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「日本を守るのに右も左もない」から転載。第一次大戦の背後関係について、田中宇が、列強中心だが簡潔にまとめている。ただ、「資本の論理と帝国の論理の間の矛盾・対立が拡大した」というのがよく分からない。むしろ、資本の論理と帝国の論理は「拡張主義」と「戦争への傾斜」という同じ方向を向いていたのではないか。

(以下引用)


田中宇の国際ニュース解説 資本の論理と帝国の論理
2008年2月28日

▼資本と帝国の矛盾の末に起きた第一次大戦
 しかしそもそも、当時は大英帝国の政治覇権が世界を安定させていたパックス・ブリタニカの時代だった。イギリスが帝国の論理に基づいて世界を安定的に支配していたからこそ、資本家は世界的に儲けられた。
 世界には、工業技術の修得がうまい人々と、そうでもない人々がいる。日本やドイツなどの人々は、イギリス人よりも安く優れた工業製品を作れるようになった。欧州各国から移民を集めて作られたアメリカも、イギリスより良い工業製品を作り出した。イギリスは、最初に産業革命を起こし、パックス・ブリタニカで世界を安定させている功労者であるにもかかわらず、産業的には独米日などより劣る、儲からない国になる傾向がしだいに顕著になった。19世紀末には、資本の論理と帝国の論理の間の矛盾・対立が拡大した。
 矛盾が拡大した果てに起きたのが、1914年からの第一次世界大戦だった。前回の記事にも書いたように、イギリスは外交・諜報能力が非常に進んでいたが、軍事製造力でドイツに抜かれるのは時間の問題だった。イギリスは、ドイツが東欧・バルカン半島からトルコ・中東方面に覇権を拡大するのを阻止する目的もあり、フランスやロシアを誘ってドイツとの戦争を起こした。  ドイツにも投資していたイギリスの国際資本家の中には、イギリスが戦争でドイツを潰そうとしていることに、ひそかに反発した人々もいたふしがある。彼らは、英政府に軍事費を無駄遣いさせたり、欧州のユダヤ系革命勢力がロシアに行くよう誘導して革命を起こし、イギリスと組んでドイツと敵対していたロシアが革命で戦線離脱するよう仕向けたりして、第一次大戦でイギリスが消耗し、帝国として機能できない状態に陥れようとした。こうした暗闘の結果、第一次大戦は長引き、イギリスは最終的に勝ったものの、国力を大幅に落とした。
 第一次大戦でイギリスが勝てたのは、アメリカを参戦させることに成功したからである。当時すでにニューヨークには資本家が数多くおり、第一次大戦でイギリスではなくドイツを支援する勢力も多かったが、イギリスの強い勧誘活動の結果、アメリカはイギリス側に立って参戦した。その見返りとして米政府は、戦後の世界体制を多極的なものにするための主導権を得た。

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「金融の世界史」という本の紹介記事の一部を転載。
第一次大戦の背後にある国際金融について調べたいのだが、ネットにもあまり無い。やはり、ロスチャイルド家限定で調べたほうが記事は多いのかもしれない。

(以下引用)

資本主義は、海賊キャプテン・ドレイクがチリから海賊行為をして銀を大量に持ち帰ったところから始まる
とかそういう事が延々書いています。

画像の字がすこし小さいので、いくつかに画像を切り分けて何が起こったか書いてみようと思います。書き写すとキリが無いので、簡素に書いてますが、本書ではもっとドラマチックです。

16〜17世紀の金融史

16〜17世紀の金融史 時系列
1571年 財産権の確立(ローマ)
レオパルト海戦を前に、軍人が安心して財産を家に置いて戦いに出られるよう、ローマ法により、個人の財産所有が明確に認められる。
16世紀末 初の株式会社&株式取引所設立(オランダ)
オランダで香辛料貿易のための会社「東インド会社」設立。これまでにも無限責任の団体はあったが、オランダ東インド会社は株主の責任を投資した額のみで住むよう有限責任化した。これにより、一般の人々が多く・小口で株式投資が行えるようになり東インド会社株の取引を中心とする株式会社が設立される。
1637年 チューリップ・バブル崩壊(オランダ)
チューリップ球根の売買が投機目的で加熱。1637年春、球根の受け渡しを目前にして球根価格は暴落。人類初のバブル崩壊。
1672年 英チャールズ二世デフォルト(イギリス)
英蘭戦争勃発により、英国王チャールズ2世が、軍費以外の支払いを停止。英国王チャールズ二世に投資していた富豪が多数破産する。
1688年 国債の発明(イギリス)
名誉革命によりイギリス議会誕生。同時に財源確保の為に、国債を発行。過去にも国への借金はあったが、国王への個人貸付の性質が強く、国王失脚と共に投資家が破産していた。イギリス議会は国王ではなく国が債務を負う国債を発行。そのため、この年を初の国債発行年とする。

