図表が見づらいが、大体は分かるかと思う。6歳で尋常小学校に入学し、12歳で卒業、これだけが「義務教育」で、後は家庭の事情や親の考えでその上に幾つかの路線がある、ということだろう。高等小学校と中学校の区別が私にはよく分からない。
複線型の進学システム
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上級学校に進学しようとする場合にも、最終的な目標学校に合わせて進路を選択する必要があります。進学できる学校の種類は時期によって異なりますが、総じて「複線型」と呼ばれる複雑な学校制度となっています。
たとえば、高等教育機関まで含めて教育制度整備のほぼ完了した大正8年(1919年)の学校制度を見てみましょう(1940年代以降には戦争という時局変化に対応するため、この教育体制からさらに学校名称や制度が一部変更されます)。(4) は当時の学校の系統図です。この時期は、尋常小学校6年間が義務教育課程です。
尋常小学校卒業後の進路としては、男子の場合には(a)中学校を経て、(a-1)高等学校-大学へと進むルート、(a-2)専門学校へと進むルート、(a-3)高等師範学校へと進むルート、(b)高等小学校を経て、(b-1)師範学校、(b-2)実業学校へと進むルート、さらに(c)として、(c-1)実業学校・(c-2)実業補習学校に進むルートの3つに大きく分けられます。女子の場合も、高等女学校を経て女子高等師範学校へ進むルートと、高等小学校を経て師範学校、実業学校へと進むルート、実業学校・実業補習学校に進むルートの3つに大きく分けられます。女子の場合には、ごく一部の学校を除いて、高等学校にも大学にも進学することは認められていませんでした。
・幕府の称制では、将軍(征夷大将軍)はじめ大名級にたいして天皇から公家の官位に叙任させ朝臣とするのと、幕府が直接に任命する守護大名的な職名とがある。この二重構造は幕府が朝廷の制度を利用した権威主義からきている。たとえば加藤清正の肥後守は幕府の官職任命、主計頭(かずえのかみ)は公家の職名、従五位上はその位階である。擬制的な「朝臣」である。
・公家の官制では「大夫」は四位、五位の汎称である。
・右近は、近衛舎人で天皇外出にさいし輿の右側を警護する下級者名の略。左側につくのが左近。もちろん無位である。(したがって右近大夫というのは有り得ない)
・大夫は、律令制度では宮内庁の各職の責任者。といってもいまの部長クラスだろうが、大夫の上には所属の職名がつく。たとえば大膳寮の長は大膳大夫、となる。俗に云う「無官の大夫」は反語的な駄じゃれである。大夫は四位ないし五位と決まっている。
・職を退いた後にも職名を通称として使ったようだ。
李寧熈(イ・ヨンヒ)が、万葉集(の中の枕詞)は古代朝鮮語でまったく別の解釈をするべきだ、という趣旨の主張をした記憶があるが、歌全体が朝鮮語だというのは無理だとしても、一部には朝鮮語が入っていて当然だろう。つまり、現代人の書く文章の中にカタカナ語(外来語)が無数に入っているのと同じである。ただ、和歌となると、外来語を入れることは少ないだろう。つまり、万葉集に朝鮮語がたくさん入っているとは思わないし、枕詞が朝鮮語だとするには、彼女の「枕詞の秘密」(まだ少ししか目を通していないが)にある枕詞の解釈はどうも歌にならないものが大半であるように思う。
しかし、古代朝鮮語の影響が日本語にあるのは確かだろう。
上記の本の中から、これは朝鮮語由来と見るのが合理的かな、と思われるものを少し挙げておく。
秋津島(アギジシム):「アギ」は子、「シム」はそのまま島の意で、「子の島」つまり、朝鮮から見て日本は子の島だという認識を、渡来人たちが持っていたということだろう。
朝(アサ):これは朝鮮も日本も同じ。
天(アメ):これも同じ。
水(ミ):「ミズ」とほぼ同じで、日本でも「み」と読む例は多い。
さざれ(ジャジャレ):小さい、細かい
白(シラ):日朝ほぼ同じ。
千(チ)
