#5 消えた本
本というものは買っておくべきものである。そして、できるだけ捨てないほうがいい。というのは、出版物には寿命があるからである。子供のころ読んで面白かった本をもう一度読んでみたいと思っても、既に書店の棚には無い、というのはよくある事である。
おそらく今の人々はドーデーなど読まないだろうし、彼の「タルタラン・ド・タラスコン」などというユーモア小説の存在も知らないだろう。べつにそれが名作だというわけではない。「最後の授業」などで一時期有名だった彼の人気に便乗して訳されただけの二流三流の作品だ。しかし、昔読んだ本には、その頃へのノスタルジーがまといついており、他のどんな本にも得られない「自分だけの」感情の記憶があるのである。そしてそれは、あるいはどんな莫大な金を使っても二度と手に入れられないものかもしれないのだ。プルーストのように、自分の後半生を自分の前半生の記憶を思い出し、(フィクションの形でだが)記録することに費やした人間もいる。
たとえ新しい翻訳が出ていても、昔の翻訳でなければいけないのである。「赤毛のアン」は多くの人が訳しているが、村岡花子の訳以外は考えられないという人は多いはずだ。「白鯨」は今では阿部知二訳しか書店には見あたらないが、私は、自分が子供の頃読んだ、名前の知れない翻訳者の訳のほうが優れていたと思っている。それが錯覚でも、私にとってはそうなのだ。だから、本はけっして捨ててはいけないのである。
#4 読み癖
人それぞれに本の読み癖というものはあって、たとえば推理小説を読むのでも、犯人が誰なのか考えながら読む人はけっこう多いようだ。いやそちらのほうがむしろ普通かもしれない。で、私がいやなのは、自分は推理小説の犯人がたいてい途中でわかってしまう、滅多にそれが外れることはないと自慢する人間が時々いることだ。
私は、自慢ではないが、推理小説を読んで犯人が当たったためしがないし、そもそも犯人を当てようとか、トリックを解明しようなどと考えながら読んだことはほとんど無い。自分の頭脳ではそんなことは不可能だと最初からあきらめているのである。だからこそ、先に書いたような人間の自慢話がしゃくにさわるのだが、それがしゃくにさわるのは、そういう人間の自慢話が本当か嘘か証明のしようがないことだ。証明のしようのない事を自慢されても、聞く方は「ああ、そうですか」と拝聴するしかないのだが、これは相当に不愉快なものである。まるで、推理小説の犯人がわかったためしの無いこちらが馬鹿か白痴のような気分になる。まあ、本当は、そういう人間の言葉など私は信じてはいないのだが。
そもそも、映画を見たり、小説を読んだりするのに、先の展開を考えながら見たり読んだりする人間の気持ちが私には分からない。それでは映画や本が、ただの当て物になってしまうではないか。私はむしろ、思いがけない意外な展開に驚きたい。そのためには、先の予測などしないにこしたことはないのである。
#3 テロリストの祝祭
藤原伊織の「テロリストのパラソル」「ひまわりの祝祭」の二作を読んだ後、どちらもなんだかすっきりしない澱のようなものが残るが、それが何なのか考えてみた。一つは題名である。どちらもテーマに関係があるといえばそうではあるが、なんだかちぐはぐですっきりしない題名である。格好の付けすぎというか何と言うか。だが、格好をつけるのがハードボイルド小説なのだから、それに文句を言っても仕方がない。
それよりも困るのは、この両作品に共通する「裏切り」のテーマである。まあ、これはハードボイルドのお約束だから、ネタばらしをしても差し支えないだろうと思って言うのだが、この裏切りがまさにハードボイルドの定型を守ろうとして作ったような不自然な印象なのだ。どちらの作品でも主人公は信じていた人間に裏切られるのだが、超人的な頭脳を持ち、他人をクールに眺めているはずの主人公が、自分を裏切るような人間をそんなに簡単に信じていいのかな、と思ってしまう。読み手としてはこんなに頭のいい主人公が信じている人間なのだから信頼に値するいい人間なのだろうと思っていると、それが悪い奴だったりするから意外というよりは騙された気分になる。おそらくこれは作者がハードボイルドの文法に忠実であろうとし過ぎるあまりに読者の生理を忘れた「ミス」だろうと私は思う。まあ、上手な作品なんだからそれだけで十分だと言ってしまえばそれまでだが。
ところで、この駄文の題名の方が言葉の結びつきはいいと思いませんか?
#2 何を読み取るか
森村誠一のあるエッセイを読んでいたら、その中に山本周五郎の短編の話が出てきたのだが、それを読んで奇妙な思いにとらわれた。ある下級侍の悲壮な死の話なのだが、その死に方が宮谷一彦の傑作漫画「ワンペア・プラス・ワン」の死に方とまったく同じなのである。(その死に方が話全体に大きな意味を持つ死に方なのだが、ネタばらしになるのでこれ以上は言えない。推理小説に限らず、未読の人の感動を削ぐネタばらしはするべきではない。)奇妙だというのは、実は私は山本周五郎のこの作品も宮谷一彦の作品も読んでいたはずなのに、このエッセイを読むまで、私はこの両作品の類似性にまったく気がつかなかったからである。一方が時代劇で、もう一方が現代劇だという相違もあるが、それよりももっと大きな原因は、一方は文章で、もう一方は視覚的なメディアだという違いだろう。要するに、私には文章をイメージ化する能力が無かったということである。だから、最初から視覚的表現として与えられたテーマに感動することはできたが、文章からは十分な感動は得られなかったのである。これは山本周五郎の作家としての手腕の問題では決してなく、私自身の文章受容能力の問題である。なにしろ、森村誠一は、この作品と出会うことによって作家を目指したというのだから。
同じ本を読んでも受け取るものはそれぞれ違うということを案外誰もわかっていない。作品を批判する前に、まずは、「自分は読めているか」と反省するべきだろう。
#1 山は流れ、水は流れず
本の読み方にもいろいろあるが、本の中の一節だけを読むのも、読書の意義は十分にあると私は考えている。ショーペンハウエルが批判しているような、自分ではまったく考えず、自分の頭を他人の思想の運動場にするような読み方も若い頃には悪くはないが、本に書かれたことをヒントにあれこれ思いをめぐらせるほうがずっと面白いものである。
哲学書の類も、そうした読み方をするなら気楽に楽しく読めるのではないだろうか。鴎外も漱石も言っているように、どんな偉人だろうが我々のちょっと偉い者にすぎないので、何も最初から恐れ入り、畏まって読む必要はないのである。
「山は流れ、水は流れず」は、道元の「正法眼蔵」の中に出てくる言葉らしい。私がそんな書物を読むわけはないが、ある解説書にそう出ていた。その本自体は真面目すぎて面白くなかったが、この言葉は面白いと思った。これは仏教を学ぶ心得を述べたもので、まず「山流、水不流」を心に置くところから入れというのである。たとえば魚にとっては、水は宮殿であり、高楼であって、流れてはいない。人間にとっての美人は動物からは怪物だ。そんな風に、あらゆる我見や差別相を離れて物を見ることが仏教の第一歩だというのである。
言うは易く行うは難しで、この言葉を知っても我々が物にとらわれる気持ちを無くすことはなかなかできないが、少なくともこの言葉を思い出した時にはしばらくは煩悩から逃れることもできそうだ。気ままな、断片的読書にもこういう効用はある。