元記事が分からないから、これは事実を書いているのか空想なのか知らないが、完全武装の騎士40人と農民9000人で騎士が圧勝というのは信じがたい。完全武装した騎士でも木材や農具で殴ればダメージは大きいだろうし、遠くから石を投げれば剣も槍も届かない。鎧の重さから考えて、騎士の動ける体力は2時間くらいが限界だと思う。そもそも、鎧を着た騎士は走れないのだから、農民はヒットアンドアウェイで戦えばいい。騎士が馬に乗っていたら、その馬をまず倒せばいい。砂で目つぶししてもいいし、大きな音で驚かせてもいい。足をなぎ払ってもいい。最初から農民側の戦意が無いという前提での話でしかないと思う。
(以下引用)
(以下引用)
面白い記事。 完全武装の騎士40人vs農民9000人なら騎士の圧勝が順当だと思う。記事にもある通りまず騎士が現れたら農民側の戦意が喪失する可能性が高い。でも死者7000は盛りすぎ。退路が絶たれてない限り、大半は逃げるから。 士気が異常に高かったり何かの作戦が奏功したりすれば農民側にも勝機が。
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私は字が下手なので、字が上手くなる原理や原則のようなものが知りたいのだが、下の子供の字はその好例になりそうだ。
一画一画は実に端正で、書字における「運動神経」(指先神経)が非常に良さそうだが、一字一字のバランスが非常に悪い。つまり、字の大きさの統一性が無いように思える。たとえば「土曜」という熟語が、「土」が小さく「曜」が大きいのでアンバランスに見える。そして、ひとつの字の中でも部分と部分の相対的な大きさのバランスが取れていない。たとえば、「曜」という字の右と左のバランスである。
全体的に言うと、ひらがなに癖が強く、「な」や「か」や「れ」が癖字である。「を」も癖字っぽい。これは、ひらがなはわりと低学年で覚えるから、その段階で癖がついたのだと思う。
一番大きな特徴として、一字一字を書くことに神経が囚われ、書面全体での統合性が無いように見える。書道なら一字ごとに神経を集中するのは好ましいだろうが、ペン字だと、下の写真のように字と字のバランスが悪いと特に目立つようである。つまり、活字のように、すべての字がひとつの四角の中に納まるイメージで書くと書面全体でのバランスも良くなるのだろう。このことを学校教育の最初で教えるべきではないだろうか。つまり、国語のノート(原稿用紙型)のマス目の八分目くらいを目安に、マス目の四角の中に字を収めるイメージである。マス目が無いノートでも、そのイメージを持つということだ。
しかし、繰り返すが、下の写真の漢字では一画一画を実に丁寧に書いていることがよく分かり、それ自体はとてもいい。(ひらがなだと気がゆるむのか、雑さを感じる。)字の下手な人間は、一画一画に神経を集中していないから、どんどん下手になるのだと思う。まあ、それ以前に「どういう字を書くべきか」というモデルが頭の中に無いのが字の下手な人間の特徴だと思う。
(以下引用)
一画一画は実に端正で、書字における「運動神経」(指先神経)が非常に良さそうだが、一字一字のバランスが非常に悪い。つまり、字の大きさの統一性が無いように思える。たとえば「土曜」という熟語が、「土」が小さく「曜」が大きいのでアンバランスに見える。そして、ひとつの字の中でも部分と部分の相対的な大きさのバランスが取れていない。たとえば、「曜」という字の右と左のバランスである。
全体的に言うと、ひらがなに癖が強く、「な」や「か」や「れ」が癖字である。「を」も癖字っぽい。これは、ひらがなはわりと低学年で覚えるから、その段階で癖がついたのだと思う。
一番大きな特徴として、一字一字を書くことに神経が囚われ、書面全体での統合性が無いように見える。書道なら一字ごとに神経を集中するのは好ましいだろうが、ペン字だと、下の写真のように字と字のバランスが悪いと特に目立つようである。つまり、活字のように、すべての字がひとつの四角の中に納まるイメージで書くと書面全体でのバランスも良くなるのだろう。このことを学校教育の最初で教えるべきではないだろうか。つまり、国語のノート(原稿用紙型)のマス目の八分目くらいを目安に、マス目の四角の中に字を収めるイメージである。マス目が無いノートでも、そのイメージを持つということだ。
