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これは事実である。この少女は、萩原朔太郎のような異常な感性を持っている。

(以下引用)

母親を毒殺しようとした少女のブログより抜粋(文中の「僕」は少女自身。表記は、転記ミスがなければ原文のまま)

 

 

 

7月26日

暗闇の大木に揺ら揺らと紅い光を馳せて蝉が光る茶色く干乾びた其の体に命の残り火を燻らせニイと啼く木々の沈黙の中其の声は雨の様に僕の下へと降り注ぐ

8月25日

変な夢を見ました。僕が彼女を食べる夢です。僕は彼女を手、足、胴体、頭の順に食べました。細い腕は魚みたいに痙攣していて、引きちぎれても未だ動きました。

8月31日

暗い部屋で、蝋燭の炎を見る。ゆらゆら、ゆらゆら、おもしろいよ…

9月4日

生き物を殺すという事、何かにナイフを突き立てる瞬間、柔らかな肉を引き裂く感触生暖かい血の温度。漏れる吐息。すべてが僕を慰めてくれる。

9月27日

隠れる事は喜びでありながら、見つけられない事は苦痛である。見つけられることは危険である。しかし其の逆に、自分が存在していることを確認するためには、誰かに見つけられるしかない。

10月某日

星が空から落ちる。兔たちはオーブンの中で草むらの記憶さえも硬化させる。

10月某日

人は輪になって踊る。丘の上で死体を数え、微笑みながら飲み交わす。撃ち殺された男の匂い、引き裂かれた女の匂い。

10月16日(最後の書き込み)

蒼ざめた馬の通る道に、規則は存在しない。暗闇を進む足跡は草木を枯らし、死を招く。其処に生命は宿らない。在るのは寂しい同じ形。 
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次に書く作品の主人公、あるいは重要人物として、ヘンリー・フォンダをイメージした人物を描きたい。つまり、強烈な「意志の人」である。人より一段深い視点を持ち、自分の信念を曲げない人物。ただし、その信念は他人に理解も共感もされない。だが、周囲から常に一目置かれ、凄みを感じさせている人物。
その他の人物として、ド・マルセーほか「暗黒事件」の人物のキャラを借用。フランス革命とロシア革命のような舞台。あるいは、満州事変のような舞台。

(以下自己引用)


今どきの若い人は、映画のクラシック(1920年代から60年代、あるいは70年代くらいまで)を見たことがない人がほとんどだろうから、以下の記事は、個人的感想、あるいはメモ書きである。
私は昔からヘンリー・フォンダという俳優が好きだったのだが、この俳優は、どこか得体が知れない印象がある。しかし、どの役柄も、彼の個性に合っているので、それは彼を使う側、主に監督が、彼の個性を把握していたのだろう。それは言語化できない個性かもしれないが、それを今、言語化するなら、彼には「信念の人」という役柄がよく似合い、彼がそうでない役を演じた例を私は思い出せない。もちろん、その信念はその人物の独断であり、場合によっては狂信かもしれないが、彼はその信念を一歩も譲らない、そういう役が似合うのである。
そういう意味では悪役も似合うが、詐欺師は、あまり似合わなかった。むしろ、「テキサスの五人の仲間」は、彼の一般的印象を逆利用した作品だったが、実に似合わなかった。というより、まったく詐欺師に見えないのであるから、種明かしをされても「何だ、これは?」という感じになったのである。種明かし自体が嘘に見えるのだから、これは成功した作品なのか、失敗した作品なのか。
で、「信念の人」には女は似合わない、むしろ邪魔である。だから「荒野の決闘」のようなほのかな片思いは似合うが、はっきりと女性を相手にしたラブロマンスやラブコメは似合わないようだ。少なくとも私は彼のそういう役柄の作品を見たことがない。女性を相手にしたら、融通無碍、臨機応変性が求められるのであり、「信念の人」がいかに女性にとって厄介かは想像できる。まあ、昔の政治家の女房、夫唱婦随の封建社会の女性しか彼には合いそうもない。だから、彼は実生活では結婚に何度か失敗しているはずだ。人並みに女に惚れても、ハリウッドの女性が彼に合うはずがない。つまり、彼が演じた役柄と、彼本人の個性は非常に近い、と私は見ているのである。
この投稿者は「遠慮深さ」や「シャイさ」を「冷たい」「堅苦しい」と感じる人なのだろうし、外国人(あまりに大雑把な言い方だが)はそれに対して非常にフランクで親しみやすいと思うわけだろう。だが、どちらがより快適かは人それぞれなのではないか。まあ、概して日本人は慎重であるから、それが「失敗を恐れる」性格になるわけだ。それは「失敗を許さない」「チャレンジングでない臆病さ」になるのだろう。
最初の提言というか、質問者が「間違い」というわけでもないが、コメント6が、一番的を射ていると思う。

