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27 「男は男」

 

 A guy is a guy

 

I walked down the street

 like a good girl should

He followed me down the street 

like I knew he would

Because a guy is a guy

 whatever he may be

So listen and I‘ll tell you

what this fella did to me

(私、大通りを歩いていたの

もちろん、いい娘らしくふるまって

彼は私の後からついてきたの

もちろん、彼がそうすることは分かっていたわ

なぜって、男は男、どんな人間でも決まっているんだから

だから、私の話をお聞きなさい

こいつが私に何をしたかをね)

 

I walked to my house

like a good girl should

He followed me to my house

like I knew he would

Because a guy is a guy

whatever he may be

So listen while I tell you

what this fella did to me

(私、おうちに帰ったの

もちろん、いい娘らしくふるまって

彼は私の後からついてきたわ

もちろん、彼がそうすることは分かっていたわ

なぜって、男は男、どんな人間でもね

だから、少し聞いて

こいつが私に何をしたのかをね)

 

I never saw the boy before

so nothing could be sillier

At closer range

  his face was strange

But his manner was familiar

(私、その男の子とは初対面

だから、その子を家に入れるなんて馬鹿げている

近くで見たら、その子はおかしな顔してる

でも、その態度はなんだかいい感じ)

 

So I walked up the stairs

like a good girl should

He followed me up the stairs

like I knew he would

Because a guy is a guy

whatever he may be

So listen and I‘ll tell you

What this fella did to me

(それで、私階段を上ったの

もちろん、いい娘らしくふるまってね

彼は、私の後から上ってきたの

もちろん、彼がそうすることは分かっていたわ

なぜって、男は男、どんな人間でも決まっているんだから

だから、聞いてちょうだい

こいつが私に何をしたかを)

 

I step to my door

like a good girl should

He stopped at my door

like I knew he would

Because a guy is a guy

whatever he may be

So listen while I tell you

what this fella did to me

(私、ドアの前まで行ったの

もちろん、いい娘らしくふるまってね

彼は、ドアの前で立ち止まった

もちろん、彼がそうすることは分かっていた

なぜって、男は男、どんな人間でも決まっているんだから

だから、教えてあげる

こいつが私に何をしたのかをね)

 

He asked me for a good-night kiss

I said,“it‘s still a goodday”

I would have told him more except

His lips got in the way

(彼はお休みのキスを求めたの

私は言った「まだ昼間でしょう」

私、もう少し何か言おうとしたんだけど

彼の唇が迫ったの)

 

So I talked to my Ma

like a good girl should

And Ma talked to Pa

like I knew she would

And they all agreed on a

married life for me

The guy is my guy

wherever he may be

(それで、私はママに話した

いい娘らしくね

そしてママはパパに話した

多分そうすると思ってたけど

そして全員が賛成した

私は結婚するべきだって

だから、その男は今は私の男

どこを歩いていようともね) 

 

So I walked down the aisle

like a good girl should

He followed me down the aisle

like I knew he would

Because a guy is a guy

wherever he may be

And now you‘ve heard the story

of what someone did to me

And that‘s what he did to me

(だから今、私は教会の中央通路を歩いている

彼は私の後から歩いてくる

そうなるような気がしていたの

なぜって、男は男、どこにいようともね

さて、これで私の話はお仕舞

これが、誰かが私にしたことの一部始終

彼が私にしたことの一部始終よ!)

 

 

1951年のドリス・デイのヒット曲。作詞はオスカー・ブランドという男らしいが、18世紀初頭の古い英国の歌をアレンジしたものだとかいうことだ。いわゆるコミック・ソングである。「男はみんな狼」という俗言の逆パターンと言うべきか。もちろん、この歌の主人公が、うぶな娘らしくふるまって、男が網にかかるのを待つ悪女であるというのではないが、18世紀イギリスの女性が結婚に至るには、男にいかにして求婚させるかの涙ぐましい努力が必要であったのは事実だろう。

 歌詞としては、「こいつがこの娘にいったい何をしたんだろう」と観客や聴衆の興味をかきたてて長々と引っ張り、結局、教会の結婚というアンチクライマックスで落として笑わせるという、「我輩は猫である」の寒月のヴァイオリン購入事件の話のタイプである。

