人は過大評価されがちだが運による要素が大きい。本当に学ぶべき対象は2位や3位(英研究)

2017年09月13日 ι コメント(24) ι 知る ι 料理・健康・暮らし ι #

no title

 勝者はその実力を過大評価される傾向にあるという。ゆえに彼らを真似するべきではないと専門家は警告している。

 数学モデルによると、実力が同程度であれば勝敗を分けるのは運の要素が非常に大きいそうだ。

 人生の勝者である世界最高の富裕層は、とかくお手本として参考にするべきだと思われがちだ。しかし英ウォーリック・ビジネススクールのチェンウェイ・リュー(Chengwei Lau )氏は、「彼らが優れていることは確かだろうが、最高のスキルを持っているかといえば必ずしもそうとは言えません」と話す。
スポンサードリンク

勝者になるかどうかは運が大きく左右する


 リュー氏らが2012年に『Proceedings of the National Academy of Sciences』で発表した研究によると、突出したパフォーマンスを示す人物が最も優れたスキルを身につけているという見解は間違いだという。その理由は突出したパフォーマンスはしばしば例外的な状況で生じるものだからだ。

 すなわち最高のパフォーマンスを示した人物は、しばしば最も運に恵まれた人物であるということだ。彼らは富める者がさらに富めるダイナミクスの恩恵を受け、最初の幸運を増進させることができた人たちだ。

 一方、成功者は自分の成功が運によるものだとは認めたがらない。彼らを取り巻く人たちもそうだ。その結果、類まれな成功物語ばかりが注目を集めることになる。成功者は最もスキルに長けた人物であるとみなされ、その行動が模倣される。


本当に注目すべきは2位の人物


 リュー氏はむしろ「2位の人物に注目すべき」と述べる。

 この理論は、スポーツの世界でも当てはまる。昨年の優勝チームに賭ければ、シーズン序盤で負けるだろうことを示唆している。

 勘違いしないでほしいが、スキルや努力に何の意味もないというわけではない。だが運はそれ以上に影響するのだ。

 この場合でいう運は、持って生まれた環境も含まれる。


ビル・ゲイツの成功の影に家庭環境あり


no title

 例えば、世界最高のお金持ちであるビル・ゲイツは上流階級の生まれで、そのためにプログラムを経験することができた。

 彼の世代でコンピューターを利用できたのはわずか0.01パーセントに満たない。母親はIBMの会長と面識があったため、ゲイツはPCのリーディング企業から契約を得ることができ、それがソフトウェア帝国を築くために決定的に重要であった閉じ込め効果を発生させた。

 「もちろんゲイツには才能と努力があり、それがマイクロソフトの傑出した成功に重要な役割を果たしています。でもそれだけでは不十分です。それなのに人は最も成功した人をお手本にしようとします」(リュー氏)


最も成功している人=最高のスキルではない


 彼の調査によれば、被験者に対しパフォーマンスを評価するうえで明確なフィードバックとインセンティブを与えたにもかからわず、58パーセントが最も成功しているが明らかに最高のスキルとは言いがたい人物を「最高のスキルの持ち主」と評価していたという。

 「そうした想定は失望を招くでしょう。仮にビル・ゲイツの何から何までを真似できたとしても、彼の最初の幸運までは真似できませんから」とリュー氏は説明する。

via:pnas / To be a winner, learn from ‘losers’/ translated by hiroching / edited by parumo

 ナンバーワンになる人は「(運を)もっている」人だ。なのでスキルはナンバー2以下の人の方が高いということもあるということだ。

 その世界でナンバーワンとなった成功者の本はとても良く売れていて、皆がこぞってそのやり方を真似しようとする。だが、そこには運が大きく絡んでいるということを、理解しておいた方がいいかもしれない。












物語創造のメカニズム

 

1 オブセッション(強迫観念)

 