しかし、繰り返すが、下の写真の漢字では一画一画を実に丁寧に書いていることがよく分かり、それ自体はとてもいい。(ひらがなだと気がゆるむのか、雑さを感じる。)字の下手な人間は、一画一画に神経を集中していないから、どんどん下手になるのだと思う。まあ、それ以前に「どういう字を書くべきか」というモデルが頭の中に無いのが字の下手な人間の特徴だと思う。
(以下引用)
子供隣組というのがあったのか。しかも日曜日に常会…
まあ、ネット情報か、何かの本で読んで知った知識をツィートしたのだと思うが、怪しい知識をさも事実であるかのように触れ回るのは問題だろう。そもそも、ハンガリー人に失礼な内容である。特に言いふらす必要性は無いと思う。
もちろん、外国人を異生物(怪物)扱いするのは世界的によく見られる現象ではある。
どちらかと言えば、(来葉氏の言うのに近いが、それとも少し違って)「オーク」との音の類似で作られた言葉と見るのが適切かと思う。「ホイミ」「ベホイミ」「ベホマ」「ベホマラー」「ベホマズン」という類の造語法ではないか。もちろん、「オーガ」が近世の造語だと言い張るつもりはないが、古代にも似たような造語法はあったと思うわけだ。
もちろん、外国人を異生物(怪物)扱いするのは世界的によく見られる現象ではある。
どちらかと言えば、(来葉氏の言うのに近いが、それとも少し違って)「オーク」との音の類似で作られた言葉と見るのが適切かと思う。「ホイミ」「ベホイミ」「ベホマ」「ベホマラー」「ベホマズン」という類の造語法ではないか。もちろん、「オーガ」が近世の造語だと言い張るつもりはないが、古代にも似たような造語法はあったと思うわけだ。
トールキンおたくの観点からするとこれは違って、オーク(Orc)と同じく、ギリシャ語に由来するラテン語の冥界の神オルカス(Orcus)が語源で、フランス語Ogreになり、英語に入った。 アカデミー・フランセーズ辞典の古い版に「ハンガリー人」との説明があるが、語源的には根拠不明のよう。
昔の作家はほぼ全員がアマチュア作家だったのだから、この頃に「アイデア先」「キャラ先」という創作技法問題があったのか疑問である。もちろん、少し時代が進むとモーパッサンのようにアイデア先行型と思われる作家もいるが、ほとんどは「物語」を書く意思で書いていたわけで、そこではキャラとアイデアは同時的に発生したのではないか。近代小説の祖とも言われる「ドン・キホーテ」は、明らかにキャラと物語が同時に生まれているはずだ。小説創作が商業化して後に「アイデアが先かキャラが先か」という意識は生まれたのだと思う。
そもそもツルゲーネフの作品には物語性は少なく、抒情性が主だと思う。つまり、詩を小説形式で書いたように見える。その「物語性の乏しさ」を「キャラ先」と言っただけだろう。もちろん、そういう作品も大きな価値があるのであり、現代の小説には逆に詩情がまったく欠如しているから、その中で比較的詩情のある村上春樹などが世界的に好感を得ているのだと思う。
そもそもツルゲーネフの作品には物語性は少なく、抒情性が主だと思う。つまり、詩を小説形式で書いたように見える。その「物語性の乏しさ」を「キャラ先」と言っただけだろう。もちろん、そういう作品も大きな価値があるのであり、現代の小説には逆に詩情がまったく欠如しているから、その中で比較的詩情のある村上春樹などが世界的に好感を得ているのだと思う。
私はアイディアから始めたことは一度もない。いつもキャラクターから始める。 イワン・ツルゲーネフ #本の名言
デイッケンズの「大いなる遺産」は、世界文学史上の奇跡的な作品のひとつだと私は思っている。なぜかというと、一人称で語りながら、それが単なる語り手の思い込みにしかすぎず、現実は別の姿である、ということが読者に分かるように描かれているからである。一人称形式の文学で、こういう達成をしたものを私はほかに見たことはない。
その最近の映画化を先ほど見て、途中まで見た段階だが、非常に誠実に作られた作品だとは思う。だが、同じ作品の映画化でも、私はデビッド・リーンの作品がはるかに上だと思う。さすがに一人称描写はしていないが、少年の目から見た世界の不可解さを見事に描いているからだ。