私は英語力が無いことでは自信があるので、ほとんど直感で訳しているのだが、この詩のポイントはshouldとwouldの訳にあると思う。私の考えでは、shouldは義務・当然的意味が中心で、したがって、「a good girl should」は、良家の子女として当然の振る舞いという趣旨になる。ただし、この主人公は、多分、中流家庭の娘で、良家の子女を気取っているだけだろう。「fella」や「guy」という言葉づかいで、すでにお里が知れているという感じだ。

一方、wouldの方は習慣的行為が中心で、だから「like I knew he would」は、「男というものの習慣的行動から判断して、彼がそう振る舞うであろうと私が知っているように」という趣旨になる。(な、長い……)

 とは言っても、この私の考えに自信があるわけではなく、ただ、自分の直感を信じて訳しているだけだから、細部の訳は意訳というより誤訳もあるだろう。たとえば、「彼がお休みのキスを求めたとき」の連の後半2行は、あまり自信がない。「I would have told」なんてのは文法的には何と言うのかもわからないが、過去完了未来とでもいうのか、仮定法過去とでも言うのか、日本人にはややこしい。多分、仮定法だと思うのだが、ここでは習慣のwouldでないことは確かだ。また、彼の唇がどうのこうのの訳も、「got in the way」とは、「接吻に至る道の途上にある」のだろうと思って、「唇が迫った」と訳したが、はたして正解かどうか。私の解釈では、その唇が迫った後、そのboyと彼女はキスをしたのであり、それが書かれていない、いわば行間の部分が面白いのではないかと思う。

 念のために言うが、最後の連の「教会の中央通路」をバージンロードと言うことを私は知らないわけではない。ただ、あまり好みの言い方ではないので、「中央通路」などという固い言い方にしただけだ。これは無知や誤訳とは別の問題なのである。

 まあ、権威ある英語学者の訳ではないのだから、その辺は大目に見て、もとの歌詞の面白さを楽しんでもらえればいい。



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26 「道路の陽の当る側」(「サニーサイド・オブ・ザ・ストリート」)

 

On the sunny side of the street

 

Grab your coat and get your hat

Leave your worries on the doorstep

Life can be so sweet

On the sunny side of the street

(コートを掴み、帽子を手にして

悩みはドアステップに置き去りにしよう

人生は素晴らしいものになるさ

道路の陽の当る側に出れば)

 

Can‘t you hear the pitter-pat?

And that happy tune is your step

Life can be complete

On the sunny side of the street

(あの雨の音が聞こえないかい

あの楽しげな音は君の足音さ

人生は完全なものになるさ

道路の陽の当る側に出れば)

 

* I used to walk in the shade

with those blues on parade

But I‘m not afraid

because this rover crossed over!

(おいらの心ではいつも楽隊がブルースを演奏し

おいらはいつも道路の陰を歩いていた

でも今は、悩みの強盗どもはみな死んじまったんだ!)

 

And if I never have a cent

I‘d be rich as Rokkefeller

With gold dust at my feet

On the sunny side of the street

(もしも1セントも無くっても

おいらはロックフェラーみたいに金持ちさ

おいらの足元には金の埃が舞っている

道路のこの陽の当る側でなら)

 

  リフレーン

 

And if I never had a cent

I‘d be rich as“Harry Belafonte”

With “Barry Goldwater”at my feet

On the sunny side of the street

(もしも1セントも無くっても

おいらは「バリー・ゴールドウォーター」を足元に膝まづかせた「ハリー・ベラフォンテ」くらいに金持ちさ

道路のこの陽の当る側にいれば)

 

 

題名が「陽の当る道」などと訳されることもあるが、それだと歌の趣旨が不明になる。これは、道路を陽の当る側と当らない側に分けたものだろう。

 犬儒派の哲学者ディオゲネスが日向ぼっこをしていると、アレクサンダー大王がその前に立って、「お前の欲しいものを何でもやろう、何が欲しいか」と聞いた。するとディオゲネスはうるさそうに大王を見上げ、「そこをどいて太陽をさえぎらないでくれれば十分だ」と言ったという。その後、アレクサンダーは「自分がアレクサンダーでなければディオゲネスでありたい」と言ったとかいう話だが、人の幸せにとって、どれだけのものが必要か、というと、実はそれほど大したものはいらない。黄金も、足元の埃が太陽に照らされて黄金色に光るのも、美しさという点では同じである。ただ、多くの人は、足元の埃は無価値だと思い、黄金は価値があると思っている。

