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私は俵万智という人は、何となく人格が下品(女性性を「売り物」にした感じのためだろうか)な感じがしてあまり好きではないが、下の言葉は、「今は昔」の現代語訳の定番への疑問として正しいと思う。つまり、子供や読者に語り掛ける言葉として「(あなたがこの話を聞いている・読んでいる)今は、(話の中の時である)昔なのだと思って聞きなさいよ」というのが「今は昔」の意味だろう。まさに「今=昔」なのである。






さんがリツイート

「今は昔」って「今となっては昔のことだが」と訳すのが定番だけど、もっとダイレクトで不思議な呪文のように思う。「今=昔」ととなえると、イコールがトンネルになって、昔の現場にいる感じ。(息子の古文の宿題を横目で見つつ)






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「weblio英会話」とか何とかいうサイトからの転載だが、下の例文の訳は間違っているのではないか? いや、私は英語には自信は無いので、私の間違いかもしれないが、


The ​murderer was ​killed by his victim’s avenging wife.
被害者は妻の復讐を果たすために、殺人者を殺した

と訳文が書かれた英文の正しい訳文は、「殺人者は、その犠牲者の、復讐心に駆られた妻によって殺された」、つまり、殺されたのは「夫」であって「妻」ではないし、復讐したのは「夫」ではなく「妻」だと私は思うわけである。仮に私の解釈が正しいなら、英会話学校(か?)の宣伝としてはマズいように思う。
なお、この例文ではその復讐が憎悪による復讐か正義感による復讐かの区別もできないと思う。まあ、そもそも、敵討ちなどが「正義感からの復讐」とされているのも的外れだろうし、他の例文もあまり良くないように思う。敵討ちの動機は「個人的な恨み」と「正義感」の複合だろう。


(以下引用)


違いはなに?avenge と revengeの「復讐」の意味

avengerevenge は、単語の形が似ているだけでなく、意味も似ています。両者も「復讐する」という意味があるのです。両者はどのように使い分けられているのでしょうか。

「avenge」は正義感による復讐

avenge の「復讐」は、不正や悪事に対する、正義感から行うものを指します。日本語では、「敵討ち」「フェアな当然の仕返し」と言うことができます。

avenge + 復讐の目的 + on + 復讐する相手」の順番で使います。

The ​murderer was ​killed by his victim’s avenging wife.
被害者は妻の復讐を果たすために、殺人者を殺した

I’m sure that he will avenge us on our oppressor.
彼は迫害者をこらしめて私たちの敵を討ってくれると信じている

That young boy planned to avenge his father.
その若い少年は、父の敵討ちをしようと計画した

アメリカのヒーロー・コミック 『Avengers』も、avenger(正義の復讐者)からきています。

例の「包丁事件」で、警察が「思想犯の中から容疑者を探している」みたいな発言をしたらしく、「今の時代に『思想犯』という犯罪が存在するのか?」と疑問に思って調べてみたが、法律的にはどうなのかよく分からない。とにかく、警察は左翼関係者を「思想犯」としていることは確かなようだ。
これは、しかし、「思想犯」という言葉を言葉どおりに受け取れば、「心の中で考えただけで犯罪とする」という、終末SF(ディストピア)的状況ではないか。


(以下引用)


思想犯
しそうはん

現国家体制に批判的ないしこれに反対する思想に基づく犯罪。政治犯確信犯も類似した概念。国家は、特定の国家体制(または政治体制)を維持・強化するため、警察などの権力機構内部に思想犯を対象とする組織を設け、前記のような思想やこれに基づく社会運動を取り締まり、処罰する傾向をもつ。戦前のわが国では、治安維持法を頂点とするさまざまな治安法により、社会主義運動や労働運動はもとより、反戦運動、さらには自由主義的運動さえも、「国体」(天皇制)の変革や私有財産制度の否認を目的とするという理由で、特別高等警察(特高警察)などにより厳しく取り締まられ、処罰された。そして、敗戦に伴うポツダム宣言の受諾により、治安維持法や特高警察は廃止されたが、まもなく「新特高」とよばれる警備公安警察の組織が新設され、警察法第2条1項の「公共の安全と秩序の維持」を法的根拠として警察実務における「警備犯罪」(ここにいう思想犯を含む)を対象に幅広く情報収集活動を展開するとともに、共産主義運動、労働運動その他各種の社会運動に伴う不法事案の予防や鎮圧にあたっている。[名和鐵郎]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