三(ミ)
やすみしし(エェシムシジ):八島を鎮めた(「大君」にかかる枕詞)
女(メ)
少女(ヲミナ)
「大豪族は部族の兵力をもち、部族員たる小作人の生産を搾取する一種の独立国だったが、それが分解して中・小豪族ばかりになると、互いに連合するか、大勢力のもとに依存するかで、地位の安全を保つしかない。これは中央集権的な組織に編成されやすい。私は、それを蘇我稲目・馬子が行ったと思っている。いうなれば、大化改新の官僚組織は、蘇我氏が準備し、孝徳・天智朝が蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼしてそれを横取りしたのだと推定している。蘇我氏が自己中心的にすすめていた官僚体制を天皇家が奪取したのが『大化改新』だったのだと考える(蘇我氏が『大王』だったという一部の説は成立しない。『大王』になれるのは新羅の真骨と同じく、その血族でなければ他に承認されなかった。大王家に比すべき勢力と、大王の資格を混同してはならない。」
小林恵子の「二つの顔の大王」に、皇極女帝(宝王女)が舒明と結婚する前に高向王と結婚し一児を得ている、その高向王とは高向玄理ではないか、という説を出している。さらに、高向玄理は韓国人だっただろうとしているが、これは大いに蓋然性がありそうである。つまり、「高」姓である。
もしそうだとすると、高向玄理は思いがけない重要人物だ、ということになる。あるいは大海人皇子か中大兄皇子の父親ということになるかもしれない。大化の改新の時に暗殺現場を見た何とか皇子が「韓人が入鹿を殺した」と言ったというのも、中大兄皇子あるいは(暗殺実行者の)大海人皇子が韓人であるのは周知のことだったから、となるわけだ。
ちなみに、下記記事の「隋へ留学する」は、高向玄理(ら)が韓国人で中国の文明に詳しいからこそ選ばれたと見ることができる。
留学からの帰国後5年目で大化の改新が起こったというのも暗示的である。
またたとえば大海人皇子もその留学に同行していた、というのも考えられる。皇極が高向王との間に産んだ漢王子が大海人皇子であり、最初は(父親の出自のために)皇位継承資格が低かったから、父親と危険な海外旅行に同行する決意をするのも容易だった、というわけだ。
かなり話が錯綜してきたので、いずれ年表や相関図を作ってみたい。
高向玄理
高向 玄理(たかむこ の くろまろ、生年不詳 - 白雉5年(654年))は、飛鳥時代の学者。名は黒麻呂とも記される。高向古足の子[1]。姓は漢人のち史。冠位は大錦上。
出自[編集]
高向氏(高向村主・高向史)は応神朝に阿知王とともに渡来した七姓漢人の一つ段姓夫(または尖か)公の後裔で[2]、魏の文帝の末裔を称する渡来系氏族[3]。一説では東漢氏の一族とする[4]。高向の名称は河内国錦部郡高向村(現在の河内長野市高向(たこう))の地名に由来する[5]。
経歴[編集]
遣隋使・小野妹子に同行する留学生として聖徳太子が選んだと伝えられており、推古天皇16年(608年)に南淵請安や旻らとともに隋へ留学する[6]。なお、留学中の推古天皇26年(618年)には、隋が滅亡し唐が建国されている。舒明天皇12年(640年)に30年以上にわたる留学を終えて、南淵請安や百済・新羅の朝貢使とともに新羅経由で帰国し、冠位1級を与えられた[7]。
大化元年(645年)の大化の改新後、旻とともに新政府の国博士に任じられる[8]。大化2年(646年)遣新羅使として新羅に赴き、新羅から任那への調を廃止させる代わりに、新羅から人質を差し出させる外交交渉を取りまとめ[9]、翌647年(大化3年)に新羅王子・金春秋を伴って帰国し、金春秋は人質として日本に留まることとなった(この時の玄理の冠位は小徳)[10]。大化5年(649年)に八省百官を定めた[11]。白雉5年(654年)遣唐使の押使として唐に赴くこととなり、新羅道経由で莱州に到着し、長安に至って3代目皇帝・高宗に謁見するものの病気になり客死した[12]。