(以下引用)


ハーフ帰国子女「日本人は外国人と比べて堅苦しく冷たい。なぜ幸せに暮らせる外国から日本に来る人がいるのか想像できない」


日本


翻訳元



    1. スレ主

       日本人は外国人に比べて堅苦しく、話していて重い感じがするのは私だけだろうか。


       まず、私はハーフの日本人で、別の国で生まれ育ち、その後日本に移住し、13歳から21歳まで日本に住んでいて、大学を卒業したら日本から出ていくつもりだ。

       私も真面目すぎて嫌われ者なので、日本人から同じように扱われており、偏った経験をしているだけかもしれないが、日本人は些細なことをとても真剣に受け止めているように感じることがある。

       職場や学校など、日本中心の環境には、息苦しいほど重苦しい雰囲気がある。


       私が通っている大学ではネイティブの日本人教授、外国文化に多く触れた日本人または日本人とのハーフの教授、そして日本人以外の教授(ほとんどが西洋人)が混在している。

       日本人教授は非常にそっけなく、冷たく、質問しようとするとイライラしているようで、一般的に権威があるように振る舞う。

       外国人教授はのんびりしていて、質問や議論にオープンで、学問に関しては真剣でありながら、個々の学生をより大切にしているようだ。

       部分的に日本人な教授は中間だ。


       学生も同様だ。

       日本人の背景を持つ学生は、議論をするときは私と話すのを避け、グループでのみ話す傾向がある。

       私は長いグループプロジェクトで高校タイプのいじめを目撃した。

       女子生徒の1人が自閉症の特徴を持っており(私は彼女の行動に基づいて彼女を判断しているだけ)、そして少し無知だった。(外国人の基準では、彼女はグループにいると少し迷惑だが、それでも尊敬されるメンバーであり、いじめやその他の類のことはない)

       日本人の学生は警戒心が強く、非常に批判的であるように見える。

       外国人の学生はのんびりしていて、あからさまな嫌な奴でない限りは誰でも受け入れる。


       これは学校文化だけではない。

       私はたくさんのアルバイトをしてきたが、どの職場にも真面目で、明るく、冗談を言う日本人がいるけど、特定の行動や発言をしないと仲間外れにされるという雰囲気が常にある。

       基本的に「空気を読め」的なやつだ。


       また彼らは手順についてかなり神経質になるが、少しやり方が違っていても正直言って結果はまったく変わらない。

       「少し」というのは、本当に少しだ。

       彼らの特定のやり方で100%やらないと、彼らはあなたが間違ったやり方をしていると考える。

       私は外国人のマネージャー(正社員)が数人いる仕事を始めたことがあるが、彼らはあなたがやりたいようにやらせてくれて、結果が満足のいくものでない場合にのみあなたを正してくる。

       それが職場文化全体に影響を及ぼし、2人の外国人正社員を除いてすべて日本人であるにもかかわらず、私が働いた中で最ものんびりとした職場だった。


       最後に家族生活もそうだ。

       他国と比べて、家族との交流は非常に取引的な感じがすることがよくある。

       彼らは愛情をほとんど示さない。

       これについて日本人に質問すると、彼らはいつも「ああ、でも彼らは愛情をとてもさりげなく示しているんだよ!」と言う。

       家族を持つことが、特別な社会的義務を負い、あちこちでほんの少しの気遣いを示す知り合いと一緒に暮らすようなものだとしたら、いったい何の意味があるのだろうか?