18〜19世紀の金融史

18〜19世紀の金融史 時系列
18世紀初頭 初の資産運用記金スコティッシュ・ウィドウズ設立(イギリス)
スコットランド牧師兄弟2名が、牧師の未亡人が安心して暮らせるよう、年金に似た相互扶助団体を設立。国際分散投資により基金を運用する。
1720年 南海バブル崩壊(南海飛沫事件)(イギリス)
イギリスの国策により生まれた貿易会社。特殊な利益計上と国債引き受けが出来る仕組みにより投機化。経営陣の株式売却と共に株価は大暴落した。
1771年 初の保険組合 ロイズ誕生(イギリス)
貿易船の積み荷に対する無限責任に対応する保険として、79人の組合員によってロイズ組合が誕生
1868年 世界初の投資ファンド誕生(イギリス)
イギリス国外、植民地に分散投資する目的の投資信託「Foreign and Colonial Government Trust」がイギリスで設立。資産を第三者が管理する信託保全機能を組み込んだ、今の投資信託と同等の信託機能が生まれる。
1871年 金本位制の制式採用(西欧)
いままで各国で金兌換、銀兌換、兌換不可紙幣などがある中で、スカンジナビア諸国が一致して金本位制に移行した。
1873年 大不況(イギリス)
米南北戦争集結に伴い、成長著しかった欧州諸国の経済成長が停滞・以後20世紀前まで不況が長期化する。
1896年 ダウ工業平均株価&テクニカル投資手法誕生(アメリカ)
チャールズ・ダウがファミリーと設立した「ダウ・ジョーンズ工業平均株価」は米株式市場初の株価指数となった。また、チャールズ・ダウ自信は株価指数の日々の上下の規則性に気づき「テクニカル投資手法」を開発した。

20〜21世紀の金融史

1920年 ドイツでハイパーインフレ発生(ドイツ)
第一次世界大戦の賠償金を支払うために、多額のドイツマルクを発行しマルクが暴落。パンを買いに行くのに手押し車に紙幣を積まなければならないほど、ドイツマルクはインフレした。
1929年 ウォール街大暴落(暗黒の木曜日)-世界恐慌(世界)
第一次世界大戦後 米国が国策により過度に金融市場を緩和し、国民が総投資家となる。しかし実体経済は追いつかず株式市場は崩壊。米国最悪の暴落となり、世界恐慌へとつながった。
1944年 ブレントン・ウッズ協定の締結(世界)
第二次世界大戦後の世界金融を安定させるための会議場において、「金とドルの固定相場兌換」「各国通貨とドルの固定相場」を決定。ドルを通じて世界の通貨は金兌換制に移行した。ブレトン・ウッズ協定ではIMF(国際通貨基金)と後の世界銀行、IRBD(国際復興開発銀行)の設置も決定された。
1946年 新円切り替え・預金封鎖(日本)
第二次世界大戦で焼け野原になった日本の円は暴落。国内でのインフレを防ぐために政府は「全ての円を期日までに銀行に預け、以後新円を引き出し規制にしたがって銀行から引き出すこと。旧円はその日から使えなくなる」とした。同時に保有額から一定の財産税も最大90%徴収した。
1952年 投資ポートフォリオ選択理論発表(アメリカ)
シカゴ大学の大学生が「ポートフォリオ選択理論」論文を発表。これにより資産の分散はリスク最小以外にもリターンの最大化が行える事「効率的ポートフォリオ」の存在が確認された。
1965年 株価ランダムウォーク理論発表(アメリカ)
ユージーン・ファーマにより「株式市場のランダム・ウォーク理論」が発表。「全ての株価はランダムに推移する」として、全世界のファンドマネージャーを震撼させる。
1971年 ニクソン・ショック(世界)
金の国外流出に悩んでいたアメリカが突如「紙幣と金の交換を停止する」と発表。ブレントン・ウッズ体制の「各国通貨はドルとの固定相場によって金兌換が保証されていた」状態が無くなり、一気に世界の通貨が変動相場制へ移行。ドルは大幅に下落。
1971年 初のインデックスファンド設立(アメリカ)
米ウェルス・ファーゴ資産運用部門が年金基金600万ドルを元手に分散投資するファンドとして成ったのが始まり。76年には個人向けとしてヴァンガード社がインデックスファンドを発売開始。
1987年 ブラック・マンデー(アメリカ)
2000年 ドットコム・バブル崩壊(アメリカ)
2008年 リーマン・ショック(アメリカ)