デビッド・リーンは後に「アラビアのロレンス」や「ドクトル・ジバゴ」などの大作映画で名声を確立したが、その本当の良さはこうした小品のほうが出ていたと思う。
その最近の映画化を先ほど見て、途中まで見た段階だが、非常に誠実に作られた作品だとは思う。だが、同じ作品の映画化でも、私はデビッド・リーンの作品がはるかに上だと思う。さすがに一人称描写はしていないが、少年の目から見た世界の不可解さを見事に描いているからだ。
デビッド・リーンは後に「アラビアのロレンス」や「ドクトル・ジバゴ」などの大作映画で名声を確立したが、その本当の良さはこうした小品のほうが出ていたと思う。
大いなる遺産 (1946年の映画)
大いなる遺産 | |
---|---|
Great Expectations | |
監督 | デヴィッド・リーン |
脚本 | ケイ・ウォルシュ アンソニー・ハヴロック=アラン デヴィッド・リーン セシル・マッギヴァーン ロナルド・ニーム |
原作 | チャールズ・ディケンズ |
製作 | ロナルド・ニーム |
製作総指揮 | アンソニー・ハヴロック=アラン |
出演者 | ジョン・ミルズ アンソニー・ウェイジャー ジーン・シモンズ ヴァレリー・ホブソン アレック・ギネス |
音楽 | ワルター・ゲール |
撮影 | ガイ・グリーン |
編集 | ジャック・ハリス |
製作会社 | シネギルド |
配給 | ![]() ![]() |
公開 | ![]() ![]() |
上映時間 | 118分 |
製作国 | ![]() |
言語 | 英語 |
『大いなる遺産』(おおいなるいさん、原題: Great Expectations)は、デヴィッド・リーン監督、脚本による1946年のイギリスのドラマ映画。チャールズ・ディケンズによる同名の小説を原作としている。
ストーリー[編集]
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|
「大いなる遺産」を参照
キャスト[編集]
※括弧内は日本語吹替[1](初回放送1963年4月29日『劇映画』15:30-17:30)
- ピップ:ジョン・ミルズ(大塚国夫)
- 若年期のピップ:アンソニー・ウェイジャー(笹川文子)
- エステラ・ハヴィシャム:ヴァレリー・ホブソン(平松淑美)- ハヴィシャム家の養女。
- 若年期のエステラ・ハヴィシャム:ジーン・シモンズ(杉田郁子)
- ジョー・ガージャリー:バーナード・ミルズ(福田豊士)- ピップの姉の夫。鍛冶屋。
- ジャガーズ氏:フランシス・L・サリヴァン(松本克平)- ロンドンの弁護士。
- エイベル・マグウィッチ:フィンレイ・カリー(北村和夫)- 脱獄囚。
- ミス・ハヴィシャム:マーティタ・ハント(東恵美子)- 大邸宅の女主人。
- ハーバート・ポケット: アレック・ギネス - 後のピップの親友。
- 若年期のハーバート・ポケット:ジョン・フォレスト
- ウェンミック氏:アイヴァー・バーナード - ジャガーズ氏の部下。
- ガージャリー夫人:フリーダ・ジャクソン - ピップの姉。ジョーの妻。
- ベントレー・ドランムル:トリン・サッチャー - エステラの婚約者。
- ビディ:アイリーン・アースキン(本山可久子)
評価[編集]
2011年2月に『タイム・アウト・ロンドン』誌が発表したイギリス映画のベスト100では25位となった[2]。
受賞・ノミネート[編集]
賞 | 部門 | 候補 | 結果 |
---|---|---|---|
アカデミー賞 | 作品賞 | ロナルド・ニーム アンソニー・ハヴロック=アラン |
ノミネート |
監督賞 | デヴィッド・リーン | ノミネート | |
脚色賞 | アンソニー・ハヴロック=アラン デヴィッド・リーン ロナルド・ニーム |
ノミネート | |
撮影賞(白黒) | ガイ・グリーン | 受賞 | |
美術賞 | ジョン・ブライアン(美術監督) ウィルフレッド・シングルトン(装置監督) |
受賞 |
出典
プロフィール
HN:
冬山想南
性別:
非公開
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