「泉の波立ち」というサイトからの抜粋転載で、筆者は南堂という、大学の先生(だと思う)だが、毒舌家で独断と偏見に満ちた人間であるが、書く記事はだからこそ面白いものが多い。
下の記事におけるアメリカのドラマ(最近の映画やテレビドラマしか見ていないように思える)への批評には賛成である。ただし、アメリカやイギリスのテレビドラマの脚本は、「表層的な面白さ」という点では、抜群の手腕を持っている。たとえば、「ブレーキングバッド」など、「この大筋から、よくこれだけ周到な脚本を書けるなあ」という感嘆を覚えるし、イギリスの「ブラックミラー」など、ブラックSFとして、これも常人には書けないレベルに達している。
しかし、どちらも、「見て良かった」「いい時間を過ごした」とは思えず、むしろ、「悪い時間の過ごし方をした」と思うのである。べつに内容が暗いからとか結末が不幸だから、というわけではなく、「娯楽のためのドラマ」としてどうなのか、と思うわけだ。そりゃあ、善を描くよりは悪を描くほうが、リアルで刺激的な作品は作りやすいだろう。だが、見る側の生理としてどうなのか、ということだ。まあ、南堂氏が言うように、もともとエゴイストしかいない欧米人種の作るドラマだから、そういう作品だらけになるのは当然かもしれない。人間とケダモノの違いである。

引用記事について:米国のドラマについては賛成。日本のドラマはほとんど見ないので判断できないが、視聴感の良さという点で、たとえば「デスパレートな妻たち」という洋ドラマと「逃げるは恥だが役に立つ」を比べれば、同じコメディでも後者が圧倒的に爽やかであるのは明白だろう。つまり、エゴイストたちの恋愛も犯罪も知的なケダモノたちのふるまいでしかない。ただし、面白さ、という点だけで言えば、「デスパレートな妻たち」の脚本も演出も凄い水準である。「グリー!」なども同様。話は面白いが、人間はエゴイストだけであり、モラルの欠如した、猿に近い連中である。


(以下引用)

 米国のドラマでは、「愛」をテーマにしても、その愛は、あくまで自分の「愛する」という気持ちに基づく。その愛の対象は、「恋人」「妻」「子」などである。恋愛でなければ、家族愛がテーマとなる。よくあるのは、夫が妻や子を愛するというテーマだ。それで、誘拐された妻子を救おうとしたり、殺された妻子の復讐に立ち上がったりする。そこにある愛は、あくまで個人的な愛だ。エゴイスティックな愛と言ってもいい。その愛が意味を持つのは自分だけであって、他の誰も関係しないような、プライベートな愛だ。
 で、その愛の結末は、たいていはカタルシスが起こるようなもの(たとえば悪人の撲滅)である。ただし、それだけだ。「悪人がやっつけられて良かったね」とか、「主人公の愛が成就して良かったね」とか、そんな結末だ。カタルシスは起こるだろうが、別に感動するわけじゃない。「そうかい。よかったね」と思って、それでおしまいだ。

 日本のドラマでは、「愛」をテーマにしても、その愛は、恋人や家族を対象とした愛であるもの(いわゆる恋愛ドラマ)はあまり多くない。あるとしても、グズグズしていたりして、あんまり王道の恋愛ドラマにはならない。視聴者がもどかしくなるような恋愛ドラマの方が多い。
 その一方で、「他者のため」という非エゴイスティックな愛(あるいは優しさ)をテーマとするドラマはとても多い。特に、医療系はそうだ。この春のドラマで言うと、
  ・ 白衣の戦士
  ・ ラジエーション・ハウス

 といった医療ドラマが該当する。これらは、(医師ではなく)看護師や医療技師が、患者のためにすごく奮闘する。
 これでなくとも、医師を主人公とした同様の医療ドラマがある。たとえば、
  ・ コード・ブルー
  ・ 救命病棟24時