※長くなるため省略します

ネットテレビでアニメ「電脳コイル」を中盤くらいまで見たが、オタクの作ったオタクのためのアニメという感じである。
いや、子供の描き方は上手いもので、「現実性」が無いわけではない。むしろ「子供の悪」というか、子供なればこその無道徳性の描き方はなかなか凄いと思う。話の最初のあたりの「子供世界の権力闘争」など、読んだことはないがゴールディングの「蠅の王」はこんな感じなのではないか、と思うくらい陰惨である。しかも、カネの計算ばかりしているのも現代的だ。子供たちが主人公のアニメということで期待してテレビを見ていた子供たちやその親たちは困惑しただろう。
とにかく、中盤までは見ているこちらが憂鬱になるような話ばかりなのに、時々挟まる「ここは笑うところですよ」というシーンが、かえって気疲れさせる。つまり、NHK教育放送で放映されたこの作品は、実は子供が見ることなどまったく関係なしに、原作脚本監督の磯光男(おそらくオタク)が、そのオタク性丸出しで、作りたいものを作ったのだろう。
そういう目で見ると、この作品に出てくる子供たちの無道徳性はオタク(しばしばIT技術者などがハッカーになるのは、オタクが道徳規範から逸脱しがちだということだと思う。)の投影に見える。道徳的には子供(つまり無道徳)だが、知能はすごくて、IT技術を駆使する子供たち、がこの話の登場人物たち(主人公の優子と、仲間のひとりを除く)なのである。
第一次大戦勃発時を舞台とした小説のネタとして、エンヴェル・パシャについての記事をウィキペディアから転載する。ちなみに、このあたりの時代のトルコ人の名前によく出てくる「パシャ」は名前ではなく「少将」の意味らしい。あるいは名前にもあるのかもしれない。



エンヴェル・パシャ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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エンヴェル・パシャ
اسماعيل انور
Ismail Enver.jpg
エンヴェル・パシャ
生年月日 1881年11月22日
出生地 Flag of the Ottoman Empire.svg オスマン帝国
没年月日 (1922-08-04) 1922年8月4日(40歳没)
死没地 Flag of the Bukharan People's Soviet Republic.svg ブハラ共和国 ドゥシャンベ近郊
出身校 イスタンブール士官学校
所属政党 統一と進歩委員会

Flag of the Ottoman Empire.svg オスマン帝国戦争大臣
内閣 サイード・ハリム内閣
在任期間 1914年1月4日 - 1918年10月13日
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イスマイル・エンヴェル・パシャオスマントルコ語: اسماعيل انور‎, トルコ語: İsmail Enver Paşa1881年11月22日 - 1922年8月4日)はオスマン帝国末期の軍人政治家青年トルコ人革命の指導者。1913年以降オスマン帝国の陸軍大臣として兵権を掌握し、1918年まで大宰相メフメト・タラート・パシャと海軍大臣アフメト・ジェマル・パシャとともに三頭政治を行う。しかし、第一次世界大戦後にムスタファ・ケマル・パシャとの政争に敗れ、アナトリアを出奔する。その後はトルキスタンで反ソゲリラに身を投じるも、赤軍の掃討を受けて壮絶な最期を遂げた。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

エンヴェル・パシャの生い立ちには謎が多い。下級官吏の子として生まれたとされるが正確な出生地は明らかでなく、イスタンブール黒海沿岸のアパナマ、地中海沿岸のアダナなどいくつかの説がある。一説によれば母はアルバニア系の死体処理業者の娘であったという。

