#13 学生運動の言葉
今の日本で政治について考える学生は僅かだろうと思うが、学生たちが政治にまったく無関心になっているのは、日本がエネルギーを失い、緩慢に自殺しつつあることを示しているのではないだろうか。といっても、私自身はかつての学生運動には恐怖と嫌悪感しか持っていなかった人間である。若者というものは、大半は実は無知で臆病なものだろうが、少なくとも私はそうだったのだ。学生運動などして政府に睨まれ、一生を棒に振るなんて御免だと思っていたのである。実際には、体制側に見事に転向した人も多いのだが。
今にして思えば、学生運動に加わった人々は、やはりその当時は真剣で誠実で勇気があったのだ。たとえわけもわからず運動に加わっていた物好きや野次馬や、鼻持ちならない気障なロマンチストがその中にいたとしても、それで全体を判断すべきではない。
しかし、彼らの運動は、大衆の支持を得られず消えていった。その第一の理由は、学生運動の持つ暴力性のイメージが嫌われたことであり、もう一つは彼らの言葉が大衆には通じなかったことである。長い間の支配層の洗脳によって、共産主義に対して潜在的な恐怖感を持っている大衆には、難解なマルクス主義用語をちりばめた演説は嫌悪感しか抱かせないということに、なぜ彼らの誰一人として気づかなかったのか、不思議でならない。私は共産主義に与する者ではないが、日本が今のように腐敗したのは、学生運動の失敗によって人々が社会や政治の変革をあきらめたことが原因の一つだと残念に思っている。
#11 ザイン、ゾルレン、シャイネン
世の中には、覚えておくと思考の整理に役に立つ言葉がある。ザイン、ゾルレン、シャイネンもその一つだ。ザイン(存在すること、現実存在)とゾルレン(在るべきこと、理想や目標)はよく知られているが、シャイネンは私も最近知ったばかりである。シャイネンとは、「仮想すること、そうであるかのように見なすこと」のようだ。鴎外の「かのように」が、すなわちシャイネンであろう。「かのように」は、彼の処世哲学で、世の中の解決困難な諸問題について、とりあえず一つの立場をとって当座の答えを出しておくというものである。たとえば絶対神の存在について確信が持てないなら、とりあえず自分の今の気持ちに近い説を拠り所として、神がいる「かのように」、またはいない「かのように」振る舞うのである。
ザインとゾルレンの区別ですらつかない人間も世の中には案外多いもので、特に若い人々の自己認識はザインとゾルレンがごっちゃになって訳がわからなくなっていることが多い。多少年を取った人ですら、一攫千金を夢見て会社を作っては潰し、あるいはギャンブルに狂ったりするのは、これは現実(ザイン)を見ずに、あらまほしき状態(ゾルレン)だけを夢想しているのである。(ただし、哲学用語のゾルレンはもっと高尚な意味だが)
我々の人生判断のほとんどは、実はシャイネンによっている。それがわかれば我々はもっと謙虚になるはずで、そのことを知らない人間が狂信に走り、正義を振り回すのである。
#10 差異は金なり
およそ同一性からはエネルギーは生まれないものである。昔、ちょっと売れた本の題で、「時差は金なり」というものがあったが、時差に限らずあらゆる差異は金になると考えていい。男と女の差があるから性差を利用した様々な産業が生ずる。この世が男だけ、女だけならそもそも服さえ着ないだろう。国と国との間に文化や産業の差があるからこそ貿易がおこなわれ、それが一つの産業となる。不平や不満があるということは、そこに一つのビジネスチャンスがあるという事なのである。なぜなら、不平や不満は、あるべき状態と現在の状態との差異から来るものだからだ。大前研一のある本によれば、これからの事業機会として重要なのは、①ライフスタイルの格差、つまり欧米先進国と日本の生活格差を埋めること、②内外価格差を利用すること、③業界の常識を疑うこと、④「売った後」をさらに事業として継続すること、等である。このうち①と②は、差異が事業機会であることを述べたものだ。
人生を一つの事業と考えるならば、さまざまな差異に対して不平不満を抱いて文句を言ってばかりいるのではなく、その差異を金にする、つまり自分の人生を豊かにすることを考えるのが賢い人間というものだろう。考えてみれば、我々の人生そのものが、誕生から死までの時差の中に生じた一つのエネルギーなのであり、差異のエネルギーが人生の原理であるのは当然のことである。
#9 生の微分
ある本の中で、「死を意識することで、瞬間を別の瞬間に結び付けていた意味の環が壊れ、個々の瞬間が永遠の影を宿すようになる」というような言葉があった。なるほど、我々の生を連続させていたのは、実は意味というものだったのだと気づかされた言葉である。それに、死の意識が、我々を永遠に結びつけるという、この逆説は面白い。連続することが実は有限を作るのであり、連続しないもの、立ち止まるものこそが永遠なのである。意味とは一つの解釈でしかなく、それが我々の生を惰性の中に流していく。そして、やがて本物の死が来る。しかし、立ち止まって死を考えれば、我々の生はそこで微分されるのである。(微分とは、次元を変換して眺めることと解して貰いたい。)
人間は自分の生の時間を引き延ばすのにあらゆる努力をしてきた。しかし、せいぜいが五十年の命を八十年程度に延ばしただけである。だが、時間の密度を変えることで有限の生はいくらでも無限に近づいていくのではないだろうか。いや、それ以前に、死という「ゼロ」に比べるなら、一瞬も永遠に等しいのではないだろうか。今自分が生きている一瞬の価値を我々は本当には知らないのである。般若心経の「諸法空相」とは、あらゆる事象を「空」という相、フェイズにおいて見ることだが、これは生という有限数をゼロで割ることでもある。すなわち、時間の止まった永遠の相のもとでは、瞬間は永遠に等しい。これがファウストの「時よ止まれ、お前はあまりに美しい!」という言葉の意味ではないか?
#8 隠すこと
女性が性について書いた文章を読むのは男性にとって気恥ずかしいものである。それにどういうわけか、女性にとって性愛というものは人生の第一義的なものらしく、性について発言したがる女性がやたらに多いのである。たとえば、「風の谷のナウシカ」のような名作アニメについてまで、「主人公ナウシカが中性的に描かれており、ここには性が隠蔽されているからけしからん」という意見がフェミニストの女性から出たりするから驚いてしまう。彼女たちはおそらく、ミッキーマウスとミニーマウスのベッドシーンまで見なければ気がすまないのだろう。要するに、性を隠蔽するな、性的関心を恥じるな、と彼女たちは主張しているのである。
女性の性に対するあっけらかんとした態度に比べて、男性の性に対する態度は、もっとうじうじしたものである。昔はその逆だったような気がするが、それは社会が男性中心の社会だったからで、女性の発言が抑圧されていただけだろう。つまり、女性にとってエロスは至上のものであるのに対して、男にとっては性は「エロ」でしかないから、性に対してはどうしても及び腰になってしまうのである。エロスとエロの間の違いは大きい。
しかし、この点では私は男の態度が正しいと思っている。性は隠すべきもので、明るみに出せばその魅力も魔力も失い、ダンスのようなスポーツか、動物の交尾以上のものではなくなる。文化の大きな要素が隠すことであり、それが「秘すれば花」ということだ。