 がそうだ。これらでも、医師が、患者のためにすごく奮闘する。
 その奮闘のレベルは、およそ常識離れをしたレベルの奮闘だ。そのおかげで、患者の命が救われる。
 で、それを見た視聴者は、その非エゴイスティックな(滅私的な・自己犠牲的な)奮闘に、感動して、涙をこぼす。

 ──

 そのどちらがいいか、と言えば、人それぞれだろう。どっちにしても、お好みのものを見ればいい。

 ただ、私個人の趣味で言えば、アメリカの映画はあまりにも単純で子供じみていて、面白くない。スピードとサスペンスでは上なのだが、「自分のために行動する」という主人公を見ていると、「何てエゴイスティックな人間なんだ」と思って、呆れる。「正義のための行動」という名目で、銃弾をぶっ放して、銃弾の巻き添えを食う人(たとえば下っ端ボディーガード)が出たりすると、「この主人公はただの殺人狂じゃないか」とさえ感じる。馬鹿馬鹿しくて、ナンセンスに感じる。あまりにも粗暴で無慈悲で非人間的であり、とうてい共感できないし、感動なんてもってのほかである。
 ただし、唯一の例外と言えるのが、クリント・イーストウッド監督の作品だろうか。彼の作品には、「正義のための殺人をすることの虚しさ」というものが感じられることが多い。シルヴェスター・スタローン主演の後年の映画もそんな感じがある。(どちらも、人生前半ではさんざん人殺しのヒーローを演じてきた。それゆえ、人殺しヒーローの虚しさを理解できるようになったのだろう。)……この二人の映画には、リアリティが感じられるが、同時に、虚しさも感じられる。すっきりした読後感みたいなものは得られない。(むしろ重苦しさを感じる。)

 一方で、日本映画は全然逆だ。主人公は、カッコいいヒーローであるどころか、カッコ悪い愚直な馬鹿であることさえある。(たとえば「白衣の戦士」がそうだ。)しかし、愚直なほどにも奮闘して、結局は患者の生命や人生を救う。主人公は奮闘することで、自分は何も得ることはできず、骨折り損のくたびれもうけというところだが、たとえ自分はどれほど(労力の)損をしようとも、相手の患者には莫大な利益をもたらす。たとえば、死ぬはずだった命を救う。(ラジエーション・ハウスの前回放送では、内山理名の演じた患者の命を救う。)
 あるいは、多くの2時間サスペンスでは、親が子を守るために、自己犠牲をして、「私が犯人です」と嘘を言って、殺人犯の汚名を引き受けようとする。これもまた、「我が子のために自分がとんでもない犠牲を引き受ける」という他者愛だ。(自己愛・エゴイズムとは異なる。莫大な自己犠牲をともなう。)逆に、子が親を守るために、「私が犯人です」と嘘をつくこともある。……こういうのは、あまりにもご都合主義な展開ではあるのだが、そこにある自己犠牲の裏に、子や親を愛する本当の愛情が透けて見えるので、視聴者は感動して涙をこぼす。
 結局、日本のドラマには、「エゴイスティックな愛」を越えた「他者への愛」(自己犠牲をともなう愛)があるので、視聴者は感動して、涙をこぼす。……このような感動は、米国のドラマではなかなか見られないものだ。

 典型的なのは、「グッド・ワイフ」という番組だろう。これは米国のドラマを日本で翻案したものだが、キャラクターの設定がまったく違っていた。
 米国のドラマでは、登場人物はみんなエゴイスティックな性格で、自分勝手な行動を取るばかりだ。
 日本のドラマでは、自分勝手な行動を取るにしても、そうせざるを得ないような綿密な設定が細かく用意されているので、自分勝手な行動を取ることがあっても、特に不自然には思えない。基本的には誰もが「自分勝手な人間」ではないのだ。だからこそ、一見わがままに見える登場人物にも、視聴者は「なるほど」と感じて、共感できる。
 ひるがえって、米国のドラマでは、各人にまったく共感できない。「何だこいつ。自分勝手なことばかり言っていやがる。イヤなやつ」と感じるので、共感できないままだ。もちろん、ドラマにのめりこむこともできない。リアリティーを感じることもない。「どいつもこいつも、自分勝手な馬鹿ばかりだな」という感想を持つだけだ。