創造の土台にあるのが、このオブセッションである。創造におけるオブセッションとは、何かが自分にとって切実に感じられるという気分である。実際、それは創作者にとって重要だと本能的に思われ、したがって、それについて考えることやそれに時間を費やすことは意義があると感じられる。このオブセッションが無い創作活動は、ただのルーティンワーク的作業になる。大多数の二流創作家の仕事が尻すぼみになるのも、このオブセッション無しで物を作ろうとするからである。

どのような人間にもあるオブセッションは、性欲と恐怖である。したがって、性と恐怖は物語的芸術の柱である。

性欲の一つの形態が恋愛である。恋愛とは美化された性欲である。しかし、美化するという行為はけっしてつまらないことではない。逆に、美化されない現実はそのままでは芸術的なものにはならない。

エロスとタナトスの欠如した作品は、一般人の本能を引きつける要素がない。笑いの芸術はその両者を欠いたものが多い。したがって、高度な感覚を持った人間でないと笑いの芸術は理解できない。笑いの芸術では性も死も笑いの対象であり、したがって人間存在そのものが高い次元で客観視されている。そのようなメタ意識が笑いを理解するには必要なのである。粗野な、野獣的人間は笑いを理解できない。

 

2 自らの作った虚構に没頭できる能力

 

創造において一流と二流を分ける部分が、この虚構への没頭、言い換えれば「熱」である。天才的創作者は、自らの作った虚構に没頭する。その没頭している時間は彼らに充実感を与える。だから、彼らはたいていワーカホリック的に長時間の仕事を平気でやる。たとえ報酬がなくても彼らは自分の好きな仕事をやるだろう。実際、天才的創作者の得た報酬は、彼らの費やした時間と努力に対して、驚くほど微々たるものである。しかし、実は仕事自体が彼らにとっては第一の報酬であったのだ。

物を作る能力と、それを売って報酬を得る能力は、まったく別である。

 

3 問題とその解決

 

あらゆる創造は、突き詰めると「問題の発見とその解決」である。そのうち、より重要なのは、「問題の発見」である。これはいわば、虚空の中から物体を取り出すような行為であり、神の天地創造に等しい。

適切な問題を発見すれば、後の創作行為はルーティンワークに近い。 

もちろん、「問題のいいかげんな解決」では一流の創造にはならないが、すぐれた問題は、それ自身の中にすぐれた答えを蔵していると思われる。

 

宮崎駿(だけの創造ではないが)の初期の傑作「未来少年コナン」において、ヒロインのラナにテレパシー能力を与えたのは、通常ならば蛇足とされるだろう。しかし、ドラマの最終段階において、ラナのテレパシー能力が無いと、この物語はあれほど見事に完結しなかっただろう。そこまで見越して、つまり最終ステージから逆算してラナにテレパシー能力を与えたのか、それとも直観的にそういう設定でスタートして、それをうまく利用して最終場面に持っていったのか、そのどちらであるかは不明だが、創作者の物語への没頭はしばしば「問題への奇蹟的な解答」を呼びよせるものだと思われる。

 

物語的芸術における「問題」を言い換えれば、「物語の基本設定」である。どのような人物が、どのような状況にいるか、ということだ。その人物や状況の設定は、ありえないようなものでもよい。たとえば、考えるだけで人を殺す能力がある人間でもいい。ある小学校全体が異次元に飛ばされるという状況でもいい。

読者は、そういう基本設定自体は、それをフィクションの特性として容易に受け入れる。だが、その設定からはありえない事柄が生じると、読者はそれを駄作であると判定する。

「デス・ノート」の基本設定は、「ありえない話」である。だが、その進行はすべて合理的である。最初の設定(あるいは途中で追加された、あるいは途中で明らかにされた設定も含め)を裏切るようなご都合主義は無い。読者は、その物語に参加し、その合理的進行と問題の合理的解決に酔いしれるのである。

 

4 物語芸術における創造のセオリー

 

