これは、しかし、「思想犯」という言葉を言葉どおりに受け取れば、「心の中で考えただけで犯罪とする」という、終末SF(ディストピア)的状況ではないか。
(以下引用)
思想犯
しそうはん
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
下の記事におけるアメリカのドラマ(最近の映画やテレビドラマしか見ていないように思える)への批評には賛成である。ただし、アメリカやイギリスのテレビドラマの脚本は、「表層的な面白さ」という点では、抜群の手腕を持っている。たとえば、「ブレーキングバッド」など、「この大筋から、よくこれだけ周到な脚本を書けるなあ」という感嘆を覚えるし、イギリスの「ブラックミラー」など、ブラックSFとして、これも常人には書けないレベルに達している。
しかし、どちらも、「見て良かった」「いい時間を過ごした」とは思えず、むしろ、「悪い時間の過ごし方をした」と思うのである。べつに内容が暗いからとか結末が不幸だから、というわけではなく、「娯楽のためのドラマ」としてどうなのか、と思うわけだ。そりゃあ、善を描くよりは悪を描くほうが、リアルで刺激的な作品は作りやすいだろう。だが、見る側の生理としてどうなのか、ということだ。まあ、南堂氏が言うように、もともとエゴイストしかいない欧米人種の作るドラマだから、そういう作品だらけになるのは当然かもしれない。人間とケダモノの違いである。
引用記事について:米国のドラマについては賛成。日本のドラマはほとんど見ないので判断できないが、視聴感の良さという点で、たとえば「デスパレートな妻たち」という洋ドラマと「逃げるは恥だが役に立つ」を比べれば、同じコメディでも後者が圧倒的に爽やかであるのは明白だろう。つまり、エゴイストたちの恋愛も犯罪も知的なケダモノたちのふるまいでしかない。ただし、面白さ、という点だけで言えば、「デスパレートな妻たち」の脚本も演出も凄い水準である。「グリー!」なども同様。話は面白いが、人間はエゴイストだけであり、モラルの欠如した、猿に近い連中である。
(以下引用)
米国のドラマでは、「愛」をテーマにしても、その愛は、あくまで自分の「愛する」という気持ちに基づく。その愛の対象は、「恋人」「妻」「子」などである。恋愛でなければ、家族愛がテーマとなる。よくあるのは、夫が妻や子を愛するというテーマだ。それで、誘拐された妻子を救おうとしたり、殺された妻子の復讐に立ち上がったりする。そこにある愛は、あくまで個人的な愛だ。エゴイスティックな愛と言ってもいい。その愛が意味を持つのは自分だけであって、他の誰も関係しないような、プライベートな愛だ。
で、その愛の結末は、たいていはカタルシスが起こるようなもの(たとえば悪人の撲滅)である。ただし、それだけだ。「悪人がやっつけられて良かったね」とか、「主人公の愛が成就して良かったね」とか、そんな結末だ。カタルシスは起こるだろうが、別に感動するわけじゃない。「そうかい。よかったね」と思って、それでおしまいだ。
日本のドラマでは、「愛」をテーマにしても、その愛は、恋人や家族を対象とした愛であるもの(いわゆる恋愛ドラマ)はあまり多くない。あるとしても、グズグズしていたりして、あんまり王道の恋愛ドラマにはならない。視聴者がもどかしくなるような恋愛ドラマの方が多い。
その一方で、「他者のため」という非エゴイスティックな愛(あるいは優しさ)をテーマとするドラマはとても多い。特に、医療系はそうだ。この春のドラマで言うと、
・ 白衣の戦士
・ ラジエーション・ハウス
といった医療ドラマが該当する。これらは、(医師ではなく)看護師や医療技師が、患者のためにすごく奮闘する。
これでなくとも、医師を主人公とした同様の医療ドラマがある。たとえば、
・ コード・ブルー
・ 救命病棟24時
がそうだ。これらでも、医師が、患者のためにすごく奮闘する。
その奮闘のレベルは、およそ常識離れをしたレベルの奮闘だ。そのおかげで、患者の命が救われる。
で、それを見た視聴者は、その非エゴイスティックな(滅私的な・自己犠牲的な)奮闘に、感動して、涙をこぼす。
──
そのどちらがいいか、と言えば、人それぞれだろう。どっちにしても、お好みのものを見ればいい。