       はっきりさせておくが、私はすべての日本人、家族についてこう言っているのではない。

       私はここでの生活経験が十分にあるので、常に多くの例外があることは知っているが、同時にここで長期にわたって快適に暮らすことは私にとってあまりにも普通すぎる。


       これは一般的な話題であり、人それぞれ好みがあることは知っているが、他のほとんどの国でどれほど気楽で幸せに感じられるかを経験した人が、なぜこのような文化に対処し、日本に住むことを選択するのか想像するのは難しい。

       これについてもっと多くの視点を提供してくれることを心から願っている。

       そうすれば、このことに対する認識を広げることができるだろう。


       (日本生活フォーラムへの投稿です)





    1. 海外の反応

       興味深いことに、これはここで生まれ育った日本人からも聞いた意見だ。

       何人かの親しい友人が、他の日本人と話をするときや、日本国内で一般的に活動するときに、外見に気を配り、間違ったことを言わないようにしなければならないので、とてもストレスを感じると話していた。

       とはいえこれがすべての人に普遍的に当てはまるわけではないことを知っておいた方が良い。


       また、あなたの質問に関してだが、より遠い文化を好む人もいる。

       「典型的な日本人」と関わらなくても、自分の社交界で満足する人もいる。

       選択肢がほとんどないか、ほとんどないと感じている人もいる。


       多くの人にとって、それは物事のあり方に慣れることの問題だ。

       私は母国に戻ることはないが、妹は母国に帰るだろう。

       なぜなら母国は彼女にとって馴染みのあるものであり、彼女が自分と同一視するものだからだ。

       母国で私が非常にネガティブな社会的ポイントだと考えるものを、彼女は笑って許せるのだ。

       だから、誰もが異なる限界点を持っているということだ。


    1. 海外の反応

>>2
      >何人かの親しい友人が、他の日本人と話をするときや、日本国内で一般的に活動するときに、外見に気を配り、間違ったことを言わないようにしなければならないので、とてもストレスを感じると話していた。


       私の妻も同じ状況で、それが彼女が外国人と付き合ったり、交換留学したり、海外で暮らしたりするきっかけとなった。


       最近は日本人の知り合いと何かをしなければならないときはいつも、私が思いつかないような配慮や期待が山ほどあり、妻は普段は絶対にしないような日本人モードになっている。


       一方、外国人がいる場合はいつもとてもリラックスして気楽な雰囲気で、彼女は見栄を張るのではなく、いつもの自分らしくいて本当に楽しむことができている。

       

    1. 海外の反応

>>3
       それはもしかして自分の妻のことだろうか?


       日本の文化や会話は、常に神経をすり減らす行為だ。

       復讐心に燃える悪魔がすべての言葉にまとわりつき、避けられない間違いを待っているかのようだ。

       それは言語にしっかりと固定されている。


       オーストラリアでは、問題があれば、たいていは言い争っても後戻りすることができる

       「そんなこと言ったっけ?私が言いたかったのは…」


       しかし日本では最終的にすぐに判断され、取り消しはできないようだ。

       私の場合のように、あなたが日本語能力が乏しいことを人々が知っていてもだ。


       日本人がお互いの背中を叩き合い、笑い、抱き合って、無理な気取りをやめればいいのにと思う。

       ヒップ​​ホップなどに夢中になっている若い日本人が、外向的な威勢の良さと率直さをコミュニケーションに取り入れているのを見るのは興味深い。

       日本に起こった最高の出来事かもしれない!