長じてイスタンブールの陸軍士官学校に入学し、ついで陸軍大学ドイツ語ドイツ軍事理論を学ぶ。

1902年に高級参謀過程を次席で卒業し、翌1903年マケドニア駐留の第三軍団に配属された。

1906年にはマナストゥルオスマン帝国の立憲改革を目指す統一と進歩委員会(統一進歩団)にひそかに加入し、有力幹部の一員となった。

革命の中の青春[編集]

1908年7月3日オスマン帝国憲法の復活を求めてアフメド・ニヤーズィ英語版 (レスネのニヤーズィ Resneli Niyazi の名で知られる)先任大尉がレスネ (現マケドニア共和国のレセン)で起こした反乱に呼応し、サロニカで挙兵。これが青年トルコ人革命のはじまりとなった。

はじめ、エンヴェルは軍団とともに山岳地帯に立てこもるが、イスタンブールから送られてきた討伐隊が革命側に寝返ったため、やむなく7月24日スルタンアブデュルハミト2世は革命部隊の要求を認め、同年12月に憲政復活がなった。彼はイスタンブールに入るとニヤーズィらとともに立憲革命の英雄としてもてはやされ、統一進歩団の中央委員会への加入を認められたが、要職につくことはできず、ベルリン駐在武官としてドイツに赴任するように命じられた。

1909年3月31日、イスタンブールで保守派による反革命暴動が起こった。統一進歩団の指導者らはサロニカの第三軍団長マフムート・シェヴケト・パシャ英語版のもとに集結し、イスタンブール奪回を目指した。エンヴェルはドイツから急ぎ帰国し、ムスタファ・ケマル少佐らとともに鎮圧軍の参謀となってイスタンブールに再入城した。

三頭政治のはじまり[編集]

同年4月27日、アブデュルハミト2世は暴動の責任を問われて退位し、皇弟メフメト・レシャトがメフメト5世として擁立された。しかし、その後も政局の混乱は続いた。

1910年9月28日イタリア・トルコ戦争が勃発した。エンヴェルはベルリンから急ぎ現地に向かい、包囲網を潜ってトリポリタニアにひそかに上陸し、義勇軍を率いて活躍した。彼はその功によって中佐に昇級した。

1912年10月第一次バルカン戦争が勃発し、12月までにバルカン同盟軍はイスタンブール至近に迫った。オスマン政府は急遽イタリアと和平したうえ、12月3日大宰相キャーミル・パシャ英語版の主導でバルカン同盟軍と城下の盟を結んだ。これに反対する統一進歩団員は弾圧され、50人が逮捕された。

1913年1月23日、エンヴェルは青年トルコ人革命以来の盟友メフメト・タラート・パシャアフメト・ジェマル・パシャらとともにクーデター英語版を起こした。エンヴェル自身が小部隊を率いて大宰相府を襲撃し、陸軍大臣ナズィム・パシャ英語版を射殺し、キャーミル・パシャを辞任させ、マフムート・シェヴケト・パシャを新たな大宰相として擁立した。その後再びバルカン同盟との戦端が開かれたが状況挽回はならず、バルカン半島側の要衝エディルネが陥落した。結局オスマン政府は4月1日に再度の和平を締結した。

6月11日、大宰相シェヴケトが何者かによって暗殺された。ジェマル・パシャは反・統一進歩団派を犯人と断定し、反対派を粛清。後任の大宰相には統一進歩団員でムハンマド・アリー家出身のメフメト・サイード・ハリム・パシャ英語版が任じられた。これによって長年の政治的混乱に終止符が打たれ、統一進歩団の指導者であるエンヴェル、ジェマル、タラートによる実質的な「三頭政治英語版」がはじまった。

6月29日、バルカン同盟が領土分配をめぐって決裂し、第二次バルカン戦争がはじまった。オスマン軍はこの戦いに介入し、エンヴェルはエディルネを奪回した。彼はこの功績によって翌年1月に少将パシャ)となり、陸軍大臣総参謀長に就任した。こうしてエンヴェルはオスマン帝国の全軍を掌握し、守旧派将校たちを予備役に編入するなど軍制改革を断行した。またエンヴェルはスルタンの姪、ナジエ内親王と結婚した。