ただ、私個人の趣味で言えば、アメリカの映画はあまりにも単純で子供じみていて、面白くない。スピードとサスペンスでは上なのだが、「自分のために行動する」という主人公を見ていると、「何てエゴイスティックな人間なんだ」と思って、呆れる。「正義のための行動」という名目で、銃弾をぶっ放して、銃弾の巻き添えを食う人(たとえば下っ端ボディーガード)が出たりすると、「この主人公はただの殺人狂じゃないか」とさえ感じる。馬鹿馬鹿しくて、ナンセンスに感じる。あまりにも粗暴で無慈悲で非人間的であり、とうてい共感できないし、感動なんてもってのほかである。
ただし、唯一の例外と言えるのが、クリント・イーストウッド監督の作品だろうか。彼の作品には、「正義のための殺人をすることの虚しさ」というものが感じられることが多い。シルヴェスター・スタローン主演の後年の映画もそんな感じがある。(どちらも、人生前半ではさんざん人殺しのヒーローを演じてきた。それゆえ、人殺しヒーローの虚しさを理解できるようになったのだろう。)……この二人の映画には、リアリティが感じられるが、同時に、虚しさも感じられる。すっきりした読後感みたいなものは得られない。(むしろ重苦しさを感じる。)
一方で、日本映画は全然逆だ。主人公は、カッコいいヒーローであるどころか、カッコ悪い愚直な馬鹿であることさえある。(たとえば「白衣の戦士」がそうだ。)しかし、愚直なほどにも奮闘して、結局は患者の生命や人生を救う。主人公は奮闘することで、自分は何も得ることはできず、骨折り損のくたびれもうけというところだが、たとえ自分はどれほど(労力の)損をしようとも、相手の患者には莫大な利益をもたらす。たとえば、死ぬはずだった命を救う。(ラジエーション・ハウスの前回放送では、内山理名の演じた患者の命を救う。)
あるいは、多くの2時間サスペンスでは、親が子を守るために、自己犠牲をして、「私が犯人です」と嘘を言って、殺人犯の汚名を引き受けようとする。これもまた、「我が子のために自分がとんでもない犠牲を引き受ける」という他者愛だ。(自己愛・エゴイズムとは異なる。莫大な自己犠牲をともなう。)逆に、子が親を守るために、「私が犯人です」と嘘をつくこともある。……こういうのは、あまりにもご都合主義な展開ではあるのだが、そこにある自己犠牲の裏に、子や親を愛する本当の愛情が透けて見えるので、視聴者は感動して涙をこぼす。
結局、日本のドラマには、「エゴイスティックな愛」を越えた「他者への愛」(自己犠牲をともなう愛)があるので、視聴者は感動して、涙をこぼす。……このような感動は、米国のドラマではなかなか見られないものだ。
典型的なのは、「グッド・ワイフ」という番組だろう。これは米国のドラマを日本で翻案したものだが、キャラクターの設定がまったく違っていた。
米国のドラマでは、登場人物はみんなエゴイスティックな性格で、自分勝手な行動を取るばかりだ。
日本のドラマでは、自分勝手な行動を取るにしても、そうせざるを得ないような綿密な設定が細かく用意されているので、自分勝手な行動を取ることがあっても、特に不自然には思えない。基本的には誰もが「自分勝手な人間」ではないのだ。だからこそ、一見わがままに見える登場人物にも、視聴者は「なるほど」と感じて、共感できる。
ひるがえって、米国のドラマでは、各人にまったく共感できない。「何だこいつ。自分勝手なことばかり言っていやがる。イヤなやつ」と感じるので、共感できないままだ。もちろん、ドラマにのめりこむこともできない。リアリティーを感じることもない。「どいつもこいつも、自分勝手な馬鹿ばかりだな」という感想を持つだけだ。
なんか、アメリカの愛と、日本の愛を比べると、猿と人間ぐらいの差がある、という感じがしてくる。
( ※ 米国文化を、やたらと道徳や礼節やエチケットが優れている日本文化と比較するのは、もともと無理かもしれないが。)
霊的キリスト教
霊的キリスト教(ロシア語:Духовное христианство, 英語:Spiritual Christianity)とは、ロシアで17世紀から18世紀にかけて興った、プロテスタントからの影響と近縁関係を指摘される教派である、ドゥホボール派、モロカン派、鞭身派及び去勢派の総称である。これらの諸教派は確固とした組織及び厳密な教義を持たないことを共通の特徴とする[1] 。
概要[編集]
霊的キリスト教は古儀式派と混同されることがあるが、彼らは正教を自称せず、正教の古い儀式を守ることもないため、古儀式派には含まれない。主流派ロシア正教会から「分離派(ラスコーリニキ)」と蔑称されることがある点は古儀式派と同じである。
