#2 何を読み取るか
森村誠一のあるエッセイを読んでいたら、その中に山本周五郎の短編の話が出てきたのだが、それを読んで奇妙な思いにとらわれた。ある下級侍の悲壮な死の話なのだが、その死に方が宮谷一彦の傑作漫画「ワンペア・プラス・ワン」の死に方とまったく同じなのである。(その死に方が話全体に大きな意味を持つ死に方なのだが、ネタばらしになるのでこれ以上は言えない。推理小説に限らず、未読の人の感動を削ぐネタばらしはするべきではない。)奇妙だというのは、実は私は山本周五郎のこの作品も宮谷一彦の作品も読んでいたはずなのに、このエッセイを読むまで、私はこの両作品の類似性にまったく気がつかなかったからである。一方が時代劇で、もう一方が現代劇だという相違もあるが、それよりももっと大きな原因は、一方は文章で、もう一方は視覚的なメディアだという違いだろう。要するに、私には文章をイメージ化する能力が無かったということである。だから、最初から視覚的表現として与えられたテーマに感動することはできたが、文章からは十分な感動は得られなかったのである。これは山本周五郎の作家としての手腕の問題では決してなく、私自身の文章受容能力の問題である。なにしろ、森村誠一は、この作品と出会うことによって作家を目指したというのだから。
同じ本を読んでも受け取るものはそれぞれ違うということを案外誰もわかっていない。作品を批判する前に、まずは、「自分は読めているか」と反省するべきだろう。
#1 山は流れ、水は流れず
本の読み方にもいろいろあるが、本の中の一節だけを読むのも、読書の意義は十分にあると私は考えている。ショーペンハウエルが批判しているような、自分ではまったく考えず、自分の頭を他人の思想の運動場にするような読み方も若い頃には悪くはないが、本に書かれたことをヒントにあれこれ思いをめぐらせるほうがずっと面白いものである。
哲学書の類も、そうした読み方をするなら気楽に楽しく読めるのではないだろうか。鴎外も漱石も言っているように、どんな偉人だろうが我々のちょっと偉い者にすぎないので、何も最初から恐れ入り、畏まって読む必要はないのである。
「山は流れ、水は流れず」は、道元の「正法眼蔵」の中に出てくる言葉らしい。私がそんな書物を読むわけはないが、ある解説書にそう出ていた。その本自体は真面目すぎて面白くなかったが、この言葉は面白いと思った。これは仏教を学ぶ心得を述べたもので、まず「山流、水不流」を心に置くところから入れというのである。たとえば魚にとっては、水は宮殿であり、高楼であって、流れてはいない。人間にとっての美人は動物からは怪物だ。そんな風に、あらゆる我見や差別相を離れて物を見ることが仏教の第一歩だというのである。
言うは易く行うは難しで、この言葉を知っても我々が物にとらわれる気持ちを無くすことはなかなかできないが、少なくともこの言葉を思い出した時にはしばらくは煩悩から逃れることもできそうだ。気ままな、断片的読書にもこういう効用はある。
その頃、娘が小学校低学年だったが、国語の宿題に「メモ日記」というのを書かされていて、要するにメモ程度の短い文章で日記を書くというものだったと思う。その題名を借りて、私の作文練習も「メモ日記」と名付けた。
案外長い間書いたが、内容はもちろん日記ではなく、エッセイである。毎日習慣的に書いたという点で「日記」と言っているだけだ。
その「メモ日記」を、これから載せていくつもりだが、特にこのブログに書きたい事柄が出てきた時はその連載を中止して書きたい内容の記事を書く予定である。
(以下引用)
歌の意味[編集]
貧しい放浪者が羊泥棒を働いて、追いつめられて沼に飛び込んで自殺するというストーリーの歌である。
ワルチングは「当てもなくさまよい歩く」という意味である(この曲は、ワルツの三拍子ではない)。身寄りのない一人の貧しい放浪者が唯一抱きしめられるのが毛布だけで、その毛布にマチルダと女性の名前をつけてオーストラリア大陸をさまようという設定である。
