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私の見てない作品もかなり入っているが、概して真面目な選出だと思う。上位の作品群は「日本映画の古典」とも言うべきものだが、娯楽作品系統の傑作があまり入っていない。たとえば黒澤明作品でも「用心棒」などは世界の娯楽映画に与えた影響を考えてもベスト10級だろう。つまり、選ぶ側が「映画の芸術性」にこだわりすぎているように思う。まあ、芸術映画も面白いことは面白いのだが、こうしたランキングを見てその映画を実際に見たら、「映画ってつまらない」と思う若者は多いだろう。たとえば、フランス映画だが、「去年マリエンバードで」などを面白いと思える感性を持っている人間は20人にひとりくらいだろうと思う。
しかし、「七人の侍」は娯楽作品であるのに芸術映画を押しのけてランキングナンバーワンであるというのが凄い。世界の映画学校でテキストとされているというのも頷ける。

ついでに書いておくが、「メモ日記」を転載するとパソコンの調子がおかしくなるので、しばらく載せないことにする。どうも昔のフラッシュメモリー(あるいは昔のword)とウィンドウズ10は相性が悪いようだ。




海外「日本には傑作が多すぎる!」 米サイト選出『日本映画歴代ベスト40』が話題に

今回はアメリカの映画サイトが選出した「日本映画歴代ベスト40」から。

早速ですがランキングは以下になります。

40. 『家族ゲーム』 森田芳光 1983年
39.『野獣の青春』 鈴木清順 1967年
38. 『ビルマの竪琴』 市川崑 1956年
37. 『麦秋』 小津安二郎 1951年
36.『巨人と玩具』 増村保増 1958年

35. 『上意討ち 拝領妻始末』 小林正樹 1967年
34.『鬼婆 』 新藤兼人 1964年
33. 『二十四の瞳』 木下恵介 1954年
32. 『人情紙風船』 山中貞雄 1937年
31. 『武士の一分』 山田洋次 2006年

30. 『HANA-BI』 北野武 1997年
29. 『原爆の子』 新藤兼人 1952年
28. 『トウキョウソナタ』 黒沢清 2008年
27. 『天国と地獄』 黒澤明 1963年
26. 『楢山節考』 今村昌平 1983年

25. 『御用金』 五社英雄 1969年
24. 『茶の味』 石井克人 2004年
23. 『女が階段を上る時』 成瀬巳喜男 1960年
22. 『浮雲』 成瀬巳喜男 1955年
21. 『飢餓海峡』 内田吐夢 1965年

20. 『おくりびと』 滝田洋次郎 2008年
19. 『山椒大夫』 溝口健二 1954年
18. 『赤い殺意』 今村昌平 1964年
17.『他人の顔』 勅使河原宏 1966年
16. 『たそがれ清兵衛』 山田洋次 2002年

15. 『仁義ない闘い』 深作欣二 1973年
14. 『大菩薩峠』 岡本喜八 1966年
13. 『そして父になる』 是枝裕和 2013年
12. 『野火』 市川崑 1959年
11. 『薔薇の葬列』 松本俊夫 1969年

10. 『おとし穴』 勅使河原宏1962年
9. 『ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ』 1985年
(日米合作。製作総指揮はコッポラ監督とジョージ・ルーカス監督)
8. 『雨月物語』 溝口健二 1953年
7. 『誰も知らない』 是枝裕和 2004年
6. 『人間の條件』 小林正樹 1959年

5. 『砂の女』 勅使河原宏 1964年
4. 『東京物語』 小津安二郎 1953年
3. 『切腹』 小林正樹 1962年
2. 『羅生門』 黒澤明 1950年
1.『七人の侍 』 黒澤明 1954年



以上です。
なお、記事の冒頭では日本映画について、
「今も世界の映画に影響を与える数少ない映画産業の1つ」と紹介されています。

ランキングには様々な意見が寄せられていましたので、その一部をご紹介します。


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#14   議論の作法

 

無知な人間が、知識のある人間と議論をすることは可能だろうか。正しいのはこちらだという確信を持ちながら、しかも相手を論破する知識や言葉を持たない場合、議論で勝つことはできるだろうか。実は、これがかつての学生運動の指導者たちが直面した問題だった。彼らがこのことを意識していたかどうかはわからないし、わかっていても認めないとは思うが、彼らはこの問題を無意識にでも感じていたはずである。なぜなら、彼らの多くは、多くの知識人や大人に比べれば、圧倒的に無知だったはずだから。

彼らの出した結論は、相手の言うことは一切聞き入れるな、一方的に自分の言いたいことだけを言え、というものだった。相手が何を言おうと、「ナンセーンス」の一言で葬り去れ、ということだ。なるほど、これなら議論に負けることはありえないし、自分の言いたいことを表明することだけは、少なくともできる。この方法が一般に知られると、我も我もとこの方法を使いだしたことからも、この戦法の有効さはわかる。この戦法を考えた人間は頭がいい。しかし、本質的には馬鹿である。