霊的キリスト教は、プロテスタントには含まれないが、教義面での共通性及びプロテスタント神学からの影響関係等により、一定の近縁関係を指摘されている[1][2][3]。ウクライナのペンテコステ派の研究者であるV.フランチュクは、霊的キリスト教の諸派が聖霊の導きを強調している点などをプロテスタントとの共通点として指摘している[4]。
正教会との対立並びに教会位階、修道院制度、イコン及び聖人崇拝の否定は霊的キリスト教に固有のものである[1] 。
霊的キリスト教の信徒である霊的キリスト教徒は「霊と真理をもって(ヨハネ福音書4章23節)」神を崇拝し、「良い行いの倫理(этика добрых дел)」を信奉し、財産共有制の共同体の建設を目指す。彼らは数世紀にわたり、非公然あるいは半非公然の形で存在することに習熟してきた[1]。
霊的キリスト教は、17世紀のロシア中央部の諸県で、組織的ではない神秘主義的かつ終末論的な大衆性を持つ運動を基盤として誕生した。研究者たちは霊的キリスト教運動の創始者を、17世紀の初めに伝道していたカピトン・ダニロフスキーと考えている。この運動から鞭身派及び去勢派が最初に分岐した。モロカン派及びドゥホボール派が分岐したのはようやく18世紀末である。霊的キリスト教徒は当局側のみならず古儀式派からも迫害を受けたが、注意深く隠れ、集会を秘密裡に行い、正教の教会で領聖を受け、正教の慣習に従って死者を埋葬するなどしたため、生き延びることに成功した[1]。
19世紀から20世紀初期にかけて、モロカン派及びドゥホボール派の信徒は活発にバプティストに改宗し、バプティストの初期の中心的な部分となった。19世紀初期以降、プロテスタントの著作のドイツ語からの翻訳がモロカン派の間で流布した。カルヴァン主義的なあるいはアルミニウス主義的な救いについての教義を持つ諸教派が出現した[5]。
鞭身派及び去勢派はその際立った閉鎖性が特徴である。彼らの共同体はロシア全土に散在するが、その存在はしばしば誰にも知られていない。それにもかかわらず、鞭身派及び去勢派の活動はタンボフ州をはじめとするいくつかの州で明らかになっている。鞭身派及び去勢派の共同体にはカリスマ的な指導者を持つ。現在もかつてと同様に、鞭身派及び去勢派は秘密裡に存在し、周囲の非信者とのかかわりを避けている。鞭身派及び去勢派の共同体は主に南ロシアとシベリアに存在する[6]。
上記の4教派の他に、マリョーヴァンツィ、チュリコフツィ、旧イスラエル派、新イスラエル派、フョードロフツィ及びイコノボールツィ等も霊的キリスト教に分類されることがある。
と同時に、郡氏は現在の言論状況全体への不満や苛立ちがあり、それがSNS批判となったのではないか。つまり、献本への返事をなぜSNSに上げる必要があるのか、という批判は、SNSに上げる行為よりも、実はSNSという存在への不満や嫌悪が先にあったのだと推定する。
郡氏は、「ユリイカ」の元編集長らしいが、あきらかに現代の言語世界は「ユリイカ」的なものから遠く離れている。SNS上でユリイカ的な言辞を弄したら、「馬鹿じゃねえの」「何言ってるかわかんね」と思われるだけだろう。つまり、彼は1970年代の化石なのである。
なお、私は高卒してすぐかそこらに「ユリイカ」を読んで、まったく理解できなかった。つまり、気取りまくった文学青年のための同人誌のようなものだ。素人読者を最初から拒絶する世界だったのである。今となっては、読まなくて良かったと思う。そのために精神を健全に保てた。未だにその残党が出版界周辺に棲息していたことのほうが驚異である。
- 郡淳一郎さんがリツイート
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オルタナ出版史の主題のひとつは、作家の代理人でも版元の使用人でもない「編集」は立つのか、通るのか。必然的に著作権、版権と敵対し、作者を主語とする文学史、出版社を主体とする出版史との階級闘争の様相を呈する。文学の下部構造と出版の無意識に手をつっこんでガタガタ言わせなければならない。
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郡淳一郎さんがリツイート
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わたしも炎上したい!
