位置エネルギー大事!
鎧着込んだ騎士相手には長剣では倒せないんで無理して振り回す必要はないw
カバラ
(קַבָּלָה qabbalah, Kabbala, Cabbala)、
カバラーとは、
ユダヤ教の伝統に基づいた創造論、
終末論、メシア論を伴う神秘主義思想である。
独特の宇宙観を持っていることから、
しばしば仏教における密教との類似性を
指摘されることがある。
しかし、これはもっぱら積極的な教義開示を
行わないという類似性であって、
教義や起源等の類似性のことではない。
出典
カバラーはヘブライ語の動詞キッベール
「受け入れる」「伝承する」の名詞形で、
「受け入れ」「伝承」を意味する。
カバラーが登場する以前の
ゲオーニーム時代には、
単に口伝律法を指す言葉として用いられた。
したがって、その後ユダヤ教神秘主義を指す
呼称となった際にも、
個人が独自に体得した神秘思想というよりは、
神から伝授された知恵、
あるいは師が弟子に伝承した神秘という
意味で用いられることになる。
カバラーはユダヤ教の伝統に忠実な
側面を持とうとしたという点において、
他の宗教の神秘主義とは異なる。
出典
本来のカバラーは、
ユダヤ教の律法を遵守すること、
あるいは神から律法の真意を学ぶことを目的とした。
したがって、
正統的なユダヤ教との親和性を持っていた
時期もあったため、
必ずしも秘教的な神秘思想とは言えない。
しかし、
キリスト教の神秘家に採り入れられるようになると、
ユダヤ教の伝統からは乖離した極めて個人的な
神秘体験の追究の手段として用いられることになる。
出典
Cabal(カバル)とは、かつてイングランドに存在していたグループ。イングランド・スコットランド・アイルランド王チャールズ2世に取り立てられた5人の政治家を指して名付けられた。
Cabal(カバル)はもともとユダヤ教のカバラを語源とする言葉で、英語では「意見を同じくする者たちの集団」、「政治的陰謀団」といった意味の言葉であるが、この5人の政治家の頭文字もちょうどCabalになることから、この5人を指して「Cabal Ministry」(カバル内閣)と呼ぶようになった。
チャールズ2世の治世初期はクラレンドン伯爵エドワード・ハイドが政権を運営していたが、1665年から1667年の第二次英蘭戦争でイングランドが劣勢のまま終戦に至ると反対派の突き上げにあい失脚、フランスへ亡命した。このため、チャールズ2世は新たにトマス・クリフォード、アーリントン男爵ヘンリー・ベネット、バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズ、アントニー・アシュリー=クーパー、ローダーデイル伯ジョン・メイトランドの5人を側近に取り立てた。政権は5人の頭文字を取ってCabalと名付けられた(クリフォード(Clliford)、アーリントン(Arlington)、バッキンガム(Buckingham)、アシュリー(Ashley)、ローダーデイル(Lauderdale))。
5人はイングランド国教会に属さない非国教徒であること、宗教に寛容であること以外に共通点は無かったが、クリフォードとアーリントンはイングランド議会で国王派を結集してクラレンドンの外交政策を攻撃、チャールズ2世に議会内部の支持者として登用された。アシュリーはクリフォードと共に大蔵委員会の委員として財政を担当、バッキンガムは枢密顧問官、ローダーデイルはスコットランドにおけるチャールズ2世の代理としてスコットランドを統治した[1]。
外交では国務大臣のアーリントンが主導して親オランダを掲げ、1667年にフランス王ルイ14世がスペイン領ネーデルラントを侵略すると(ネーデルラント継承戦争)、1668年にウィリアム・テンプルと組んでオランダ・スウェーデンと三国同盟を締結、フランスの進軍を阻止した。しかし、親フランスのチャールズ2世は1670年に独断でルイ14世とドーヴァーの密約を結び、クリフォードとアーリントンがイングランド代表として調印したことは政府の外交政策が一貫していないことを表し、議会から不信感を抱かれた。
1672年3月にチャールズ2世が第三次英蘭戦争を始め、続いて4月にルイ14世がオランダ侵略戦争を勃発させると議会の反感を更に買う結果となった。戦争に先立ちチャールズ2世は1月にクリフォードの提案で国庫支払い停止を行い、3月に宗教の寛容を唱えた信仰自由宣言の発布にアシュリーが賛成、クリフォードは男爵に叙され大蔵卿に就任、アシュリーもシャフツベリ伯爵に叙され大法官に任命されたが、これらの政策に反発した議会は英蘭戦争の続行に難色を示した。
議会は1673年に戦費承認と引き換えに信仰自由宣言の撤回及び非国教徒とカトリックの公職排除を記した審査法の制定をチャールズ2世に求め、チャールズ2世が屈服して両方とも承諾するとCabalの影響力は弱まり、クリフォードはカトリックだったため同年に大蔵卿を辞任して急死、シャフツベリはドーヴァーの密約で親カトリックの裏条項を知るとチャールズ2世に反発、審査法に賛成したため大法官を追われて下野、翌1674年にアーリントンも議会に弾劾され国務大臣を辞任、バッキンガムとローダーデイルは残ったがCabalは実質的に崩壊した。以後、クリフォード辞任後に大蔵卿となったダンビー伯トマス・オズボーンが親オランダ政策を掲げ政権を率いていった[2]。