    1. 海外の反応

>>4
       だから私はヤンキーが好きなんだ。

       茨城の田舎の人たちはラフで洗練されていない。

       東京の人々の大部分は彼らの周りに大きな壁があり、親近感を持つには異質な存在に見える。

       田舎のヤンキーの場合、その壁はもっともっと低い。

       スケートボーダー、建設作業員、トラックの運転手は最高だ。


    1. 海外の反応

       日本人として、私はある意味逆のように感じている。

       この投稿を読んでも、逆のように感じた。


       あなたはすべてを非常に真剣に、重く解釈しているようだ。

       日本の社会的合図を学んで育った人にとっては、公共の場では一日中のあらゆるやり取りに自分の感情や個人的な気持ちを巻き込むよりも、他の人と調和して働くために形式的に行動する方がはるかに簡単だと感じる。

       誰かが意地悪?それで、それが実際に自分にどのような影響を与えるのか、そして実際に立ち上がって反対するほど問題なのか?

       99%の場合、答えはノーだ。そうであれば、別に考える必要もない。


       私も人生の半分は米国で育ったが、西洋人は日本の文化がいかに「冷たい」または「真面目」であるかを大げさに誇張する傾向があると思う。

       なぜなら、彼らは自分たちの社会的交流を「本物」で「誠実」だと考えているからだ。

       もちろん一部の人にとってはそうだが、私の経験では西洋人が考えたいほど多くはない。


       私はアメリカの大学に通っていたが、アメリカでも「変な人」や「空気が読めない」という理由で同級生を仲間外れにすることは絶対にある。

       意地悪な女の子の文化や有害な男らしさはまったく異次元レベルだ。

       なぜなら西洋人は客観的に「正しい」、「間違っている」という概念を持つ傾向があり、自分が正しいなら他の人は間違っているはずだという考え方を持っているからだ。

       日本人は確かに不快な状況を避けるが、ほとんどの人はそれが自分の好みかどうかの問題であり、自分だけが知っていて他の人は知らない「真実」などではないと認識している。


       家族に関しては…それは完全に家族次第であり、あなたが日本人の問題だと思っているもので苦労している西洋の家族はたくさんいる。

       自分の気持ちをオープンに明確に伝えるのに苦労している家族もあるが、日本の多くの家族は「友達家族」だ。

       私の親友の一人は、母親といると楽しいという理由だけで、時々パーティーに母親を連れてくることもある。


       あなたが日本語をどれだけ上手に話せるかは分からないが、言語の壁も大きな要因なのに、このフォーラムでは人々はしばしばそれを大した問題ではないかのように扱っている。

       私たちが最初に米国に引っ越した後、私の弟は英語に苦労し、自分の考えを思うように表現できないので、極度の孤立感を感じ、アメリカ人にバカ扱いされているように感じていた。


       32年間、文化間を行ったり来たりしていると、物事が変われば変わるほど、変わらないものも増えるということを学ぶ…時には、表現方法や伝わり方は文化リテラシーによって異なることがあるが、人は文化の線できちんと分けることはできない。

       慣れ親しんでいない国や文化に住んでいると、経験のすべてが文化の違いによるものと考えがちだが、それは実際にはほんの一部にすぎない。

       平均的な日本人が「日本の常識」と考えるものを完全に欠いている日本人もいるが、現実には日本人の基準だとそのような人も他の人と同じように日本人なのだ。


     私のアドバイスは、やり取りを額面通りに受け取るようにすることだ。誰もがただ一日をやり過ごそうとしているだけだ。
いつの間にか、非日本人経営者(株主)がこれほど増えていた。記事では「役員」と書いてあるが、実質、経営者か株主筆頭だろう。




