#7 季節と日本人
日本人の季節感を決定したのは「枕草子」だろうと思われるが、「源氏物語」にしても季節感と物語の結びつきは非常に強い。この両者の後世に与えた影響は大きい。もちろん、「枕草子」以前から人々は歌の中に季節の風物と、それに寄せる思いを詠んできた。「枕草子」の功績は、それを散文として書くことで人々に改めてそれを意識させ、その重要性を感じさせたところにあるのである。おそらく紫式部が「枕草子」を読んだ時の「技痒」は大変なものだったに違いない。嫉妬、羨望すら覚えただろう。それが「紫式部日記」の中の有名な清少納言批判になっているのではないか。もちろん、中宮定子派、中宮彰子派という政治的立場もあったはずだが。
日本人の生活は季節との関わりを抜きにしては考えられない。といっても、それはこれまでの話で、冷暖房付きの家に住み、ハウス栽培の,季節感の無い野菜を食べて育った今の日本人が季節を感じるのはせいぜい通勤や通学の間に道を歩く時間だけのことである。しかもその間すら、周りの風物を眺めることすらせず、若者も大人もひたすら携帯電話でなにやら忙しげに話している。
あなたが最後に空を眺めたのは、いつだろうか。夕焼けや虹のかかった空に感嘆の眼差しを向けたのはいつのことだったか。クーラーの風ではなく、自然の風にうっとりとなったのはいつだったのか。そうした喜びはけっして小さなものではないはずなのだが。
#6 学生運動と近親憎悪
中野翠は私の好きなコラムニストの一人だが、彼女に一つだけ気に入らない所がある。政治を感情で語る所である。もともと本人も言っているように政治には詳しくないらしいのだが、大学生の頃、学生運動を少しやっていたらしく、「民青」に対して異常な嫌悪感を持っているようなのである。我々から見れば民青も革マルもその他も同じ左翼だが、彼らにとってはそれこそ不倶戴天の敵みたいなのである。そのため、たとえば「思ひ出ぽろぽろ」のような作品(高畑勲のアニメだ)に対しても、「民青セーンス」とやっつけ、それで批評したつもりになっているようなのだが、読む方はなにしろ民青そのものを知らないのだから途方に暮れてしまう。どうやら、民青のヴ・ナロード(人民の中へ)的な手法や感覚の偽善性に我慢がならん、ということらしいのだが、書き方が冷静でないので、それがなぜいけないのかよく分からない。
思うに、学生運動をしていた人間というものは、体制よりも同じ左翼の他派閥を激しく憎むという点に共通した特徴がある。それがいわゆる内ゲバとなったりして彼らに同情的であった世間の人間たちからも愛想を尽かされることになるのだが、彼ら自身には、その点についての反省がまったくない、というのも興味深いところである。彼らのそうした心性や行動が、まさしく体制維持にとっては好都合であり、学生運動が長く続かなかった一つの原因であるのだが、かつての左翼青年たちは今、その事をどう思っているのだろうか。
#5 消えた本
本というものは買っておくべきものである。そして、できるだけ捨てないほうがいい。というのは、出版物には寿命があるからである。子供のころ読んで面白かった本をもう一度読んでみたいと思っても、既に書店の棚には無い、というのはよくある事である。
おそらく今の人々はドーデーなど読まないだろうし、彼の「タルタラン・ド・タラスコン」などというユーモア小説の存在も知らないだろう。べつにそれが名作だというわけではない。「最後の授業」などで一時期有名だった彼の人気に便乗して訳されただけの二流三流の作品だ。しかし、昔読んだ本には、その頃へのノスタルジーがまといついており、他のどんな本にも得られない「自分だけの」感情の記憶があるのである。そしてそれは、あるいはどんな莫大な金を使っても二度と手に入れられないものかもしれないのだ。プルーストのように、自分の後半生を自分の前半生の記憶を思い出し、(フィクションの形でだが)記録することに費やした人間もいる。
たとえ新しい翻訳が出ていても、昔の翻訳でなければいけないのである。「赤毛のアン」は多くの人が訳しているが、村岡花子の訳以外は考えられないという人は多いはずだ。「白鯨」は今では阿部知二訳しか書店には見あたらないが、私は、自分が子供の頃読んだ、名前の知れない翻訳者の訳のほうが優れていたと思っている。それが錯覚でも、私にとってはそうなのだ。だから、本はけっして捨ててはいけないのである。
#4 読み癖
人それぞれに本の読み癖というものはあって、たとえば推理小説を読むのでも、犯人が誰なのか考えながら読む人はけっこう多いようだ。いやそちらのほうがむしろ普通かもしれない。で、私がいやなのは、自分は推理小説の犯人がたいてい途中でわかってしまう、滅多にそれが外れることはないと自慢する人間が時々いることだ。
私は、自慢ではないが、推理小説を読んで犯人が当たったためしがないし、そもそも犯人を当てようとか、トリックを解明しようなどと考えながら読んだことはほとんど無い。自分の頭脳ではそんなことは不可能だと最初からあきらめているのである。だからこそ、先に書いたような人間の自慢話がしゃくにさわるのだが、それがしゃくにさわるのは、そういう人間の自慢話が本当か嘘か証明のしようがないことだ。証明のしようのない事を自慢されても、聞く方は「ああ、そうですか」と拝聴するしかないのだが、これは相当に不愉快なものである。まるで、推理小説の犯人がわかったためしの無いこちらが馬鹿か白痴のような気分になる。まあ、本当は、そういう人間の言葉など私は信じてはいないのだが。
そもそも、映画を見たり、小説を読んだりするのに、先の展開を考えながら見たり読んだりする人間の気持ちが私には分からない。それでは映画や本が、ただの当て物になってしまうではないか。私はむしろ、思いがけない意外な展開に驚きたい。そのためには、先の予測などしないにこしたことはないのである。
#3 テロリストの祝祭
藤原伊織の「テロリストのパラソル」「ひまわりの祝祭」の二作を読んだ後、どちらもなんだかすっきりしない澱のようなものが残るが、それが何なのか考えてみた。一つは題名である。どちらもテーマに関係があるといえばそうではあるが、なんだかちぐはぐですっきりしない題名である。格好の付けすぎというか何と言うか。だが、格好をつけるのがハードボイルド小説なのだから、それに文句を言っても仕方がない。
それよりも困るのは、この両作品に共通する「裏切り」のテーマである。まあ、これはハードボイルドのお約束だから、ネタばらしをしても差し支えないだろうと思って言うのだが、この裏切りがまさにハードボイルドの定型を守ろうとして作ったような不自然な印象なのだ。どちらの作品でも主人公は信じていた人間に裏切られるのだが、超人的な頭脳を持ち、他人をクールに眺めているはずの主人公が、自分を裏切るような人間をそんなに簡単に信じていいのかな、と思ってしまう。読み手としてはこんなに頭のいい主人公が信じている人間なのだから信頼に値するいい人間なのだろうと思っていると、それが悪い奴だったりするから意外というよりは騙された気分になる。おそらくこれは作者がハードボイルドの文法に忠実であろうとし過ぎるあまりに読者の生理を忘れた「ミス」だろうと私は思う。まあ、上手な作品なんだからそれだけで十分だと言ってしまえばそれまでだが。
ところで、この駄文の題名の方が言葉の結びつきはいいと思いませんか?