 つまり、人生を生きるのに、道路の日陰の部分を選んで生きるのも、陽の当る側を選んで生きるのも、実は個人の選択であり、金が1セントも無くても、ロックフェラーよりも豊かな気持ちで生きることは可能なのである。さあ、悩みはドアステップに投げ捨て、道路の陽の当る側に出てみよう! と思えれば幸せなのだが……。

 歌詞で疑問なのは、最後の連で「ハリー・ベラフォンテ」や「バリー・ゴールドウォーター」が出てくることで、この歌は1930年に作られた歌だというが、トニー・ベネット版では、あるいは当時の有名人の名に入れ替えたのかもしれない。バリー・ゴールドウォーターはがちがちの保守派政治家で、保守派とは金持ちの味方の別名だから、このような貧乏人側に立った歌では揶揄の対象となったのかもしれない。

 






25 「スターダスト」

 

 Star dust

 

And now the purple dusk of twilight time

Steals across the meadow of my heart

Love is now the stardust of yesterday

The music of the years gone by

(そして今、黄昏の紫色の翳が僕の心の草原に忍び込む

愛は今、昨日の星屑、去った年月の音楽となる)

 

Sometime I wonder 

why I spend the lonely nights

Dreaming of a song

The melody haunts my reverie

And I am once again with you

When our love was new

And each kiss,an inspiration

(時々、僕は不思議に思う

なぜ僕は孤独な夜々を過ごすのか

一つの歌を思いながら

そのメロディは僕の空想に付きまとう

そして再び、僕は君と共にいる

僕たちの恋が新しく

すべてのキスが霊感だった頃の君と)

 

Beside a garden wall

   where stars are bright

You are in my arms

A nightingale sing its fairy tale

Of paradise where roses bloom

(庭園の壁のそば

星は明るく輝き

君は僕の腕の中に

ナイチンゲールは御伽噺の曲を歌う

薔薇の咲く天国の曲を)

 

Though I dream in vain

In my heart it will remain

That stardust melody

The memory of love‘s refrain

(その夢は空しい夢だが

僕の心の中にまだ残っている

その星屑のメロディ、それは

繰り返す愛の思い出)

 

 

ホーギー・カーマイケルの有名なスタンダードナンバーで、ビング・クロスビー他、多くの歌手が歌っている。年配の人には、「シャボン玉ホリデー」のエンディングテーマとして覚えている人も多いだろう。

通俗的道具立てで構成された詩の代表のようなものだが、しかし、庭園の壁のそばで見上げる星空の輝きのイメージだけでも、永遠のスタンダードナンバーとなる資格がある。

甘い悲哀というものが歌の一番の要素であるというのは不思議な気がするが、我々は失恋など経験したいとは思わなくても、歌となると、なぜか失恋を好んで歌う、あるいは好んで聞くのである。それによって、一種のカタルシスが得られるのだろうか。

第一連の「meadow」は、ポップスに頻出する言葉だが、「そうげん」ではなく、「くさはら」の草原である。林にでも囲まれた、居心地のよいスポットくらいの感じだろう。だから、「心の草原」という表現にもなるわけだ。サバンナ的な大草原では、黄昏の紫色の翳が忍び寄るイメージにはならない。 

 ナイチンゲールも西欧の文学にはよく出るが、どんな鳴き声なのかは想像もつかない。まあ、人それぞれに適当に想像すればいいだけだ。詩や文学の鑑賞とは、読む人聞く人がめいめいの想像力で心の中に二次創作をすることなのである。

 








24 「私を月まで連れてって」(「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」)

 

Fly me to the moon

 

Fly me to the moon (and)

Let me play among the stars

Let me see what spring is like

On Jupiter and Mars

In other words,hold my hands

In other words,baby kiss me

(私を月まで舞い上がらせて

星の間で遊ばせて

木星や火星の春はどんなか見せて

別の言葉で言うなら、私の手をとって

簡単に言えば、私にキスして)

 