歌詞についてはいろいろバリエーションがあるが、その一つの大意は以下の通り。
ある日、陽気なスワッグマン(Swagman, オーストラリア英語で放浪者の意)がビラボン(同じく三日月湖や大きな水たまり、沼の意)のそばに野宿していると、羊が水を飲みにやって来た。どこかの農場主の羊であるに違いないが、あまりにも飢えていた彼は捕まえて食べた。残りの肉はずだ袋に入れて、歌った。「Who'll come a-walzing Matilda with me? 誰か俺と一緒にマチルダワルツ(毛布ひとつで放浪)するやつはいないか。」
やがて、3人の警官がやって来た。「お前のその袋の中に、盗んだ羊があるだろう?」。捕まれば縛り首になることがわかっていた彼は「You'll never take ma alive. お前らなんかに、おめおめ生きて捕まるもんか」と言って、沼へと跳びこんだ。
今でもその沼のそばを通れば、幽霊の歌声が聞こえるらしい。「誰か俺と一緒に放浪するやつはいないか?」と。
第四章 ローマ化したキリスト(ユダヤ)教
ローマ帝国におけるキリスト教の国教化は、まず313年のミラノ勅令によるキリスト教公認から始まり、ニケーア公会議での教義の統一、そして392年のテオドシウス帝の布令で国教となるという過程を経ている。
なぜ、キリスト教がローマ国教となったのか。推測できるのは、当然ながら宗教の政治利用である。多神教よりも一神教の方が権力の源泉として強力であることに気づいた人間が、ローマ政府内部にいて、皇帝に進言したのだろう。もちろん、弾圧しても弾圧しても抑えられないキリスト教信者の対策に費やすエネルギーが無駄であるという判断もあっただろうし、もともと、ローマ人は宗教的民族ではないから、宗教など何でもいい、と思ったのかもしれない。公認以前のキリスト教徒に対して、ローマ皇帝たちは皇帝崇拝を拒否しているという理由で弾圧を繰り返したが、ことごとく失敗した結果、弾圧は非効率的だと反省したのが、おそらく主な理由だろう。
さて、ローマに公認されたことは、キリスト教にとって良かったかどうか。もちろん、弾圧が無くなったことは良いだろう。だが、ニケーア公会議などでの教義の統一は、つまり、信仰の自由度が減ったということだ。もともと、キリストの死後に、伝承者が自分の主観をまじえて作った「キリスト教」であり、本来はキリストの思想に対しては様々な議論や解釈が可能だったはずだが、国教化された後では、自由な解釈は不可能になったのである。ニケーア公会議では、イエスの人性を強く主張するアリウス派は異端だとされて追放されることになった。エフェソス公会議ではネストリウス派が同じ憂き目を見た。そして、聖書の中に見られるイエスの思想よりも、教会内の学者たちの解釈によって、「新キリスト教」が形成されていったのである。それは、イエスの思想よりも、むしろユダヤ教に近い思想である。つまり、イエスの強調した信仰の内面性はほとんど消え、ただ現世における善悪の結果として死後の裁きが行われ、ある者は天国に行き、ある者は煉獄や地獄に行くという、非常に分かりやすく、浅薄な宗教と化したのである。その浅薄さのカモフラージュに、三位一体説とか原罪思想などが持ち込まれ、宗教論争は無意味な空理空論と化したのである。そして、もちろん、無知な大衆を導く存在として教会が絶対的な権威となっていった。なにしろ、国家公認の国教なのだから、誰も教会には逆らえない。政権そのものが後にローマ教会にあれほど苦しめられるとは、キリスト教を国教化した時点では誰も想像できなかっただろう。なにしろ、カノッサの屈辱のような、王権が神権の前に跪くという信じがたい事態が後には生じるのだから。
そして、こうして作られた「キリスト教」つまり、看板を付け替え、儀式性が簡略化されたユダヤ教は、宗教改革などでもその根本部分が変わることはなく、現在に至っている。