12: 名無しさん 2024/09/29(日) 03:42:26.88 ID:eZY7WXzQ0
年収140億の働きをする男は言うことが違うぜ
「はてな匿名ダイアリー」のコメントのひとつだが、長文の脚本論はネットでは珍しいので転載する。内容に妥当性があるかどうかは、対象作品を見ていないので分からないが、「スオミの話をしよう」は、あまり面白くない、あるいは多くの人に面白さを感じさせない内容のようだ。読んでいても、多重人格者のヒロインというのは、「爽快感」が無さそうに思える。まあ、チェーホフの「可愛い女」の三谷バージョンを作ってみたいという実験作だろう。根が暗いチェーホフの作品を土台にしてコメディとして成功する可能性は少ないと思う。三谷作品の本質は喜劇というより笑劇なのである。チェーホフ的なテーマとの相性は悪そうだ。
下の引用文の、「人物キャラの説得性が無い」という趣旨も、そう(正鵠を射ている)かもしれないが、そこに「ステレオタイプ」という概念を持ち込んだのは少し首をひねる。たとえば、ハンニバル・レクターなり誰なりが見事に造形されていたら、その真似は視聴者に馬鹿にされるのではないか。つまり、その模倣が好評だったなら、それはオリジナルとは違う個性も持っていたからだろう。味付けの問題だ。基本的に「ステレオタイプ」は演技論やフィクション論では悪口なのである。
たとえばRPG的な内容の異世界転生物は無数にあるが、「ダンジョン飯」のキャラは同種の作品キャラのステレオタイプになっていないから面白いのである。女性キャラの扱いのひどさなど、見事にステレオタイプを脱している。主人公ライオスもそうである。周囲の人間にサイコパス扱いされ、常に疑惑の目で見られるキャラがグループのリーダーなのだ。「ダンジョンの中の人」も同様である。つまり、ステレオタイプになっていないから面白い。

(以下引用)

2024-09-23

スオミの話をしよう』は何故つまらないのか(ネタバレあり)

映画スオミの話をしよう』を観た。稀代の脚本家三谷幸喜氏がメガホンを取ったとは思えないほど、つまらない作品だった。何故、これほどつまらないのだろうか。端的にいえば、寒川しずお以外の人物像に説得力がないかである

もっと説得力がない人物像は、主人公スオミである。何故スオミ結婚を繰り返すのか。何故、多重人格のように出会う男に合わせて性格だけでなく、話す言語さえも完全に変えることができるのか。なぜ、身代金要求狂言誘拐を起こしてまで生まれ故郷ヘルシンキに行くための資金を捻出しようとしたのか。

本来、これらの問いに対して観客を説得するようなエピソードを描くべきだった。しか脚本は「そういう設定」といって長澤まさみ氏の演技力で観客を説得しようとし、失敗した。寒川しずお以外の他の登場人物も同様である

なぜ、設定と演技力による人物像の説得に失敗したのか。その理由は、スオミ人物像を連想させるステレオタイプが十分に確立されていないからであろう。例えば、本作品で唯一、人物像に説得力がある寒川しずおはエキセントリックな有名詩人だが、エキセントリックな有名文学者というステレオタイプ文学史フィクションを通して十分に確立されているので、設定と坂東彌十郎氏の演技力だけで観客を説得することができた。しかスオミのような人物ステレオタイプは、史実にもフィクションにも見出すことができない。

この映画比較すると、ドラマ地面師たち』はエピソードによる説得と、ステレオタイプに乗っかって設定と演技力だけで行う説得を優れた形で組み合わせている。辻本拓海がなぜ地面師になったのか、石洋ハウス青柳隆史は何故港区土地を喉から手が出るほど欲しいのか、これらの経緯を説明するエピソードを描いて視聴者を説得している。他方でハリソン山中場合、『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクターなどの極めて高い知性と身体能力を持つ超人的な快楽殺人者というステレオタイプに乗っかって、設定と演技力だけで視聴者を説得することにも成功している。

個人的には、フィクションには説得力重要と考える。フィクションなのだからエキセントリックな有名文学者超人的なシリアルキラーだけでなく、人間のような意思を持つおもちゃ超能力者など物理的に存在しえない人物さえ設定で盛り込むことができる。しかし、これらは観客に対して説得力を持たなければならない。その方法は、既に確立されたステレオタイプに乗っかって設定と演技力で観客を説得するか、エピソードを描いて「だからこの人はこういう風になったのです」と説得するか、これらのいずれか(又は両方)をしなければならない。

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