Fill my heart with song

Let me sing for ever more

You are all I long for

All I worship and adore

In other words,please be true

In other wouds,I love you

(私の心を歌で満たして

私を永遠よりも長く歌わせて

あなたは私が待ち望んだ人

私が賛美し崇拝する人

別の言葉で言うなら、どうか私に本気になって

言い換えれば、私はあなたを愛しています)

 

 

あまりにも多くの歌手が歌っている歌だが、女の歌手が歌う場合には第一連の「baby kiss me」を「darling kiss me」にして歌うと思われる。どちらかと言うと、女の歌手に似合う歌のような気がする。若い人(もう、それほどでもないかもしれないが)なら、「エバンゲリオン」のエンディング・テーマでこの曲が好きになったという人も多いだろう。あれもなかなか洒落ていて良いものだった。

スタンダード・ナンバーには、前フリのある歌が多いが、これもその一つで、「詩人は簡単なことを言うにも多くの言葉を使うが……」云々という前フリがある。この歌詞のキモも「in other words」の部分にあるのは一目瞭然だが、それを洒落ていると見る人と、幼稚な技巧だと見る人と、二通りに分かれるようだ。もちろん、私は肯定派である。ポップスの歌詞は浅く軽快なものも、深く哲学的なものも、どちらも大事なのであり、そのどちらかしか認めないというのはつまらない偏狭さだろう。

歌詞の中の「worship」や「adore」を大袈裟だというのは馬鹿な考えで、それが「簡単に言えば」―「愛しています」だから面白いのである。

 







23 「サークル・ゲーム」

 

 The circle game

 

Yesterday a child came out to wonder

Cught a dragonfry inside a jar

Fearful when the sky was ful of thunder

And tearful at the falling of a star

(昨日、一人の子供が外に出て世界に目を瞠った

トンボを捕まえてビンの中に入れ

空一杯の雷には怖がって

星が落ちるのを見て涙を流す)

 

Then the child moved 

ten times round the seasons

Skated over ten clear frozen streams

Words like“When you‘re older”

must appease him

And promise of “someday”

make his dreams

(そして子供は巡り来る季節を10回繰り返し

きれいに凍った川の上で10回スケートをした

「大人になったら」の言葉が彼をなだめ

「いつか」の約束が彼の夢を作る)

 

*And the seasons,they go round and round

And the painted ponies go up and down

We‘re captive on the carousel of time

We can‘t return,we can only look

Behind from where we came

And go round and round and round

In the circle game

(そして季節はくるくる回り

ペンキ塗りの木馬は上がって下がる

私たちは時の回転木馬のとらわれ人

戻れない、ただ眺めるだけ

私たちが来た道を、背中の向こうに

そしてサークルゲームの中で

いつまでも回り続けるの)

 

Sixteen springs and sixteen summers

 gone now

Cartwheel lost to car wheels 

through the town

And they tell him,“Take your time,

 it won‘t be long now

Till you drag your feet

 to slow the circle down.“

(16回の春と16回の夏が過ぎ

馬車の車輪は自動車の車輪に変わる

彼らは彼に言う、「気楽にやりな、長くはないさ

お前が足を引きずってその輪を遅くできるまでにはな」)

 

So the boy who dreamed tomorrow

 now is 20

Though his dreams have lost

 some grandeur coming true

There‘ll be new dreams,

maybe better dreams and plenty

Before the last revolving years

 is through

(そして夢を見ていた少年は今20歳

彼の夢は小さくなったけど現実になった

新しい数々の夢もできるでしょう

もっと良い夢で数も多くなるでしょう

繰り返す年の最後の年が終わるまでに)

 

  リフレーンを数回繰り返す

 

 

ジュディ・コリンズの作詞作曲で、バフィ・セントメリーの歌、映画「いちご白書」の主題曲でもある。

前半は分かりやすいが、後半が分かりにくい。少年の日の夢がすべて実現しないままに終わるという話かと思うと、夢が実現するだけでなく、もっと良くなるという人生肯定的内容になってしまう。リフレーン部分の「私たちは(無力な)時の回転木馬のとりこ」という内容と、矛盾するように思うのだが、解釈の間違いでもあるのかもしれない。だが、いい歌なので、ここに載せることにする。

なお、ジュディ・コリンズには、「青春の光と影」という名曲もあるが、今回はこちらを選ぶことにした。

  




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