結語
以上で、この小論は終わりである。キリスト教信者やユダヤ教信者には失礼な事ばかり書いてあるが、実は私が言いたいのは、一神教的世界観から来る西欧人種的発想の危険性なのである。本論中に述べたように、神に対する倫理と人間に対する倫理のダブルスタンダードの結果、西欧人種は、世界にとって危険な存在となっている。彼らの推進する自由貿易は、必ずと言っていいほどその相手国を貧困に落としいれ、西欧国家との間で恒常的な貿易を続ける限り(、モノカルチャーのプランテーションに縛られたアフリカ諸国のように)貧困から抜け出せない。そして、彼らの最大の特徴は、自分たちのルールを相手に押し付け、都合が悪くなるとそのルールそのものを平気で変えることだ。つまり、彼らには異民族や異人種へのモラルは無いのである。彼らのモラルは、あくまでキリスト教、もしくはユダヤ教を信じる同朋に対してのみ存在し、神を知らない異民族に対してのモラルなど存在しない。だから、東洋人やアフリカ人に対する西欧人の食言は当たり前の行為である。
現在、神の存在を信じている人間は、本当は西欧人にも多くはないはずだ。社会の上位層が嘘ばかりついていて、弱者の不幸に対して無関心で、毎年のように何万人もの人間が銃で死んでも平気で、何の正当な理由も無く他国に攻め込んでそこの住民を虐殺することを延々と続ける、アメリカのような国は、果たしてキリスト教国家なのだろうか。もしも、キリスト教という宗教がそれを許容するなら、キリスト教にはまったく価値は無い。アメリカ社会の上位層の多くはユダヤ人だから、ユダヤ教も同様だ。彼らは本当に、自分の宗教を信じているのだろうか。それとも、やはり、彼らの宗教とモラルは同朋に対してのみのものなのか。神への信仰が無くなった状態の(そして一神教的独善性のみを残した)西欧人とは、より悪質な、アモラル(無道徳)な存在となるのである。
私のこの文章を、非キリスト教徒の独断と偏見だと思う人も多いだろう。だが、これは、世界中の人間がキリスト教やユダヤ教に対して抱いている疑いを、歴史的な聖書と教会(私の言う「新キリスト教」)のあり方の分裂の点から切り込み、分析して考察したものにすぎないのである。同じような事を、紳士的に書けば、たとえば次のようなものになる。これは中央公論社刊「世界の名著13『聖書』」の責任編集者で、ご自身も敬虔なキリスト教徒である前田護郎氏の、同著作の序文中の一節である。
「キリスト教教会の歴史には東西ローマの分裂とか、血なまぐさい十字軍とか、残酷な宗教裁判とかがつづき、教会の権威が学問を圧迫したこともあり、近代になってもキリスト教徒同士の争いは絶えない。今世紀の二度の大戦で、いわゆるキリスト教国が大量殺人をしたので、教会はかなえの軽重を問われている。アジア、アフリカの人々の多くにとって、キリスト教は植民地帝国主義者の宗教である。六日間非キリスト教徒を搾取して七日目に教会へ行く人々がキリスト教徒である、という人が彼らの中にある。キリスト教国といわれる地域の中にも、白人と黒人とが別々の教会へ行かねばならぬほど人種的偏見が強いところがある。
われわれ日本人にとっては、スペイン、ポルトガルの侵略に協力したキリシタン・バテレンの歴史も忘れがたく、現代では、原子爆弾や戦争裁判に関係した諸国のキリスト教会の態度が問題にされるという事実も否定しえない。
しかし、これらはいずれもキリスト教会あるいはキリスト教徒のことであって、彼らによって聖書の精神が無視あるいは曲解されて、一部の人々の勢力を守るために他が犠牲にされた不祥事である。聖書と宗教体制としてのキリスト教会とを混同してはならない。」
この言葉は、私などよりよほど過激に、キリスト教会とキリスト教徒を批判しており、私が言いたいことの要点を尽くしている。同じ文中に、「哲学者ヤスパースが聖書の宗教をキリスト教と区別して扱うのは注目すべき例である」と述べているのも、同様である。
