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「クッキー焼いてフリマで売ってろ」発言が炎上した大きな理由は、クッキーとフリマという、女性の好きなものの代表的なものを完全否定し、そこにフェミニズム魂を掻き立てられた層が大きかったためだと思う。実際、郡氏の心底には「女性憎悪・女性嫌悪」があるからこそ、「クッキー」と「フリマ」という言葉が出てきたと私は心理分析する。
と同時に、郡氏は現在の言論状況全体への不満や苛立ちがあり、それがSNS批判となったのではないか。つまり、献本への返事をなぜSNSに上げる必要があるのか、という批判は、SNSに上げる行為よりも、実はSNSという存在への不満や嫌悪が先にあったのだと推定する。
郡氏は、「ユリイカ」の元編集長らしいが、あきらかに現代の言語世界は「ユリイカ」的なものから遠く離れている。SNS上でユリイカ的な言辞を弄したら、「馬鹿じゃねえの」「何言ってるかわかんね」と思われるだけだろう。つまり、彼は1970年代の化石なのである。
なお、私は高卒してすぐかそこらに「ユリイカ」を読んで、まったく理解できなかった。つまり、気取りまくった文学青年のための同人誌のようなものだ。素人読者を最初から拒絶する世界だったのである。今となっては、読まなくて良かったと思う。そのために精神を健全に保てた。未だにその残党が出版界周辺に棲息していたことのほうが驚異である。


  1. さんがリツイート
  1. 2017年2月14日
  1. オルタナ出版史の主題のひとつは、作家の代理人でも版元の使用人でもない「編集」は立つのか、通るのか。必然的に著作権、版権と敵対し、作者を主語とする文学史、出版社を主体とする出版史との階級闘争の様相を呈する。文学の下部構造と出版の無意識に手をつっこんでガタガタ言わせなければならない。
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  1. わたしも炎上したい!
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    1. 12時間前
    1. 編集者にとって、テクストは「選択又は配列」のための「素材」(「著作権法 第2章第1節第12条〔編集著作物〕」)に過ぎないもんでね。ごめんね。
    2. 1件の返信 1件のリツイート 2 いいね


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「最初の10分か15分で観客を惹き付けない映画はダメ」、というのは昔から言われている。つまり、映画は時間芸術だから、魅力の無い映画を2時間前後も(長い場合は3時間以上も)見るような観客はマニア以外にはいないということだろう。小説でも最初だけ読んで買う人も多いのではないか。漫画の場合は、絵柄の良し悪しが判断基準としては大きいだろう。好きな絵柄だと、さほど面白くなくても、読んで損したとはあまり思わない。つまり、好きな女優やタレントの出ている映画やテレビと同じことで、「眺めるだけで楽しい」からである。
ちなみに、山本貴嗣氏の漫画の絵柄(キャラ表現のバリエーションは増えたが、デビュー当時から基本的には変わっていない。)は私はまったく好みではないが、ツィッターの内容が面白いのでツィッターのファンである。ただし、人格的な偏りも凄いな、と思っているのだが、そこが思考の鋭さに関係しているのかもしれない。通して読んだ漫画作品はデビュー直後の作品を一作読んだ(そして、つまらないと思った。ただ、私はゆうきまさみのデビューのころの作品もつまらないと思ったが、今は大好きである。)という程度なので、話作りの腕は分からない。
なお、私の持論だが、一般人相手の人気が大事という仕事をする人は、難読の「芸名」や「ペンネーム」を使ってはならないと思う。私が山本貴嗣氏の下の名前を「あつじ」と読むのだと知ったのは、氏のツィッターを読み始めてから(つまり、ここ数年)である。氏の存在はデビュー直後から知っていた。
かりに編集者が編集長に推薦しようとして、「やまもとあつじの作品はいいですよ」、などと言っても、「やまもとあつじ? 聞いたことねえなあ(山本たかしなら知っているが)」となる(なっていた)のではないか。私が山本氏なら、デビュー時点で「山本貴嗣」ではなく「山本あつじ」の名前(表記)を使ったと思う。