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編集者にとって、テクストは「選択又は配列」のための「素材」(「著作権法 第2章第1節第12条〔編集著作物〕」)に過ぎないもんでね。ごめんね。https://twitter.com/tonookamarina/status/1121650591627759617 …
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ちなみに、山本貴嗣氏の漫画の絵柄(キャラ表現のバリエーションは増えたが、デビュー当時から基本的には変わっていない。)は私はまったく好みではないが、ツィッターの内容が面白いのでツィッターのファンである。ただし、人格的な偏りも凄いな、と思っているのだが、そこが思考の鋭さに関係しているのかもしれない。通して読んだ漫画作品はデビュー直後の作品を一作読んだ(そして、つまらないと思った。ただ、私はゆうきまさみのデビューのころの作品もつまらないと思ったが、今は大好きである。)という程度なので、話作りの腕は分からない。
なお、私の持論だが、一般人相手の人気が大事という仕事をする人は、難読の「芸名」や「ペンネーム」を使ってはならないと思う。私が山本貴嗣氏の下の名前を「あつじ」と読むのだと知ったのは、氏のツィッターを読み始めてから(つまり、ここ数年)である。氏の存在はデビュー直後から知っていた。
かりに編集者が編集長に推薦しようとして、「やまもとあつじの作品はいいですよ」、などと言っても、「やまもとあつじ? 聞いたことねえなあ(山本たかしなら知っているが)」となる(なっていた)のではないか。私が山本氏なら、デビュー時点で「山本貴嗣」ではなく「山本あつじ」の名前(表記)を使ったと思う。
なお、下で論じられている作劇法は一面的すぎるように思う。上の方にも書いたように、漫画の魅力は話の進め方だけではなく、話自体の面白さ、絵としての魅力、キャラの魅力などいろいろあり、静かな滑り出しでも興味を持たせる漫画はたくさんあると思う。
ちなみに、大塚士郎氏のこの「学習漫画」にしても、最初に出てくるキャラ(先生役)を可愛い女の子にしているのは、当然、そのほうが読んでいる人の興味を惹きやすいからである。汚いオッサンが偉そうに講釈を垂れる学習漫画を読みたい奴はいない。
ついでに言えば、私は、いきなりドンパチのアクションから始まる最近の映画(バットマン映画の類)の流行は大嫌いである。それだけで、底の浅さが分かるから、途中で切ることが多い。
- 山本貴嗣 @atsuji_yamamoto 3時間3時間前
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極論すると最初の一コマでもう何かはじまってるくらいが今のマンガ(特にネットでは)いいのかなって思います。これから何か始まるぞじゃない。見た瞬間に始まってる。お客の忍耐を試すような演出はあかんかと。
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暗い宇宙に文字だけ現れては消えるのが何分か続く、って映画館なら我慢もするけど家で見てたらやめますよ自分。昭和の時代じゃないんで。まあ録画してから見れば早送りもできるけど指が疲れるのいや。
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映画の15分って漫画だと何十ページ?今は出だし3分くらいで見る気にさせてくれないと辛い気がする(あくまで個人の感想です)いやもうなんでもない風景に文字とか「話始まらないのかよ」ってチャンネル変えますがな
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15分かああ、ダメな映画は1分で飽きるからな>RT
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山本貴嗣さんがリツイート
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漫画家志望さんへ 自分の漫画を面白くできる映画の見方があります 明日からすぐできますのでぜひ試してみてくださいpic.twitter.com/XbR5AS3LeJ
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