要するに、私が述べたことを一言で言えば、「キリストは『キリスト教徒』ではない」ということだ。逆に、「『キリスト教徒』はキリストの教えが分かっていない」と言ってもいい。
西欧人種は、彼ら自身の内面、彼らの宗教の根本を考える必要がある。日本人は? 我々は、宗教に規制されなくても、社会的モラルを守るという伝統がある。(その伝統も、西欧文明化=グローバリズムや西欧的拝金主義によってあやしくなってきたが。)日本人に必要なのは、そうした西欧人種の正体を知り、西欧人の利益のための「グローバル化」と「西欧化」をこのまま進めていいのかどうか反省することだろう。特に英語の世界語化による言語的階層世界への組み入れや、あるいは無意識の西欧崇拝根性育成の意味を。
世界中で、政治的な植民地的侵略の尖兵となった「キリスト教」に侵されなかった国はおそらく日本だけである。それは、「キリスト教」の侵略者的役割を見抜いた秀吉と家康の鎖国という英断によるものだ。他のアジア・アフリカ諸国はみな、「キリスト教」の宣教をカモフラージュとした侵略に国を食い荒らされたのである。その日本が今や、グローバル化という第二の植民地化の波に飲み込まれようとしているのである。ここで、「キリスト教」と西欧人種の本質についてよく考えておく必要があるだろう。
ついでながら、西欧植民地主義はけっして過去の話ではない。西欧人は、自分の植民地が独立した後でも、現地人政治指導者を傀儡として使うなど、何らかの形で、その植民地を支配しているのである。(自分たちの気に入らない政権が出来てしまった場合は「民主的指導者」を支援してその国に「革命」を起こさせる。)それは日本に対しても同じであり、被占領国であった日本はサンフランシスコ平和条約で形式的には独立したが、それと同時に結んだ日米安保条約で国内に米軍基地を置くことを余儀なくされ、米国への反抗は半永久的に不可能になったのである。(戦後すぐに、アメリカの政治資金と工作によって出来た政党が現在のJ民党である。その日本側の中心人物が本来なら戦犯である岸信介であることからも、アメリカの政治のニヒルなほどの現実主義がわかるだろう。)日本の政治はアメリカからの年次改革要望書などの形でアメリカから常にコントロールされており、一部の人間の間ではすでに常識だが、日本は決して本当の意味での独立国家ではないのだ。
しかし、政治的な次元での支配、つまり表面化している植民地的支配は、実はそれほど危険ではない。もっとも危険なのは、精神的な支配、我々の中に内面化された、自発的な被支配根性、奴隷根性である。支配のプロであるかつてのローマ帝国が被植民地の民族に養成しようとしてきたのも、自発的に支配に従う精神であり、「キリスト教」の利用もその一つである。話はキリスト教だけのことではないのだ。あらゆる宗教は政治との持ちつ持たれつの関係によってその力を拡大するのである。その信者には本来は罪はない。だが、政治と結びついたその行動によって彼らは世界全体に大きな被害を与えるのである。
「宗教は阿片である」という言葉は、それを言った人間が〈マルキシズム〉という「宗教的政治思想」の提唱者であるだけに価値を減じているが、その言葉自体は正しい。阿片は確かに現世の苦痛から逃避させてくれるというメリットがあり、終末期医療の手段としてなら大いに結構なものだが、現実的認識と行動を不可能にさせるという極端なデメリットがある。その危険性を再認識してもらうことが、私がこの小文を書いた理由の一つである。
[補記] 神の存在については、中江兆民が『続一年有半』の中で完全に論破している。この書は、世界の哲学書の中でもっともすぐれたものの一つだが、その内容が西欧精神の根本を否定しているために、これまで批評の対象とならなかったものである。興味のある人は、是非、一読を願いたい。
2008年 11月24日 記
2009年 8月24日 一部改稿
2009年 12月8日 一部追加