第一次世界大戦[編集]

エンヴェル・パシャ(1918年)

1914年6月28日第一次世界大戦が勃発した。オスマン帝国には双方の陣営から働きかけがなされ、国内でも自国の出方をめぐって激論が交わされたが、結局親独派のエンヴェルが押し切るかたちでドイツ側に参戦することが決定された。11月11日、青年トルコの傀儡であったメフメト5世はジハードを布告し、正式にオスマン帝国の参戦が宣言された。

エンヴェルはかねて中央アジアからバルカンにいたるテュルク系諸民族をオスマン帝国の旗のもとに大統一するという汎テュルク主義の理想を抱いていた。その第一歩として東部アナトリアに進出したロシア軍に対して大攻勢に出てこれを駆逐し、カフカス地方を確保するというサルカムシュ作戦英語版が計画された。

そして、エンヴェル自身が東部戦線に出て陣頭指揮をとるが、補給や装備の杜撰さに加え、ロシア軍の反撃によって莫大な損害をこうむった。さらにロシア軍への協力を罰するためとしてアルメニア人シリアへの強制移住が行われ、死の行進と混乱のなかで一説では200万人にのぼるとされるアルメニア人がトルコ軍によって虐殺されたといわれる。(アルメニア人虐殺

エンヴェルは汎テュルク主義に加えて汎イスラーム主義を唱えてイスラーム世界の団結を呼びかけ、イランや北アフリカで連合軍に対する抵抗を起こさせるなど努力を重ねたが、戦況は次第に不利に向かった。イギリスの工作によってアラブ諸族が反乱を起こし、西部戦線ではブルガリア連合国に降伏した。

これによりドイツとの連絡・補給が絶たれて戦争継続がますます困難になり、一ヶ月後の1918年10月30日、ついにオスマン帝国はムドロス休戦協定を結び連合国へ降伏した。

没落への道[編集]

第一次世界大戦の敗北後、エンヴェルは盟友タラートらとともにイスタンブールを脱出した。彼らは黒海からクリミアを経てひとまずドイツのベルリンに亡命した。ここでエンヴェルはドイツ国防相のゼークトや、ポーランド系のユダヤ人ボリシェヴィキドイツ共産党創設にかかわったカール・ラデックなどと知り合い、ドイツ・ロシア・トルコの三国で反連合国同盟を結んで、カフカスと中央アジアを根拠地に英領インドを攻略するという計画をとなえた。

折から成立間もないソビエト連邦は、中央アジアテュルク系諸民族の支持を得るためにエンヴェルの名声を利用することを策しており、このソ連政府の意を受けたラデックらの説得により、1920年8月14日にエンヴェルはモスクワへ入った。エンヴェルも彼らの力を借りてオスマン帝国を復興することを目論んでいたとされる。

この時期にエンヴェルはさまざまな人物と接触しており、その中にはタタール人の革命運動家であるスルタンガリエフも含まれている。はじめ政敵とはいえ、ソ連政府の支援により祖国解放のために戦っているムスタファ・ケマルアンカラ政府に武器を援助することを試みたが、この計画は混乱のなかでさしたる意味も効果も持たなかったという。

同年9月はじめ、エンヴェルはバクーで開かれた東方諸民族大会に出席し、イスラーム革命団体連合を結成。また、アナトリアに乗り込んで、ムスタファ・ケマルに代わって政権を掌握してトルコを解放することを目論み、叔父ハリル・パシャをアナトリアへ送り込み、自身もグルジアバトゥミで待機に入った。しかし計画はムスタファ・ケマルのギリシア軍に対する赫々たる勝利を前に失敗に終わった。

「エンヴェル・パシャの最後の冒険」[編集]

エンヴェル・パシャ

エンヴェルはアナトリアへ帰ることを諦め、トルキスタンに新たな活躍の舞台を求めた。当時トルキスタンのムスリムによる反ソゲリラバスマチの活動が盛んであったため、ソ連政府はテュルク系諸民族のあいだで名声を保つエンヴェルをトルキスタンの赤軍に送り込むことでバスマチへの支持を切り崩そうと考えていた。