少年漫画における一番単純なストーリー展開は、「勝負と勝利」の連続である。これを「バクマン」では「王道バトル物」と呼んでいる。この方式だと、「強敵の出現」「それをいかにして倒すかという問題の発生」「特訓や援助によって強敵を倒す」の繰り返しで、いくらでも物語を続けることができる。しかも、大多数の読者にとっては、自分が感情移入している主人公の勝利は自分自身の勝利の快感と同一なのである。したがって、「読む者に快感を与える」という最大のサービスが確実に保障されている。だから「王道」なのである。後はそれにお色気と笑いをまぶせば、それでいい。

だが、年少の読者ならそれでいいが、ある程度の批判精神を持った読者には、そういう「営業セオリーで作った作品」は鼻につくものである。

手塚治虫は、そういう「王道バトル物」はおそらく一度も書いていないだろう。

それは、そこには彼のオブセッションが存在しないため、彼に創作させる熱を与える要素が存在しないからである。

「王道バトル物」に近いが、そこに作者のオブセッションが加わって傑作になったものが「あしたのジョー」である。丹下段平というキャラクター、力石徹というキャラクターには、通常の「王道バトル物」には無い、「赤い血」が流れている。それは主人公のジョーにしても、その他の脇役にしてもそうである。つまり、梶原一騎は物語を愛していたし、「営業セオリー」で物語を作ろうなどとは少しも考えていなかったのだ。物語要素の順列と組み合わせで物語を作るなど、彼は考えていなかった。(彼が物語を常に人生論として描いたのは、「巨人の星」の主人公の名前を「飛雄馬」=ヒューマンとしたことからも分かる)彼はジョーという野性的少年がボクシングを通じて人生と格闘する姿を描きたかったのだ。もちろん、「あしたのジョー」は「強敵の出現」とその「対策」「勝利」の連続という、見かけは「王道バトル物」そのものだ。だが、それは力石の死後の話だ。力石徹が死んだ時点で、この話はほとんど終わっていたのである。それが魅力的キャラクターを生み出すことの功罪である。

小説の話だが、「銀河英雄伝説」でヤン・ウェンリーが死んだ後、もう一人の主人公、おそらく真の主人公であるラインハルトの生にはほとんど意味がなくなる。これは力石が死んだ後のジョーに似ている。主人公を上回る魅力のあるライバルは、もはや物語の実質的主人公なのである。ならば、それが死んだら、物語は終わりだろう。

 

王道バトル物の話はここまでとする。

 

5 なぜ物語を書くのか

 

山岸凉子は短編の名手だが、彼女はなぜ物語を語るのだろうか。

あるいは世界一長い小説である「グイン・サーガ」を書いた栗本薫は、なぜ物語を語るのだろうか。

この両者にあるのは、「物語愛」とでもいうべきものである。短編で無数の名作を書いた山岸凉子も、長編小説を延々と書き続けた栗本薫も、物語が好き、という一点で共通している。そしてそれはあの膨大な物語群を生み出した日本最大の天才、手塚治虫も同じである。

彼らはみな、物語が好きなのである。おそらく、他人の作った物語を読むのも見るのも好きだろうが、自分の中にある物語を形にするのがもっと好きだったのだ。

では「自分の中にある物語」とは何か。

それは、広い意味での「人生の可能性」ではないだろうか。

物理的・社会的に縛られた自分の人生とは別に、すべてが可能な世界が物語の中にはある。その世界を作り、その世界の中の登場人物と生きることで、彼らはもう一つの人生を生きているわけだ。他人の作った物語よりも、自分の作った物語のほうが性に合うのは当然だ。

つまり、ヴァーチャルな生こそが彼らの実人生以上の快感を彼らに与えていたのではないか、と推測できる。

リラダンの言葉を借りれば、「生活などは召使にまかせておけ」ということである。これはランボーも同様のことを言っている。「我々の人生とは(行為などではなく)我々が考えたその中身だ」と。