議論をする目的は、有益な結論を出すことであり、勝ち負けのためではない。学生運動の「ナンセーンス」戦法は、局地戦での勝利のために大局を見失い、一般大衆からあきれられてそっぽを向かれる結果を招いただけであった。要するに、自分の体面だけを考えた、このような愚かな指導者たちのために、学生運動は失敗したのである。

 

 


#12   文化と野蛮

 

文化とはためらいであり、立ち止まることである。近代文明の機能主義、効率主義は文化ではなく野蛮にすぎない。たとえば性欲と性交の間にはさまるためらいが恋愛であり、恋愛が文化なのである。文化とは人間の作り上げた様々な不要不急の装飾物であり、余剰であるが、それが人間を動物から区別しているのだ。今の世の中は、効率を追及するあまり、文化を失いつつある。「産湯を捨てようとして赤ん坊まで流してしまう」ようなものだ。

もしも物を食うことが栄養摂取の意味しかないのであれば、煮たり焼いたりする必要などない。生のままで食えばよい。煮たり焼いたり、様々に手を加えるところが人間の文化なのである。もっとも、手の加え方が異常に込み入ってきて不健康なものになってきた場合、それを退廃というのだが。

近代の産物を我々は文化的だと錯覚する傾向がある。その中には文化というよりは野蛮への退行だと思われるものもある。機能主義や効率主義は、その産物は文化的かもしれないが、主義自体は野蛮なものである。これらは結局、不要物、無駄の切り捨てであり、人間の生活をかえって非人間的なものにしていることが多い。そんなに機能や効率が大事なら、いっそ人間は全部ロボットに切り替えるか、生産的でない老人や病人は屠殺して食料にでもしてしまうのがよっぽど「効率的」だろう。まるでスウィフトみたいな発言だが、最近の生産至上主義の世の中は、いずれスウィフトのジョークを実現させるかもしれない。

 

 










 

#13   学生運動の言葉

 

今の日本で政治について考える学生は僅かだろうと思うが、学生たちが政治にまったく無関心になっているのは、日本がエネルギーを失い、緩慢に自殺しつつあることを示しているのではないだろうか。といっても、私自身はかつての学生運動には恐怖と嫌悪感しか持っていなかった人間である。若者というものは、大半は実は無知で臆病なものだろうが、少なくとも私はそうだったのだ。学生運動などして政府に睨まれ、一生を棒に振るなんて御免だと思っていたのである。実際には、体制側に見事に転向した人も多いのだが。

今にして思えば、学生運動に加わった人々は、やはりその当時は真剣で誠実で勇気があったのだ。たとえわけもわからず運動に加わっていた物好きや野次馬や、鼻持ちならない気障なロマンチストがその中にいたとしても、それで全体を判断すべきではない。

しかし、彼らの運動は、大衆の支持を得られず消えていった。その第一の理由は、学生運動の持つ暴力性のイメージが嫌われたことであり、もう一つは彼らの言葉が大衆には通じなかったことである。長い間の支配層の洗脳によって、共産主義に対して潜在的な恐怖感を持っている大衆には、難解なマルクス主義用語をちりばめた演説は嫌悪感しか抱かせないということに、なぜ彼らの誰一人として気づかなかったのか、不思議でならない。私は共産主義に与する者ではないが、日本が今のように腐敗したのは、学生運動の失敗によって人々が社会や政治の変革をあきらめたことが原因の一つだと残念に思っている。

 






#11   ザイン、ゾルレン、シャイネン

 

世の中には、覚えておくと思考の整理に役に立つ言葉がある。ザイン、ゾルレン、シャイネンもその一つだ。ザイン(存在すること、現実存在)とゾルレン(在るべきこと、理想や目標)はよく知られているが、シャイネンは私も最近知ったばかりである。シャイネンとは、「仮想すること、そうであるかのように見なすこと」のようだ。鴎外の「かのように」が、すなわちシャイネンであろう。「かのように」は、彼の処世哲学で、世の中の解決困難な諸問題について、とりあえず一つの立場をとって当座の答えを出しておくというものである。たとえば絶対神の存在について確信が持てないなら、とりあえず自分の今の気持ちに近い説を拠り所として、神がいる「かのように」、またはいない「かのように」振る舞うのである。

ザインとゾルレンの区別ですらつかない人間も世の中には案外多いもので、特に若い人々の自己認識はザインとゾルレンがごっちゃになって訳がわからなくなっていることが多い。多少年を取った人ですら、一攫千金を夢見て会社を作っては潰し、あるいはギャンブルに狂ったりするのは、これは現実(ザイン)を見ずに、あらまほしき状態(ゾルレン)だけを夢想しているのである。(ただし、哲学用語のゾルレンはもっと高尚な意味だが)

我々の人生判断のほとんどは、実はシャイネンによっている。それがわかれば我々はもっと謙虚になるはずで、そのことを知らない人間が狂信に走り、正義を振り回すのである。

 

 




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