なお、下で論じられている作劇法は一面的すぎるように思う。上の方にも書いたように、漫画の魅力は話の進め方だけではなく、話自体の面白さ、絵としての魅力、キャラの魅力などいろいろあり、静かな滑り出しでも興味を持たせる漫画はたくさんあると思う。
ちなみに、大塚士郎氏のこの「学習漫画」にしても、最初に出てくるキャラ(先生役)を可愛い女の子にしているのは、当然、そのほうが読んでいる人の興味を惹きやすいからである。汚いオッサンが偉そうに講釈を垂れる学習漫画を読みたい奴はいない。
ついでに言えば、私は、いきなりドンパチのアクションから始まる最近の映画(バットマン映画の類)の流行は大嫌いである。それだけで、底の浅さが分かるから、途中で切ることが多い。

  1. 山本貴嗣‏ @atsuji_yamamoto 3時間3時間前
  1. 極論すると最初の一コマでもう何かはじまってるくらいが今のマンガ(特にネットでは)いいのかなって思います。これから何か始まるぞじゃない。見た瞬間に始まってる。お客の忍耐を試すような演出はあかんかと。
  1. 暗い宇宙に文字だけ現れては消えるのが何分か続く、って映画館なら我慢もするけど家で見てたらやめますよ自分。昭和の時代じゃないんで。まあ録画してから見れば早送りもできるけど指が疲れるのいや。
  1. 映画の15分って漫画だと何十ページ?今は出だし3分くらいで見る気にさせてくれないと辛い気がする(あくまで個人の感想です)いやもうなんでもない風景に文字とか「話始まらないのかよ」ってチャンネル変えますがな
  1. 15分かああ、ダメな映画は1分で飽きるからな>RT



「福音主義」というのも、名前と内容が乖離した、意味不明の名称(訳語)で、「聖書主義」とでも言えば明確になるのではないか。それによって、カトリックの「教会主義」との違いも明確になる。


(以下引用)





福音主義(ふくいんしゅぎ、英語: Evangelicalism)とは、キリスト教教派神学分類の用語である。

福音主義・福音派[編集]

宗教改革当時[編集]

元来、キリスト教において宗教改革の立場を採る考え方を福音主義と呼んだ。21世紀初頭を代表する英国聖公会福音派神学者であるアリスター・マクグラスによると「『福音的(Evangelical)』と言う言葉は16世紀に遡り、カトリックの思想家の中で、信仰や実践について、中世後期の教会と結びついたものよりも、より聖書的なものに立ち返ろうとした人々」のことを指して、他のカトリックから区別したとされる。プロテスタントが「福音主義・福音派」と呼ばれたのは、このように教会における権威の所在を「聖書のみ」とし、神のことばに求めたからであった。

近年の用法[編集]

マクグラス他によれば「福音派」は、今日では大きな4つの前提を中心としているとされる。

  • 聖書の権威と十分性
  • 十字架上のキリストの死による贖いの独自性
  • 個人的回心の必要性 
  • 福音伝道の必要性・正当性・緊急性

マクグラスは「他のすべての事柄はアディアフォラ、つまり『無関心な事柄』とみなされる傾向がある」としている。すなわち、上記4点以外については多様な見解・立場を受け入れるのである[1]

15,16世紀の東部ドイツの領主制の実態がよく分かる記述である。この時代、この地域だけの特殊形態と書いてあるが、農奴制全体がだいたいこれに近いものだったと考えていいのではないか。つまり、中世のRPG的な話をある程度リアルに書く時は、こういう状況を頭に置いて書けばいいということである。

(以下引用)


グーツヘルシャフト
ぐーつへるしゃふと
Gutsherrschaftドイツ語

15、16世紀以降エルベ川以東の東部ドイツに発達した領主制の特殊形態。広大な領主農場の存在と領主(グーツヘル)によるその直接経営、村落農民に対する領主の排他的支配を特徴とする。領主は自己の農場を農民の賦役労働によって経営し、市場向けの農業生産を行ったが、農民に対する領主の支配はきわめて強固かつ封建的で、農民は土地を与えられてはいたが領主の許可なしには土地を離れられず、職業選択や結婚の自由もなく、またその子女は僕婢(ぼくひ)として領主のもとで働く義務を負っていた。反面、領主には農民を保護する義務があったが、世襲的に領主に隷属する農民は、その土地保有権にも十分な保障がなく、つねに領主による土地収奪の危険にさらされていた。このような領主―農民関係は、土地領主権のみならず、他のさまざまの支配=保護権(裁判権、警察権、また村長任命権や教会保護権)を領主が一手に掌握したことにより実現され、かつ維持されたものであり、したがってグーツヘルシャフトは、それ自体小規模ながら「国家内の国家」ともいうべき完結した支配領域を形づくっていた。18世紀以降、国家の農民保護政策が領主の支配に制限を加え、また農業労働者による資本主義的農業経営が広まるにつれて、旧来の領主―農民関係は変質を迫られる。そして19世紀の農民解放立法によって、グーツヘルシャフトは解体の過程に入るのである。[坂井榮八郎]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例