そしてまた、それは優れた物語を読む時の我々の気持ちでもある。

優れた物語を読む時、我々は「高次元の生を生きている」のである。

もちろん、そこには「現実」は無い。実際の肉体も実際の自然もない。

実際の肉体や実際の自然、つまり現実以上の価値あるものはありえない、と考えるのも一つの考え方だろうし、むしろそのほうが一般的な共感を得るだろう。

だが、我々は優れた芸術に触れることで、「より高次元の生」を知るのである。

これは、優れた詩や絵画に触れることで、人格が変わるということでもある。それだけ芸術とは凄いものなのである。たとえば、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読む前と読んだ後では人生や世界の見方に大なり小なり変化が生じるだろう。これは人格が変わったということだ。べつに宗教的になったり道徳的になったりするということではない。「ドストエフスキーの目と頭」の一部があなたに転移して、物の考え方がそれ以降は少し変わってくるということだ。これが芸術の力である。場合によっては全人格の大変容が起こることもある。それが幸福な変化であるとばかりは限らないが。

 

話を物語に戻す。

物語とは高次元の人生である、と定義しよう。現実には不可能な「人生の実験場」、それが物語だ。つまり、物語を読まない人間の人生はリアルな、その人の等身大の人生で終始する。それも必ずしも悪くはない。しかし、我々は自分の人生以外に、頭の中でヴァーチャルな人生を生きることができる。それが物語だ。

この麻薬に取りつかれると、物語の無い人生、フィクションの無い人生に耐えきれなくなることもある。いわゆる「本に読まれる」状態だ。

それもまた困りものだが、限定され、不自由の極みである現実人生よりも楽しい人生を味わえることは、この世における大いなる恵みの一つである。

 

なぜ物語を書くのか。

それは、書き手にとって、それが楽しいからである。たいていの場合、自分の現実人生以上に。

したがって、物語を考えることが楽しくないなら、その人は物語作者としては大成できないだろう。

 

6 キャラクター

 

物語芸術におけるキャラクターとは何か。

それは、第一に作者の分身である。しかし、作者自身ではない。だから、作中人物を殺したり、悲惨な目に遭わせたりすることも作者はやる。

「赤毛のアン」の中には、アンが自分を悲劇のヒロインに見立てる場面がしばしば出てくる。悲劇は、それが本当に自分の身の上にふりかかったら、これほど悲しく苦しいものはないはずだ。しかし、アンが自分を悲劇のヒロインに見立てることで快感を得ているのは確かだ。これはなぜだろうか。

あるいは、お芝居としての悲劇を見る観客は、そこに何かの快感を得ているはずだ。それは何か。

「あなたは他人がひどい目に遭うのを見て面白いのですか?」と彼らに聞いたら、彼らは「自分はそんな残酷な人間ではない」と、憤然とするだろう。しかし、実際には彼らは悲劇を見て楽しんでいるのである。それが可能なのは、それが他人の身の上だからだ。

他人とは言っても、それが現実の人間の身の上なら、見る側も平静ではいられないだろう。しかし、芝居や小説の人物ならば、我々はそれがフィクションであると知っているから、その悲惨な身の上も平気で見ていられる。いや、平気ではない。我々は自分が感情移入をした人物の身の上を平静に見ることはできない。フィクションの中の好きな人物には幸せになってもらいたいし、嫌いな人物が悲惨な目に遭うと快哉を叫ぶ。