 なんか、アメリカの愛と、日本の愛を比べると、猿と人間ぐらいの差がある、という感じがしてくる。

( ※ 米国文化を、やたらと道徳や礼節やエチケットが優れている日本文化と比較するのは、もともと無理かもしれないが。)
ラスプーチンの生涯とおそらく大きな関係がある(彼の「超能力」は、そこでの修行から得たものかと思う。)鞭身派について調べたが、ウィキペディアにも無いようである。去勢派のほうがむしろ詳しい。とりあえず、両派を含む霊的キリスト教(奇妙な名称だ。「スピリチュアル」に、カルト的な意味を含ませているようである。)についての記述を転載。



霊的キリスト教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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霊的キリスト教ロシア語Духовное христианство, 英語Spiritual Christianity)とは、ロシアで17世紀から18世紀にかけて興った、プロテスタントからの影響と近縁関係を指摘される教派である、ドゥホボール派モロカン派鞭身派及び去勢派の総称である。これらの諸教派は確固とした組織及び厳密な教義を持たないことを共通の特徴とする[1]

概要[編集]

霊的キリスト教は古儀式派と混同されることがあるが、彼らは正教を自称せず、正教の古い儀式を守ることもないため、古儀式派には含まれない。主流派ロシア正教会から「分離派ラスコーリニキ)」と蔑称されることがある点は古儀式派と同じである。

霊的キリスト教は、プロテスタントには含まれないが、教義面での共通性及びプロテスタント神学からの影響関係等により、一定の近縁関係を指摘されている[1][2][3]ウクライナペンテコステ派の研究者であるV.フランチュクは、霊的キリスト教の諸派が聖霊の導きを強調している点などをプロテスタントとの共通点として指摘している[4]

正教会との対立並びに教会位階修道院制度、イコン及び聖人崇拝の否定は霊的キリスト教に固有のものである[1]

霊的キリスト教の信徒である霊的キリスト教徒は「霊と真理をもって(ヨハネ福音書4章23節)」神を崇拝し、「良い行いの倫理(этика добрых дел)」を信奉し、財産共有制の共同体の建設を目指す。彼らは数世紀にわたり、非公然あるいは半非公然の形で存在することに習熟してきた[1]

霊的キリスト教は、17世紀のロシア中央部の諸県で、組織的ではない神秘主義的かつ終末論的な大衆性を持つ運動を基盤として誕生した。研究者たちは霊的キリスト教運動の創始者を、17世紀の初めに伝道していたカピトン・ダニロフスキーロシア語版と考えている。この運動から鞭身派及び去勢派が最初に分岐した。モロカン派及びドゥホボール派が分岐したのはようやく18世紀末である。霊的キリスト教徒は当局側のみならず古儀式派からも迫害を受けたが、注意深く隠れ、集会を秘密裡に行い、正教の教会で領聖を受け、正教の慣習に従って死者を埋葬するなどしたため、生き延びることに成功した[1]

19世紀から20世紀初期にかけて、モロカン派及びドゥホボール派の信徒は活発にバプティストに改宗し、バプティストの初期の中心的な部分となった。19世紀初期以降、プロテスタントの著作のドイツ語からの翻訳がモロカン派の間で流布した。カルヴァン主義的なあるいはアルミニウス主義的な救いについての教義を持つ諸教派が出現した[5]

鞭身派及び去勢派はその際立った閉鎖性が特徴である。彼らの共同体はロシア全土に散在するが、その存在はしばしば誰にも知られていない。それにもかかわらず、鞭身派及び去勢派の活動はタンボフ州をはじめとするいくつかの州で明らかになっている。鞭身派及び去勢派の共同体にはカリスマ的な指導者を持つ。現在もかつてと同様に、鞭身派及び去勢派は秘密裡に存在し、周囲の非信者とのかかわりを避けている。鞭身派及び去勢派の共同体は主に南ロシアシベリアに存在する[6]

上記の4教派の他に、マリョーヴァンツィロシア語版チュリコフツィロシア語版旧イスラエル派ロシア語版新イスラエル派ロシア語版フョードロフツィロシア語版及びイコノボールツィロシア語版等も霊的キリスト教に分類されることがある。




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