一連の話題と無関係な写真とコメントがひとつ入っているが、興味深い写真なので保存のため残した。つまりシュワルツェネッガーは大男だというイメージだが、あれは映画の中での撮り方(少し見上げるように撮る、同じ画面での相手役に背の低い俳優を使う、など)によるものだろう、と推定できる。確かにアンドレ・ザ・ジャイアントは巨人だったが、他のプロレスラーとの比較では、下の写真ほどの身長の差は無かった記憶がある。おそらく、向かって左側の男もプロレスラーだと思うが、背の高さではアンドレとほぼ等しい。芸能人は意外と背が低いのである。

さて、本題のほうだが、世の中の人間の半分はIQが50以下(笑)という事実が厳然としてあり、その下の部分の人間は、おそらく漫画すら真に理解する能力が無く、本を読む力はもちろん無い。テレビを見ていても、その「読解力(理解力)」は、送り手が意図したものとかなりかけ離れていると思われる。
つまり、山本氏が思う、「後で仲直りするための喧嘩」の類は、大方の非知的な視聴者にはそれほど先読みされていないわけだから、後で仲直りしたら喜んで、「イイ話ダナア」となるのであり、そういう話を書けないクリエイターは「マイナークリエイター」になるのだと思われる。
要するに、クリエイターは、同じクリエイターレベルの知能を消費者に期待してはいけない、ということだ。優れた創作物が同時代人に正当に批評されることはむしろ例外的だと思うのが正しいと私は思っている。優れた作品は、一部の「知的な消費者や批評者」が正当に批評し、それがやがて大きな力となって一般消費者にもその価値が知られるのがふつうだろう。
それは漫画の神様の手塚治虫ですら例外ではなく、一時期は、子供にあまり人気が無くて評価が下がっていたのだが、だんだんと大人層の評価が上がることで作家生命を維持したのである。つまり、手塚が出てきた時には彼に比肩する漫画家がいなかったが、手塚を模倣した漫画が世にあふれ出すと、子供の目には手塚とそのエピゴーネンの違いが分からず、手塚を特に評価しなくなったわけだ。これは手塚のせいではなく、「批評家としての子供」の側の問題だ。子供には「ウンコだシッコだパンツだ」という漫画のほうが「面白かった」だけにすぎない。


  1. 山本貴嗣‏ @atsuji_yamamoto 9時間9時間前
  1. 自分はもうスレてるというか「あとで仲直りするための喧嘩とかよせよ」とか思うんですが(そんなこと言ってるからマイナーなのかもですが)、最後に和解するためにいがみあう親子とか、映画でもドラマでも見てると茶番みたいで辛いんですよね。いいから最初から仲良くしててくれw
  1. 昨日TVで『キング・オブ・デストロイヤー/コナンPART2』やってたのをチラッと観た。怪物がシュワを投げ飛ばした後の身のこなし方がどうもプロレスラーっぽい動きで、調べてみたら中の人はアンドレ・ザ・ジャイアントだった。なるほど。
  1. 続き)そういうこと全然わかんなくて「なんてひどいやつだ許せん!」とか「この作者はこんなことを思ってるのか許せん」とか誤解し怒り始める人いますけど、ふつうの人ってそういうベタな演出見た瞬間にわかる、とかいう感覚ないんですかね。それとも創作を生業にしてる人間の特殊技能なんでしょうか;
    1. ドラマとかであからさまにひどいことを言うひどいキャラとか出てくるじゃないですか。創作者としては「あーわかったわかった、ここから始めといて後でひどい目に遭うとか、自分の愚かさに気づいて大改心するとかのタメのひどさね。またこの手かよ、見飽きたよその演出」とかいうポジションなのに(続く


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