映画の初期の時代に、スクリーン上の悪漢にピストルを撃った観客がいたそうだが、その気持ちは誰にでもある。

これが、フィクションは第二の現実である、ということだが、フィクションの中の人物は、我々の愛憎の対象になるのである。その愛憎の感情が、ドラマを見る快感の土台だ。

アンの話に戻ると、アンは悲劇のヒロインがひどい目に遭うからそれを好んでいるわけではない。悲劇のヒロインとは、たいてい美女であり、気立ても良い。自分がそういう人物であったら、と空想するのがアンは好きなのだ。そして、ヒロインの受ける悲劇的運命は、「それを味わわなくてすむことの幸せ」を彼女に感じさせ、それがフィクションであることは彼女に「安全なスリル」を味わう機会を与える。

ある作家が書いていたが、作者が主人公を美男だとも美女だとも書いてないのに、読者は必ず主人公を美男か美女だと思い込むそうである。

それがフィクションのお約束だから、とも言えるが、実は読者の「そうあってほしい」という願望の反映だろう。自分が感情移入した人物と自分を同一化しているのだから、それが美男美女であってほしいのは当然だ。

 

「タッチ」の主人公は、最初、何の取り柄も無い男として周囲から馬鹿にされている。ところが、ヒロインの南は最初から主人公に肩入れしている。これは非常に巧妙なやり方である。ヒロインがさえない主人公に肩入れしているということは、主人公に潜在的能力や魅力があることを示している。勘のいい読者はすぐにそれを読み取って、主人公と自分を同一化する。そうすれば、主人公への周囲の無理解は、読者にとって「俺の真価を知らない周囲の連中の反応」と同一になるのである。これが読者にとって快感であることは言うまでもない。「今でこそ俺はさえない存在だが、いつか俺の才能や魅力をみんな知ることになるぞ」というわけである。まあ、そんな日はまず永遠に来ないのだが、「タッチ」を読んでいる間はそういう妄想に包まれ、快感を感じているわけだ。そもそも、現実人生では南のような子がすぐ近くにいるはずもない。

 

 

7 物語作成の技術

 

物語とは、突き詰めれば「問題と解決」である。さらに加えれば、「問題と解決と報酬」だ。主人公の身の上に起こる様々な問題を主人公が解決することで主人公は報酬を得る。それを読む者は、主人公に感情移入しているために、問題解決の快感と報酬取得の快感を得るわけである。『高慢と偏見』は、結局のところ、主人公の男女がすったもんだしたあげく、結ばれるというだけの話だ。しかし、作者の腕によって、読者はこの話に引きずられて、どんどん先へ先へと読み進め、その間「物語を読む快感」を得続けるのである。

作り手の側から言えば、「物語作成の技術」とは「問題作成の技術」である。

推理小説などは、その問題を数学的論理性の問題に特化し、キャラクターはその説明の道具となったものだ。もちろん、キャラクターで読ませる推理小説も多いが、本質と基本は「奇抜な謎」にある。

 

 

例題1「バレリーナとしては致命的な身体的欠陥を持った少女はバレーの世界でどう生きるか」解答「創作バレーの開拓者としてバレーの世界で成功する」(「テレプシコーラ」)

 

もちろん、「テレプシコーラ」は複雑な作品であり、影の主人公である少女は本物の天才だが、性格破産者の父親を持ち、極貧の家庭で生きている。彼女を支えるのはただバレーへの情熱だけである。昔のドラマなら、こちらが主人公になっていただろう。だが、彼女は顔も醜いのである。さらに、主人公の姉は、すべてに恵まれた才能を持ちながら、学校ではいじめに遭い、しかもステージでの事故でバレリーナとしては再起不能になる。

こうしたさまざまなトラブルに満ちた三人の少女の半生がドラマにならないわけはない。

つまり、ドラマとはトラブル(難問)から生じるのである。

作者というものは、作中人物を平気でトラブルの中に投げ込む冷酷さが必要だと言える。言い換えれば、人生の暗黒を見つめることができる強靭な神経が必要なのである。

 

(未完)

<<< 前のページ 次のページ >>>
プロフィール
HN:
冬山想南
性別:
非公開
P R
忍者ブログ [PR]

photo byAnghel. 
◎ Template by hanamaru.