1921年10月、エンヴェルはソ連側の思惑を受けてトルキスタンの中心都市ブハラに入った。彼はこのとき既にソ連から離れ、バスマチのもとに乗り込んで彼らを自らの子飼いとする計画を持っていた。

11月8日、エンヴェルは猟を装って行方をくらまし、バスマチの勢力圏に入った。彼はこれ以後「大トゥラン革命軍司令官」と称し、汎テュルク主義の理想のもとにトルキスタン諸民族の団結と対ソ連闘争を呼びかけた。彼の究極の目的はトルキスタンのテュルク諸族を率いてオスマン帝国を復興することであったが、最初に同盟を呼びかけたバスマチの首領のひとり、山岳部族の族長イブラヒム・ベクによってエンヴェルは軟禁されてしまう。

翌年2月にエンヴェルはようやく釈放された。ソ連政府はエンヴェルと再び手を結ぶ可能性を探っていたが、彼はこれを拒絶し、タジキスタン地方で転戦した。

3月にはドゥシャンベを占領したが、エンヴェルが実際に動員できる兵はわずかであり、セルゲイ・カーメネフ率いる赤軍の攻勢の前に次第に劣勢に追い込まれていった。実情が知れるにつれ、はじめエンヴェルへの協力を申し出たアフガニスタンアマーヌッラー・ハーンなどもエンヴェルを見捨てていった。

エンヴェルは赤軍の掃討作戦によって次第に東方へ追い込まれていき、8月4日フェルガナ盆地東部のアビデルヤ村で休憩中に赤軍の奇襲を受けた。彼はなお付き従っていた30人の部下とともに機関銃を乱射する赤軍に向かって最後の突撃を敢行し、壮烈な戦死を遂げたといわれる。ただし、彼の死の状況をめぐってはほかにもいくつかの異説がある。

半月ほどのち、彼の死は児童文学作家としても有名なイギリスのジャーナリストアーサー・ランサムによって「エンヴェル・パシャの最後の冒険」と題してヨーロッパに伝えられた。

参考資料[編集]

戦争関係の資料を読む時によく引っかかる用語が「協商」である。「同盟」の方は何となく分かる(「軍事同盟」という言葉が、同盟関係の性格を示していると思われる。つまり、「味方」である。)しかし、「協商」となると、「一緒に商売でもするのか」という感じで、戦争とは結びつかないイメージであり、「三国協商」がほとんど軍事同盟のような感じで使われ、「協商側」「同盟側」と呼ばれると、途端に「協商」って何だ、となるわけだ。
元々は「経済協力」を意味した、とかいうのなら分かるが、下の説明では、なぜ「商」の字が訳語に入ったのか、やはり分からない。



(以下引用)



協商

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協商(きょうしょう)とは、フランス語のententeので、複数の国家間において特定の問題について調整を行い、協調・協力を取り決めることである。

同盟と協商の違いについては次の点があげられる。形式面においては、条約、あるいは協定・議定書・宣言・交換公文などといった公式文書によって取り決められるのが同盟、公式文書を前提としない非公式な国際的合意を協商とされている。また、内容面においては、「援助義務規定」の存在の有無によって条約と協商を分けると考えられている。すなわち、条約などの公式文書によって取り決められた関係であっても、文書の本文に「援助義務規定」が無い場合には協商として、形式的側面より広く協商の範囲を捉える考え方である。

協商は締結相手国に対する援助義務がなく第三国に与える脅威も低いために、同盟よりもより柔軟性と弾力性を備えた関係である。このため、双方の利害の一致によって比較的簡単に締結することが出来る一方で、双方の利害がかみ合わなくなれば協商関係は形骸する場合もあるが、反対に協力内容が強化されて事実上の同盟関係へと展開されていく場合もある。第二次世界大戦とその後の冷戦構造によって二国間あるいは多数国間における同盟関係が進展し、協商関係はほとんど見られなくなる。ただし、冷戦終結後の外交関係には名称として「協商」を用いないケースにおいても実質においては協商関係に相当する協力関係(軍事的援助義務を伴わない協力関係)も形成されている。

歴史上において著名な協商としては、1873年に成立した三帝協商1891年に成立した三国協商1907年に成立した日仏協商及び日露協商1920年に成立した小協商があげられる。









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